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【小説】インクルージョン〜内包されたもの〜2

 私が原因不明の不調に悩まされるようになったのは、1年ほど前のことだ。私の仕事は、専門知識を必要とするような難しい作業ではない。替えのいくらでもきく、お店のカウンターに立つ仕事だったのだけれど、誰にでもできそうなその仕事がどうにも難しくなってしまった。

 いくつかの路線が乗り入れる大きなターミナル駅のビルに入っているその店は、場所柄もあってお客がひっきりなしにやってきた。忙しい日にはレジの前に列ができることもあり、私は何も考えずに目の前の作業に集中して、次から次にやってくるお客の差し出す商品と金額を、間違いのないようにさばいていけばよかった。

 すべてがうまく流れている時には、一連の作業には独特のリズムが感じられた。私はただそのリズムに身を任せていればよかった。それがなぜか、気がつけば調子が狂ってしまって、つまらないミスをすることが増えた。うまくいっていた頃に感じていたリズムがどんなものだったか、今ではすっかりわからない。目の前のことに集中しようとすればするほど、ピントがぼやけて目の前の現実から遠のいていってしまう。

 頭の中は靄がかかっているみたいに、すっきりしない。もたもたとした店員の動きにイライラするお客さん、いくら数えても合わないレジの中の小銭、またかという顔であからさまにため息をついてみせる店長。毎日がまるで夢の中で立ち働いているみたいに感じられてくる。

 もやもやとした頭の中で、様々なものがざわめいている。まとまりのつかない想い、過去のどこかで見た映像、脳が勝手に作り出した妄想、正体不明の物狂おしさ、それからどんな感情も一瞬で無効にしてしまう砂嵐。

 何も考えないでいるという状態が、思い出せない。脳は休みなく訳のわからないイメージを量産している。騒々しい状態をオンとオフでコントロールしようと思っても、配線がどこか壊れているのか、どうすることもできない。

 私の様子を見かねた仲の良い同僚が、父親の知り合いであるという博士の診療所を紹介してくれた。彼女の父親は呼吸器科のお医者様をしており、私の状況を説明すると、「知り合いに変わった人間だが、いい心理療法士がいる」と紹介してくれたのだ。それが、にがよもぎ博士というわけだ。

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 不調の原因を自分なりに考えてみる。
 不調を自覚する少し前、舞台俳優を志して劇団の研究生をしているMと、ごたごたの末に別れた。二年半くらい、付き合っていた。人の中で揉まれ、人前で演じているMは、私の閉じた小さな世界からは眩しくもあり、時に騒がしすぎたのだと思う。

 世界の見え方、解釈の仕方が遠すぎたのかもしれない。口に出さないようにしていたけれど、そういう違和感は態度に滲み出てしまうようだ。Mはよく寂しそうな表情を浮かべていた。

 彼氏と別れる別れないで揉めている最中に、私は学生時代に憧れていたひとに偶然出逢った。都内の私立大学の講師でFという。私が大学に在籍していた頃に大学院生でドイツ文学を研究していた。久しぶりに街の書店でばったり出逢い、ご飯を食べて近況を報告しあった。

 「作家の文体」というテーマで話し込み、軽くお酒を飲んだ。Fの声は低くて私の心のどこか深いところに向かって語りかけるように思われた。こちらが耳をそばだてなければならないほど小さな声なのだが、専門の分野のことは言い淀むことなく語る。尊敬できる知人のひとりだった。

 その夜、何か奇妙な力が働いて、私たちは関係を持つことになってしまった。あとで知ったのだが、Fには家庭があった。
 私の素行はまったく褒められたものではない。さらに自分自身をうんざりさせるのは、演劇青年のMにしても、家庭のある大学講師Fにしても、相手にそれほど強い執着を感じていないということだった。

 Mとは時が来て行き着くべきところに行き着いた感覚があった。もっとMのストレートな感情表現を喜んで、負けないくらいの熱量を傾けて惚れ込んでくれるひとに出逢ってくれるといい。自分勝手にそう思った。

 Fとは、その後でどうこうなろうとは考えていなかった。きっと向こうもそうだったのじゃないかと思う。家庭を壊すようなリスクを背負ってまで、私に執着しているようには見えなかった。それぞれにお互いの狡猾さを読み取って、そっと離れていくのだろう。

 彼らとの関係が、不調のすべての原因とは考えにくかった。
 ただ、漠然とした虚しさがぽかんと口を開けている。誰だって生きていくのに、無傷ではいられない。当たり前のことだった。愛着のあるものは失われ、その度に見えないところが少しずつ歪められてゆく。不意に襲いかかるいくつもの出来事のうち、どれが私をこんなふうにしているのかなんて、一言では言えないはずなのだ。

〈つづく〉

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