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⑧これは大吾対大吾の試合です、と野木トレーナーは言った。 比嘉大吾VS堤聖也。今夜




今年2月、野木丈司トレーナー不在のまま、比嘉大吾は1年7ヶ月ぶりのリングに立った。


その三日前だった。


ミット、持ってもらえませんか?


比嘉が野木トレーナーの元にやってきた。


ボクシングに復帰すると決めてから、比嘉は「階段」を含め野木トレーナーのフィジカルトレーニングに参加していた。
だが計量失格の責任を取りジムを辞していた恩師とは、この先一緒にリングに上がることができない。なんとか道を探ったが、二人でコンビを組む道は見つけられなかった。
結局、白井具志堅ジムで再起戦を戦うと比嘉が決めたとき、野木トレーナーは、

「もう俺はお前を教えられる立場にない。ここに来ちゃだめなんだぞ」

心を鬼にして告げた。

……はい。

しょんぼりして頷く教え子は、それでも何日か経つと、ひょっこり顔を出した。
当時、様々な事情と理由により、比嘉は日に日に熱意も気力も失う、そういう状況にいた。
会うたびに、かすかな光も射さない暗い森で一人、迷子になっているような孤独を漂わせる教え子に、それ以上、来るなとは言えなかった。


そして試合3日前、比嘉に請われて久しぶりにミットを構えた。


パシッ。


衝撃が走った。パンチの威力の、ではない。

「パンチが軽いことに、です。恐ろしいほどパンチがなかったんです」


何かの間違いだろう。

もう一度打たせる。

間違いではなかった。
フォームには何も問題ない。打ち抜く瞬間の表情、顔筋の動き方、歪み方もかつての大吾と同じなのだ。
なのに、パンチ力だけが違う。

「全盛期の半分あるかどうか、という軽さでした」

受けた衝撃を気取られぬよう、平静を装い、ミット打ちを終えた。

「試合は会場で見てるからな」

心許なさそうに頷く比嘉を見送ったあと、野木トレーナーは急いでかつての教え子である江藤光喜に連絡をとった。比嘉にとってジムの先輩にあたる江藤には、比嘉も野木トレーナーも信頼を寄せている。

「今の大吾のパンチでは、おそらく人を倒せない。削って削ってボディを狙わせろ」

試合当日、インターバルのたびに客席に座る野木トレーナーの指示と声かけを、リングの比嘉の元に届けている江藤の姿を、私も見た。

はたして、フィリピン人ボクサーを比嘉はボディで倒し、再起戦に勝利した。
だが、その直後、比嘉の復活に沸くファンたちは、世界に返り咲くために戻ってきたはずのボクサーのものとは思えぬ、後ろ向きな胸の内を聞く。

勝利者インタービュー。

「このままモチベーションが上がらなければ辞めることも考えています」

場内は静まりかえった。


この試合の一ヶ月後、比嘉はジムとの契約解除を発表。

比嘉は東京から野木トレーナーが暮らす横浜へと居を移した。



もう何も遮るものはない。二人での練習を再開した初日。
野木トレーナーはミットを持った。
やや怖れる気持があった。あの試合3日前のミット打ちが脳裏をよぎった。


バッシーン!! ガツン!! ゴンっ!!


ミットを持つ手から腕、腰から背中、足へ、凄まじい衝撃が走った。

「何なんだ、と。重さも硬さもキレも、何もかもが以前の大吾、いやそれ以上だったんです」


何故なのかは、いまだに「わかりません」。
精神的なものでこれほど変わるものなのか、という疑問はありますが、ただ科学的、物理的に証明できるようなことではないのも確かですーー。


その夜、野木トレーナーは、沖縄の大吾の父に電話をした。


「あのパンチなら、世界を取り返せます」




2018 年4月。
比嘉が体重超過した計量の日。私は都内ホテルの計量会場にいた。
計量開始まであと少し。選手たちが姿を現す直前、かかってきた電話に出るため、通路へ出た。
野木トレーナーが歩いてくるのが見えた。すぐ後ろには比嘉。うつろで生気が何も感じられない目をしていた。その2日前と前日の予備検診、調印式での憔悴しきった様子から、かつてない酷い減量苦を味わっていることは見て取れた。それでも最後の最後で落としきるはずと、祈るような気持ちでいた。

すれ違いざま、野木トレーナーと目が合った。頭を下げると、わざわざ立ち止まって、深々と頭を下げた。
日頃より礼儀正しい立ち振る舞いの人ではあるが、その時のお辞儀の丁寧さと、まるで野木トレーナー自身が戦地に赴くような、何かを覚悟したというような表情に、突如、嫌な予感が膨れ上がってきた。ドクドクという自分の心臓の鼓動が聞こえる。

急いで会場に引き返した。

まさかの、事態になった。


あのとき、会場までの道を歩く野木トレーナーと比嘉大吾が、どういう心境で会場に向かったのか。あの光景が、突然甦ってくることがあって、そのたびあの時の二人の胸中を思い、ぞっとする。


二人の取材の時は、だから、彼らの発言をこちらの感傷で深読みしてしまわないように、と自戒しながら、話を聞く。
だが、それを差し引いても、野木トレーナーの言葉は以前より重たく響く。比嘉の、あまり多くない言葉にも、その重たさが不意に混じる。

「これからの試合はどの試合も、本当にいい比嘉大吾を見せたいんですね。この階級でもチャンピオンになれるぞという姿を見せなければいけない。
そこは僕らが絶対に引けない勝負なんです」

野木トレーナーの隣で比嘉が頷いた。

次の相手を甘く見ることは一切ない。
これが堤でなく、日本チャンピオン、世界ランカーであったとしてもです。

と前置きした上で、師は言った。


「これから世界に辿り着くまでは、比嘉大吾対比嘉大吾との勝負だと思っています」


大吾対大吾。
フライ級時代にはなかった、必要なかった戦いが、今の比嘉にはある。


高校を出て上京し、3年かからず世界王者になるまでの日々は、世界を獲ることに何の疑いも不安も抱かず、ひたすら突っ走ってこられた。

だが、そのあとの出来事があり、比嘉は変わらざるを得なくなった。
否応なく多くの事態に直面し、心は疲弊も削れもした。
満ちあふれていた自信、確信は疑問に変わった。

一気にあらゆるものを失った。1度、ネガティブな感情を覚えた人間が、以前のような迷いのなさで、ただ一点だけに焦点をあてすべてを賭ける。そういう状態をどこまで取り戻せているのか。

練習、肉体、ボクシングの動きという点では、準備は整っている。
本人のモチベーションも気持ちも2月のときとは格段に違う。
ただ、その自覚とは別の次元の意識とでもいうのか、比嘉の何の曇りもない「確信」が、取り戻せているのか。

「それは試合でしか確かめることも証明もできないんですね。相手をぶっ倒したとしても、はたして、何かを失った大吾はぶっ倒したのか。あと二戦くらいはそれを確かめる勝負、自分との勝負、になります」

「そして、その勝負に勝てたら、いつでも世界への勝負に打って出られる、と思っています」


そのジャッジは野木さんにしかできない、と比嘉は言う。


「俺、今度計量失敗したら終わりじゃないですか。その時は問答無用でボクシングをやめなきゃいけない。しょぼい試合しても、そうかもしれない」

普通ならとてつもない重圧。
だが、比嘉が続けた言葉は、「比嘉大吾」だった。


「俺ね、それ考えたとき、逆に腹をくくれたんですよ。いつ突然終わりになるかもしれないなら、一戦一戦100%、もう100%全力でやる。むしろ力が沸いてきたっていうか」


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比嘉大吾対堤聖也計量     撮影 野木丈司トレーナー 






今夜、堤聖也はいつものように、映画イージーライダーのテーマソング、「Born to be wild」
で入場する。

自分が望む生き方がこの曲に詰まっていると、堤は言う。

俺はワイルドに生きるために生まれたーー。


これで負けたら仕方ねぇ。そう思えるだけのことをやってきた。

石原雄太トレーナーは、試合が決まった時点で、比嘉と堤の力を8対2と見ていた。


「5分5分まで持ってこられた、と思います」


堤は言う。
「不思議とプレッシャーを感じていないんですよ」

あの比嘉大吾と戦える夢の舞台ですよ?
プレッシャーでつまらない思いなんてしたくない。


俺、楽しみますから。



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比嘉大吾対堤聖也計量   撮影 浅野完幸角海老宝石ジムマネージャー


比嘉は、「この曲の壮大さに相応しいボクサーであるよう、なるよう」新たな門出のため、野木トレーナーが用意した曲でリングインする。


二人ともが、自分が勝つという確信だけを持って、リングに上がるだろう。

この取材者には今、その確信がある。


比嘉大吾対堤聖也。ノンタイトル10回戦。


今夜。

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撮影 山口裕朗 foto finito



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