How It Should Have Endedを語るなとはみじんとも思わないけど、それを「映画を見た人に対して」説得力を持って語れない評論家に価値はないと思う


なんかSHIROBAKO論争見てて思ったんだけど、小野寺系さんを擁護してる人ってイケハヤさんとかにも弱そうだなって思った。

小野寺さんって自分の発言が批判されてるのに、すぐに「評論の仕事とは」とか「評論家ってそういうものだ」と話題を自分からそらして評論家バース全体の責任にしようとするじゃないですか。

しかも、自ら話題を逸らしているのに、「相手がそういうことを言った」ことにしてる。

これは「連座の誤謬」と「ストローマン論法」の合成であって、イケダハヤトさんが大好きな話題そらしの方法です。

んで、はてなブックマークのみなさんのうち3割から4割くらいこれに引っかかってる。yas-malさんとか。


「嘘を嘘として見抜けない人は」と同じくらい「話題そらしを話題そらしとして見抜けない人」はインターネット向いてないと思う


よく考えてみてくださいよ。この件は「小野寺系さんがSHIROBAKOに対して行った評論は、一般論ではなくて作品に対する評価としてどの程度妥当性があるか」ではないですか?

それが評論家のお仕事でしょう?

それがいつのまにか「作家の社会的責任」とか「評論の仕事とは」みたいな抽象的な話題にうつり、

あげくのはてに「動物のお医者さんがヒットしてシベリアンハスキーを安易に飼って捨てる人がいたらそれは作者の責任か」みたいな話まで脱線してる。

バカげてるでしょ。

今回論じるべきは「小野寺系という人間は評論家として読むに値する人間か」だけですよ。

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