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【小説】インクルージョン〜内包されたもの〜1

 幼い頃、近所の雑木林に群生している紫陽花の青色が好きで、私は飽かずにその色を眺めていたものだ。雲が重たげに空を覆い、雨にけぶった世界の中で、木陰の紫陽花がくっきりと際立っていた。

 湿り気を含んだブルーグレイのヴェールが世界を覆い、私自身の心も物憂い空気に侵食されている。けれども、こどもの私は世界との境界線がなくなって、物憂い色に染まるのを喜んでいる。絵の具バケツに垂らした絵の具の色が、じわじわと広がっていく様を楽しむように。雨の日の秘密の遊び。

 滲んだこころ模様でふらふらと歩いているところは、大人たちの目には頭のネジが幾分ゆるんでいるように見えただろう。でも、そんなことはお構いなしで、お気に入りのカエル色のゴム長を履いて、私は雨の日のお散歩をする。

 カーブする山道の先にあの紫陽花が現れるまでは、たしかに世界は滲んだようになっていた。だのに、影の一層濃くなる針葉樹の根元に、はっとするような青が現れると、ぼやけていた画像はオートフォーカスでピントが絞られていく。一瞬にして、その青色が支配する。

 空の青とも、海の青とも違う。雨にけぶる木陰の紫陽花には独特の美しさがあった。私のこころのどこかに眠っていた色、探していたはずの色だ。そんな想いと紫陽花の色は不思議に呼応しあって、心象にしっかりと刻みつけられている。

 瞳を閉じていても、色彩は私の中にとどまり続ける。大人になってからも、時々、眠っていた記憶が揺り起こされるように、青が襲ってくることがある。それは大切な失くしものを見つけた喜びというより、どこにも存在しえないものを捏造してしまった不安に近かった。

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 にがよもぎ博士の診療所には看板がなかった。

 ところどころに緑地の残る武蔵野の住宅地に、にがよもぎ博士の住居兼診療所はあった。瀟洒な住宅街の中で、その建物はこぢんまりとして目立たない。決して見劣りするような建物ではないのだが。

 にがよもぎ博士の家は控えめで主張が少ないのだ。うっかりすると見落としてしまいそうになる。

 私はメモを見て、建物の番地を確認する。間違いないようだった。

〈つづく〉

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