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「ヘンタイ・プリズン」 ガチの表現規制の脅威に対して、本当の意味で表現の自由を守るとはどういうことかを考えさせられる作品

プレイ時間は30時間(体験版はプレイ済みだったので合計で40時間)くらいでした。


体験版のあらすじ


本作品の主人公は監獄の囚人です。HENTAIの罪で収監されています。

彼は元々人の迷惑を省みずに露出の罪でつかまったほんとうにアレなやつでしたが、監獄の中で仲間を得て「ゲーム作り」の楽しさに目覚めます。

そして、彼はいつしか露出よりもゲームの方が生きがいになってきた。


しかし、そんなゲーム作りの活動は監獄側にみつかり、否定されせっかく仲間たちとも分断されてしまう。

そこから主人公は監獄の圧政と戦いながら仲間たちとの絆を取り戻し、改めて「仲間たちと一緒に」ゲーム作りをしようと戦いを始めてきます。


ヘンタイ・プリズン体験版





ラスボスがガチの表現規制派で迫力があった


体験版のあらすじで書いたように、本作のテーマは「表現の自由」のための戦いです。なので、まぁ表現規制的な話は出てくるだろうとは思っていました。

思っていましたが、予想以上でした。

ラスボスは思った以上に「ド直球の表現規制派」でした。


ツイフェミなんかではなくて、「ガチの表現規制派」「有能な表現規制派」が登場したら我々は対抗できるのかという思考実験


ネットでみかける「いわゆるツイフェミ」は、必要以上にその脅威を誇張されていますが、実際はそれほど恐れるに足りる存在ではありません。

この人たちは本心では「表現規制」にそこまで積極的ではありません。嫌いな表現を叩きたいだけであって表現規制について真剣には考えてない。そのため、社会全体に敷衍するような活動になりにくい。

また、ダブスタがひどく、罵倒を好み、感情でものをいい、人から嫌われる要素が強く、すぐにエコーチェンバー化してくれるので、社会でつまはじきにされそうなオタクですら「ツイフェミよりはまし」という印象を持たれることが多く、本人たちにその気はなくても「泣いた赤鬼」における青鬼のような存在になってくれています。「無能な敵」というのは並みの味方よりもありがたい存在なのですね。

だからオタクとツイフェミはお互い大げさに叩きつつも共依存みたいな関係になっています。


しかし本作のラスボスはフェミニズムとは違う方向からきた、純粋にHENTAIの抹殺を目指す漆黒の殺意を持つ表現規制派です。HENTAIを見下して雑に殴るのではなく真剣に脅威と捉え、油断なく計画的に本気で潰しにかかってきます。

本作品のラスボスは、ガチの表現規制派が登場した際に訪れるかもしれない真の脅威を描こうとしている


この人物は知力も権力も暴力もすべて兼ね備えた圧倒的強キャラです。

・明確な意思を持って自分の人生をかけて何年かけてもエロ表現を規制し、明確に法律を改正してHENTAIをこの世から一層しようとしています。
・そのための動機も「私利私欲のためではなく大切な人間のため」とガチガチに強化されています。
・感情を抑え、対話を重視し、エビデンスもしっかりした話をします。
・表現規制以外の問題についてはすばらしい人格者であり、主人公も監獄の人間と知りながらこの人物を慕うほどでした。
・その上で暴力装置を味方につけているため、力づくで黙らせることはできないどころか、理屈に合わない野次を飛ばそうものなら速攻で取り締まられる

要するに、「いわゆるツイフェミ」が日々さらけ出している弱点が全くない表現規制派ということです。 

意志が強いため説得することもできないし、暴力も権力も向こうの方が上回っているため力づくで黙らせることもできない。物腰は丁寧でありダブスタもないため矛盾を指摘することもできない。道徳的にも「表現を規制しようとしている」以外の面では、実際にHENTAI行為で他人に迷惑をかけていた主人公たちの方が弱いため、周りからの同情を得ることもできない。

今オタクたちが余裕をかましていられるのは、実は「ツイフェミ」がとても弱い存在であまり脅威ではないからです。凸を食らう個別の企業にとってはやっかいでも、オタク全体からしたらまだまだオタク文化全体を殺しうる存在とは思っていない。いざとなれば叩き潰せると思っている。だから「アンチフェミ」なんてものも存在できる。

本当にオタク全体が危機感を持ってたら、アンチフェミみたいに「敵にこちらを殴る口実を与える」存在=脆弱性そのものは真っ先に切り捨てます。それどころかそういう連中をもてはやしている。このこと自体が、オタクたちの余裕のあらわれなんですよ。


こうやって余裕をかましている時に、本当に強い「表現規制派」が登場したら、本作「ヘンタイ・プリズン」のように一気に蹂躙されてしまうわけです。そうでなくても、今後分野やジャンルなどに限定した批判が続けば、少しずつ切り取りを食らう可能性はあります。


我々が信じている「表現の自由」が本当の意味で損なわれた時、それを取り戻すために何をすべきなのか


本作のグランドルートでは、そういう話が描かれます。

その中で、
・そもそも、なぜ私たちにとって表現の自由が必要なのか
・そもそも、なぜ私たちはその表現をしたいと思うのか
・そもそも、反対する人を戦って黙らせないと守れないものなのか

などなどいろんなことを考えさせられる作品になっています。


我々にとって本当に大切なのは表現規制派を倒すことではない。自分が表現したいものをきちんと自覚してその表現を守ることだ。「表現の自由」そのものは目的ではなく手段にすぎない。自分が本当に「表現したいもの」は何かを真摯に考えることで道筋は見つかる


これについて、「ヘンタイ・プリズン」が出した答えが完璧であるかというと私はそうは思いません。ラストの展開は賛否両論あると思います。

でも、そういう問題をちゃんと考える過程が凄く大事なのだと思います。

何より大事なのは、我々がまず第一に守るべきは「自分にとってかけがえのない表現=自分自身」であって「表現の自由」ではないということ。これは同じことじゃないかと言われるかもしれないけれど違うのだ。

「表現の自由」という抽象的な概念を弄ぶうちに、これがわからなくなってる人たちが出てきている中で、もう一度基本に立ち返りたい。

というわけで、「ヘンタイ・プリズン」は皆もぜひプレイしてみて、いろいろ考えてみてほしい

まぁ実際は、こんな小難しいことばかり話してるわけじゃなくて、エンターテインメントとしてすっごい面白い作品です。

中国の武侠ものというか、何度もピンチに陥った主人公がその都度仲間を得て障害を乗り越えていくっていう愉快痛快な展開で楽しませてくれます。

ヘンタイ・プリズン

私も小難しい話は今回だけにして、もっと「ソフりん可愛すぎる!」とか「ジュリア様すげええ」みたいな話をしたいと思います。

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