昔のこと

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私は昭和48年に東京都調布市の母の実家のそばの産院で産まれ、父の仕事の関係で三重県四日市市にて2歳くらいまで過ごし、父が、東京都で祖父が開いていた指圧治療院の事業所拡大のため、東京都板橋区に引っ越した。その近所に、父は叔父と一緒に指圧治療院分院を開業した。

母は、30過ぎに父と結婚するまで、大手旅行会社で働いていた。バリバリのOLだったそうだ。私より4歳年下の妹が幼稚園年少になったと同時にパートタイムで、近所の和菓子の工場で働き、妹が小学生になったころ、たまたま近所に開業した大手旅行会社の近〇日本ツーリストの支店でフルタイムで働きだした。

父は自営のため休みは不定期だった。おかげで、毎年夏休み等の長いお休みは、母が私と妹を会社のツアーで国内旅行に連れて行ってくれた。父とは、油壷と箱根に一緒に旅行に行ったのを覚えている。それ以外は、母と私と妹。たまに従妹も一緒だった。

旅行会社の社員だからと旅館の方が気を使って頼んでいない大皿料理を出してくれたり、特別にお土産を持たせてくれたりとそれはそれで、良いこともあったけれど、ホテルや旅館、民宿での宿泊で、キャンプとは無縁だった。

東京にある農学系専門の大学に入学して、そこで出会った友人に誘われて岐阜県の平湯温泉のキャンプ場に友人たちといったのが一番最初のキャンプだった。学校行事の林間学校でキャンプファイヤーや飯盒炊飯、カレー作りはしたことがあったが、プライベートでは初めての体験だった。バンガロー泊だったが、近くの滝をめぐり、山を登り、夜はBBQ。火をおこすことや、焚火を眺めているだけで癒された。

今思い返すと、大学時代の4年間は、勉強もそうだが、課外活動やバイト、毎日のように飲み歩き大いに語り合ったり、長い休みには日本全国に放浪の旅に出たりとても濃厚な貴重な時間を過ごすことができた。

20歳の頃、父の事業が傾いた、ある日、父が事業の現状を説明してくれた倒産寸前という話だった。大学の学費も払えないと言いたいことは口にしなくてもひしひしと感じた。中退して働くかという考えが頭に浮かんだとき、同席していた母が私が学費を工面するから大学は行きなさいと言ってくれた。そのころ父と母の仲もあまりよくなく(後に、相談もなく知らぬ間に離婚していたのだが)そんな中で過ごすのもつらくなり、調布に住む祖父の家に間借りし大学に通った。夕方や休みの日は、植物公園の管理やお寺の庭の草取り、都市計画設計事務所等、先生や友人からの紹介でバイトにも精を出した。

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