見出し画像

【小説】インクルージョン〜内包されたもの〜4

 にがよもぎ博士のワークは、いささか変わっていた。これが正当な心理療法のやり方なのだろうか。心の問題で医者にかかったことがないので、スタンダードがわからない。ただ、一度カウンセリングに入ると、博士は魔法にでもかけられたように心の安定を得て、人に安心感を与える声のトーンや振る舞いを獲得するのだった。

 カウンセリングを行う部屋は明るく清潔感があった。アイボリーの壁紙に囲まれた部屋にクラシックなデザインの皮の長椅子と、木目の美しいマホガニーのローテーブルが置かれていた。窓からは柔らかい陽射しが注ぎ、葉っぱの大きな観葉植物の鉢が一つ、窓際に置かれている。

 この部屋で私は博士に自分のことを語り、博士はそれについて幾つかの質問をして、カルテに筆記体で解読不明の文字を書きつけていた。今時、病院のカルテは電子化しているところも多いだろうのに、にがよもぎ博士はよほどアナログと見えて、紙のカルテにペンで横文字を書きつけていく。流麗な文字。眼のことを話すときはあんなに言い淀んでいたのに、文字は滑らかに美しい曲線を描いた。

 他人に自分のことを率直に語るなんて、変な感じがした。まとまりがないまま、思いついたことをぽつりぽつりと語っていく。大まかな生育歴、家族関係、いつ頃からどんな症状が気になり出したのか……。本当にこんなことで何かが変わっていくのだろうか。私はまだ、半信半疑だ。

 一通りの会話によるカウンセリングを終えて、博士は次のワークに入ってゆく。明るくて清潔な部屋を出て、別の部屋へと案内される。そこは暗幕の引かれた薄暗い小部屋で、博士は天井の蛍光灯をつけずに部屋の片隅の卓上ランプを灯した。卓上ランプは仄暗い部屋に、オレンジのあたたかい光を落としている。部屋の中央には、座り心地の良さそうなリクライニングシートが一脚置かれていた。
 にがよもぎ博士はそこに腰掛けるように促した。私が座ると、クッションの効いたリクライニングシートは私の体を優しく包み込んだ。

「これから催眠療法に入りますが、あなたは何も心配することはありません。ただ起こることに身を任せていればよいのです」
 博士の声のトーンが一層ゆっくりと落ち着いたものになった。心地よいリクライニングシートに横たわりながらその声を聴いていると、次第に浅い眠りのような、穏やかな波間に小舟で漂っているような、不思議な意識状態になっていく。

 博士はとても丁寧に、私の不安を取り除いて、一段一段らせん階段を降りていくように、どこか別の地下世界へと導いていった。いくつかのイメージの力を借りて、閉ざされた地下通路を押し開いてゆく。
 実際に、私は足を動かしてらせん階段を降りているような気がする。お気に入りのフリンジのついたキャメル色のブーツが、一段一段を踏みしめるように進んでいくのが見える。体も小さく上下する。
 一歩。また一歩。どこまで続いているのだろうか。

 私の足元にずっと続いているかのように思われた地下への階段は、やがて底の部分にたどり着いたようだった。もう、これより下には進めないらしい。あたりは靄にけぶっているようだったけれど、目が慣れてくると私の目の前には扉があるのだった。私の選択肢はただ一つ、この扉を開けることだ。
 ドアノブに手をかける。
 未知の扉を開く不安よりも、その向こうに何があるのだろうという好奇心の方が勝っていた。私の体はぬくもりのある光に包まれていた。光の色はとても美しいシャンパンゴールドで、体の中をあまねく照らすようだ。血流の流れに乗って、微細な金色の粒子が頭の天辺から爪先まで、すっかり行き渡って内側を照らしている。とても強力なよいものが、私を守っているという感覚があった。
 私は安全だ。守られている。怖れることは何もなかった。

〈つづく〉

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?