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イスラム・コラム No.3 「欧米では不満の声があがっている」

これも20年前のクーデターをめぐる話だけど、ジャーナリズムに徹底フォーカスしている。そして、読み返してまた驚いたのだが、今も日本は全く変わっていない。いや、悪化しているではないか。日本のジャーナリストは、20年前から今まで、誰一人これを読まなかった模様(笑)。

Friday, October 29, 1999
イスラム・コラム No.3 「欧米では不満の声があがっている」
JapanMailMedia 033F号から転載。
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 ■ 特別寄稿               山本芳幸
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No.3 「欧米では不満の声があがっている」


1999年10月22日(金)

 日本人のジャーナリストに会う。
 JMMに僕が書いたものを読み、抗議の電話をかけてきたので、サシで決着をつけることにした。

 案の定、面会と同時に乱闘状態になり、ようやく流血の惨事が発生し、これでやっと記事が書けると彼は喜んで帰っていった、みたいなことは何にもなかっ た。実際は、国連クラブという、酒あり女あり---いや、女はない、かわりに豚肉がある---のイスラムもパキスタン文化も完全無視の植民地主義全盛かと思われる、たわけた治外法権地で晩飯を食いながら、彼を取材しただけであった。いや、彼が僕を取材したのかもしれない。

  もうほとんどみんな帰ってしまいました、とその日本人は言った。今、残っているジャーナリストはみんなムシャラフとの会見を狙っているそうだ。地元の新聞記事はムシャラフが自宅でBBCと会見した模様などを詳しく伝えていた。それには、今ムシャラフは一生懸命マイルドなイメージ作りに励んでいるように書い てあった。結構簡単にインタビューなんかできそうな気がしたが、そうでもないのだろうか。JMMから突撃インタビュー要員を送ったらどうだろう?

  日本の新聞はどうしてあんなに薄っぺらいんだろう、と僕は言った。いや、そんなことはない、日本の新聞は30ページくらいある、厚い方です、アメリカの新聞は分厚いけど、ほとんど広告でしょう、というようなことを彼は言っていた。どうも気に障ったみたいなので、いや、そうではなくて、内容が薄っぺらいのですと言いかけたが、場が悪化しそうなので止めた。

 記事が断片的で文脈が見 えない、たぶん普通の読者には何も伝わらないのではないだろうか、と言ってみた。客観主義の建前がそういう記事を作ってしまう、日本の新聞では意見のよう なものは別枠で載せるようにできていて、記事と分離している、というように彼は説明した。だからあ~、そこを~、と高校生風に喋ってみたくなったが、やは り止めた。

 客観的な記事なんて書けるでしょうか、ファクトなんて言ったっ て、並べ替えただけで別の印象を作ることできるでしょう、とネチネチと迫ってみた。確かに客観的な記事などありません、と彼が言うやいなや、どうせ書けないのに書いたふりをするのはたちが悪い、欧米のメディアの強引な文脈形成には腹が立ちますが、もうそれはそれとして分かっているので、読者は自分の責任でその記事を受け入れるかどうか判断できるのです、あなたも客観主義止めてみませんか?のようなことを言ってみた。

 いや、そうは言ってもタバコを止めるような具合には行かないのです、と答えてくれたらおもしろかったのだが、彼は日本もだんだん変わって来てます、と言って僕の挑発には乗らなかった。

 それにしても、歴史の流れの中に「事件」を位置づけるというような作業をしないで放り出されたファクトって何か意味あるんでしょうかと言ってみた。僕もかなりしつこい。あっ、それ上司がよく言ってます、と彼は言う。カクンと僕のひざが抜ける音が聞こえた。

 確かに我々に勉強不足のところがあるんです、と彼は言った。そこで僕は、だったら勉強すればいいじゃないか、とは流石に言わなかった。もっと根性の悪そ うな人だったら、「お前は何様だ!」という絶叫を引き出すまでねばったかもしれないが、この人は根性悪ではなかったので、もうこの話は止めることにした。

 彼はほっとしたのか、いや、なかなか記事にできないことは、他の形で書いてフラストレーションを消化しているというか、そんな感じなんですねえええ、と彼はパキスタンで食べるポークのスペアリブという奇跡に気づかず、つぶやいていた。だから、食べ物一つでも文脈を見落とすと・・・くどい。彼も日本の善良な一会社員なのだった。


1999年10月25日(月)

 驚いた。龍さんから督促状が届いていた。また、育英会からの催促かと思った。いや、実際は督促でも催促でもなく、控えめな舵取りみたいなものだが、なんか先日の底意地の悪い会話を聞かれていたような気がしてオロっとした。ちょっと長いけど、引用してみよう。

>今日の朝日新聞朝刊と日経には、
>
>「ムシャラフ参謀総長が25日から3日間の予定で、
>サウジとアラブ首長国連邦へ訪問する。
>無血クーデター以来初めての外国訪問」
>
>という短い記事が載りました。
>NY Times をウェブでチェックしようと思ったのですが、
>キューバのバンドのコンサートがあって時間がありませんでした。
>
>パキスタンやアフガニスタン情勢の報道について、
>アメリカのメディアと日本では何か違いますか?
>あ、そうか、山本さんは日本のメディアの様子がわからないんですよね。

 ウェブで日本の新聞記事を見ることはできるけど、確かに様子はよく分からない。
 それはもちろん主観アパルトヘイトのせいだ。味も色も臭いもないような「客観的」な記事が列挙してあるだけでは、様子というのは分かりにくい。日本の新聞社にマンデラはいないのか。

 とまた何様的なことをいっても、日本の新聞をほとんど見ていないので、いくつか日本の新聞サイトをのぞいてみた。うっ、マンデラはいるらしい。●●の視 点とか、そんな感じの「主観です用語」をタイトルにしたコーナーをいくつか発見した。しかし、ああでもないけど、こうでもないけど、ああでもないから、こうでもない、みたいな主観揉み消し工作癖が抜けないような「視点」であった。どれを読んでも六字以内でまとめると「色々あった。」になりそうだ。

  視点を明瞭にできない、というのは客観主義とは何の関係もなくて、自分の発言の責任は自分が引き受けるという当たり前のことから逃避しているだけではない のだろうか。だから、話題がなんであろうと、結論はいつも「人それぞれ色々ありますね」みたいなことで逃げ道を最大限確保し、色々間の闘争にはちっとも 入っていかない。このフニャラフニャラとした態度、何があっても自分には絶対責任などないという態度、あらゆる立場を自分は理解しているのだけど、どれにも 自分はコミットしないという態度、自分は常に偏向から免れていて公正中立な立場に立てると信じこむ態度、こういうのは新聞よりテレビの方がいっそう丸だし になっていたような気がする。

 普通の日本人は、とっくにそういうウソまるだしの社会の公器的茶番にうんざりしていたと思う。でなければ、「識者」という職業の人がたくさん集まって徹底討論と称して延々と朝まで一方通行の咆哮大 会をやってるような番組を見たいと思う人はそんなに多くはいなかっただろう。なんでもいいからとりあえず意見を言う人を見てみたかったのではないだろう か。

 しかし、こういう趣向の番組も飽きられてしまったようだ。理由の一つは、対話が持つ緊張が、「私の意見」の一方的開陳には本質的に欠けているからだろ う。テレビ局は、また新しい目玉商品を作るのに大変なんだろうが、視聴者が主観垂れ流しにもすぐ飽きたということ自体はいいことだと思う。

 上滑りの奇麗事、つまりウソくさい言葉が社会を覆うことが危険なのは、人々がそういうことにうんざりして、その反動でなんだか強いことをガンガン言ってくれる人が登場した時、ホロリと行ってしまうことなのだ。

 そういうことが我が国でも外国でもあったではないか。だから、これもあっさり飽きたというのは、日本の普通の人々は「識者」業界の人ほど鈍っていないということではないか。


1999年10月26日(火)

 クーデター直後の日本の新聞記事はウェブで見たが、みんな揃って「軍部強硬派やイスラム原理主義勢力」 vs 「シャリフ首相」という図式を採用しているのが奇異に感じた。これはインドとの対立という一つのキーだけに依存してパキスタンを見ていたからだろう。

 「カーギル(カシミールの紛争地)からの撤退→インドへの屈服かつアメリカへの屈従→軍部強硬派・イスラム原理主義勢力が不満持つ→シャリフ首相倒せ→ クーデター」というストーリーを前提に記事は書かれている。その結果、「軍部強硬派やイスラム原理主義勢力の動きが懸念」され、そこから一気に「核はどう なる?」という話に飛ぶ。

 しかし、このストーリーは一つの視点の採用に過ぎない。
 客観主義など最初っから崩れているのは言うまでもない。その後の経過を見れば、ムシャラフの最優先課題が内政の立て直しにあるのは明らかだ。腐敗しつく した官僚機構を立てなおすことが最も緊急な課題となっている。そして、カシミール紛争をめぐっては最前線からの一方的な自主的撤退を宣言して早くも実行した。つまり、日本の報道が前提にしていたストーリーは勘違いもいいところだ。

  なんらかの情報源を鵜呑みにして、密かにそれに依拠して記事が書かれる。そうすると、元の情報源の視点がそこに乗り移る。そういうことが起こっている。そ れが客観主義の実態に過ぎない。シャリフ元首相に対する不満は、司法への介入、政府機構の私物化(組織的な汚職)、メディアの弾圧、経済政策のずさんさ、 など複数の原因が元になっており、インドとの関係だけが問題ではない。そして、もっと重要なことはシャリフ元首相を最も嫌ってきたのは、一般の国民であったということだ。

 日本のメディアが軍部の一部強硬派によってクーデターが起こされたというような印象を日本人に与えていたとしたら、それはほとんど事実の捏造だ。

 17日のムシャラフの演説に関して、案の定、具体的な日程が含まれていなかったことを指摘する日本の新聞記事があった。その記事はそれをこのように伝えていた。

 「欧米では不満の声もあがっている」と。

 欧米っていったい誰のことなんだろうと思う。
 欧米にはいろんな国が含まれているが、まさかみんなが声をそろえて不満を言っているということを言いたいのだろうか。その中の一部の国が不満を言っているのなら、なぜその国名を出さないのだろう。それに国そのものが声を出すわけではない。声を出すのは人間だ。いったい誰が言ったのか。

 一般の通行人にインタビューしたのか、学者が言ったのか、政府の公式発言なのか。言うまでもなく、そんなことを追求してもしょうがないのだ。

 これは日本人なら馴染み深い、レトリックの一つなのだから。
 「みんなそう言ってる」という表現を我々は持っている。「欧米では・・・」は、あれの親戚なのだ。子供が何か親に買って欲しい時、「みんなエアナイキ履いてる」、ピアスをして親に咎められた時、「みんなしてる」、ウリがばれた時、「みんなしてる」・・・・。あれだ。

 この表現は形式としては、単なる「客観的」な描写だ(descriptive)。しかし、描写という形をとって、なんらかの意見を主張している (prescriptive)。「エアナイキが欲しい」というかわりに「みんなエアナイキ履いてる」、「ピアス(ウリ)してどこが悪い」というかわりに 「みんなしてる」、そして「私はこう思う」というかわりに、「みんなそう言ってる」。

 このタイプの表現は、自分の意見の根拠を「みんな」に求めている。「みんな」という特定集団があるわけでなく、それはなんとなく「世間」のことを指している。

 日本が「世間」が意見妥当性の根拠として使える社会だからこそ、存在する表現とも言える。このような表現を使うことを一方的に子供じみているというわけにはいかない。なぜなら、「みんな」がそうならしょうがないと認める社会、あるいは「みんな」と同じであるべきという規範を持つ社会がはじめにあるからこそ、子供はこういう表現の有効性を察知して使うのだ。自分の意見を検討する時に例えば「神」を参照する社会で育った子供なら、ウリをしてるのがばれても 「みんながウリしてる」は使えない。なんとかして「神がウリを認めている」という理屈を発見せざるを得ないはめに陥る。おそらく不可能だろうが。

  「みんなそう言ってる」型の表現は、意見の表明であるにもかかわらず、形式上は描写であるために、責任追及の手を逃れられるという特性を持っている。あなたはそう言ったじゃないか、というような追求をされたら、「いや、みんなそう言っていると言っただけで、私がそう思っているとは言ってない」とかわすこと ができるのだ。

 「みんなそう言っている」が使われた文脈では、その表現は「私はそう思っている」ということを伝える道具になっているのだが、まずくなれば「みんなはそう思っているかもしれないが、私はそう思っていない」と逃げることができる。なんと都合のいい言葉だろう。この表現の責任逃れ体質が嫌われることを察知し た子供は、成長するにつれ、だんだんこういう言い方をしなくなっていくのだろう。

  さて、「欧米では不満の声があがっている」は何だったのか。正確な事実の描写でないことは明らかだ。この一文によって、なんだムシャラフの演説はたいしたことなかったのだ、という印象が十分伝えられる。しかし、記者にそうだったのかと聞けば、いえ私はそうは言ってません、欧米がそう思っているのですと切り 返すだろう。

 「欧米では」が「みんな=世間」の役割を果たし(だからこそ、どこの国の誰かということが特定されない)、「欧米=みんな=世間」に責任をかぶせ、どこで拾ってきたのか分からない印象を適当にばらまく。しかも、これらはちゃんと「客観的」な装いをもって行われる。予め責任逃れの体制が整備されているの で、その内容、それがばらまくであろう印象、そのインパクトなどが熟考されていない。

 つまり、「欧米では不満の声があがっている」は、幼児性を脱しないメンタリティの現れとも言えるし、究極の審判者の位置に「神」でも「理性」でもなく、「世間」が座っている社会の必然の産物とも言える。

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山本芳幸(在イスラマバード)
・UN Coordinator's Office for Afghanistan / Programme Manager
 (国連アフガニスタン調整官事務所 / プログラム・マネージャー)

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山本芳幸氏は友人です。文藝春秋に連載中の『希望の国のエクソダス』のパキスタン北西辺境州の取材の際にもお世話になりました。氏のレポートは龍声感冒 http://www.ryu-disease.com/jp/kabul/(*) でもご覧になれます。
パキスタンのクーデターだけではなく、イスラム世界の現状について、山本氏のレポートを不定期連載します。わたしのとのメール交換の形になるかも知れません。
                               村上 龍
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