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城絵図の愉しみ 竹井英文

 日本各地にある山城を訪れますと、戦国武将たちの息づかいを感じることができるのが醍醐味です。しかし、山城が鎌倉~室町・戦国時代までどの時代の姿を遺しているのかは難しい問題です。
 竹井英文・中澤克昭・新谷和之編『描かれた中世城郭―城絵図・屏風・絵巻物―』は、中世びとが見た当時の風景について解説した、いままでになかったお城本。ぜひラインナップに加えてください。

 筆者の研究室には、常に城絵図が飾られている。地元だけに、研究室内の衝立には仙台城の絵図を、ドアの内側には白石城の絵図を「常設展示」し、ドアの外側にはおおむね月替わりで各地の城絵図(最近では赤色立体地図など現代的な図も)を貼り出している。学生はあまり気にならないようだが、意外にも廊下を通る他学科の教員がたまに見ていたりするのが面白い。筆者も、休憩時間にお茶を飲みながら何気なく見ては楽しんでいる。城絵図の世界はなんとも魅力的である。

 特に近世城郭については、全国各地にさまざまな城絵図が数多く残されており、研究も多い。城絵図に特化した展覧会もよく見かけるし、城絵図を集めた本や図録が販売されていると、特に必要があるわけでもないのに、つい買ってしまう癖がある。

 それ以上に、あるとつい買ってしまうのが、城絵図の複製である。小さなものから、かなり大きなものまで、各地でいろいろな城絵図の複製が販売されている。図録や自治体史の付録として城絵図が付いてくることもあり、その時は少し得した気分になる。最近ではクリアファイルや風呂敷などのグッズにもなっていることが多い。インターネット上での城絵図の公開も増えているが、やはり大きな紙に印刷された城絵図を広げて見る方が楽しい。以前、ゼミ合宿で訪れた金沢城で城絵図の複製を購入した時、学生から「こういうのを買う人初めて見た」と言われたことは、妙に印象に残っている。そんなに珍しいことではないと思うのだが。

 そうした近世城郭を描いた絵図に対して、中世城郭を描いた絵図は、非常に少ない。中世城郭の研究者なら、誰もが当時のリアルな城の姿を知りたいことだろう。現代の我々が研究のために作成している縄張図も、言うなれば当時の城の姿に迫るための図の一つである。最近では赤色立体地図やCS立体図など、最新の技術を使った驚くべき図も登場してきており、研究の幅が大きく広がっている。それでも、建造物を含めた中世の人々が実際に見た城の姿を知るためには、当時描かれた絵図を手がかりに考えるしかない。

 絵画史料を使って中世城郭について検討した本・論文自体は、数多い。しかし、それらの絵画史料をまとめて一覧できるようになっている本があるかというと、どうも思い浮かばなかった。また、そうした絵画史料を総合的に扱った研究も、これまで意外にも数少ない状況なのである。結局のところ、中世城郭が描かれた絵画史料は、どこにどのようなものがどれくらいあるのか。それらからは、当時の城のどのような姿が浮かび上がってくるのか。研究を進展させるためにも、また利便性のためにも、さらには一覧できる楽しみのためにも、そろそろ一冊にまとめることも必要ではないか。このたび刊行した『描かれた中世城郭―城絵図・屏風・絵巻物―』(以下、本書とする)は、そうした少ないながらも現存する中世城郭を描いた絵画史料を、可能な限り集めて一冊にしたものである。

 本書に収録した城絵図のうち、いくつかを取り上げてお話ししたい。まず、数少ない中世城郭を描いた絵図のなかで、もっとも著名なものは、やはり「越後国郡絵図」であろう。なかでも村上城は城下町も含めて細部まで克明に描かれており、戦国の山城のイメージとして頻繁に引用される図である。本書の表紙も、村上城である。同絵図には、当時現役であった村上城・直峯城などとともに、当時すでに廃城となっていた多くの古城も描かれている。これまた各所で頻繁に引用される図で、何を隠そう、拙著『戦国の城の一生』の表紙でも使わせていただいた。「越後国郡絵図」は、個人的に一番お世話になっている絵図なのである。これからも頻繁にお世話になるはずなので、よろしくお願いしたい。

『描かれた中世城郭』の書影

 さて、「越後国郡絵図」に描かれた城の塀を見てみると、はっきりと狭間さまが空いているのがわかる。城の狭間といえば、丸・三角・四角の三種類があり、今でも各地の近世城郭で見ることができる。「越後国郡絵図」には、丸と三角の狭間が見られるが、四角の狭間は見られないようである。

 他の絵図で狭間はどのように描かれているだろうか。本書を見ると、最初に狭間が登場するのは、一四世紀後半成立の「秋夜長あきのよなが物語絵巻」のようで、四角い狭間である。以降の絵図を見ても、狭間は軒並み四角である。戦国期成立の「築城記」に解説されている狭間もやはり四角で、縦長と横長のタイプがあり、縦長は弓矢用で横長は鑓用のようである。現存する絵画史料によるという制約があるものの、狭間の形は当初は四角が主流であり、それが時代を経るに連れて丸や三角の狭間が登場していった、ということになろうか。丸や三角の狭間は、一般的には鉄炮用とされることが多い。やはり、戦国時代になり鉄炮の導入が進むにつれ、狭間の形も変わってきたといえるのだろうか。

 毛利家に残された小田原合戦関係の絵図も、特に関東の人間にとっては大変有名でしばしば引用される絵図である。実は筆者は一〇年ほど前に、メンバーとなっている静岡県伊豆の国市の韮山城跡整備委員会で調査にうかがった。メインはもちろん「小田原陣之時じんのとき韮山城にらやまじょう仕寄しより陣取図じんどりず」の調査である。早速原本を見ると、明らかに墨の色が異なる部分があり、裏面を見ると紙を張り継いでいる様子がうかがわれた。そこから、まず濃い墨を使って絵図を作成したが、状況の変化によりほどなく新たに紙を張り継ぎ、薄い墨を使って追記・修正したことが判明した。詳細は、調査に同行した齋藤慎一氏の論文(「韮山城跡の構造と変遷」同『中世東国の信仰と城館』高志書院、二〇二一年)をご参照願いたいが、有名な絵図にもかかわらず、史料論として深められていなかったこともまた同時に判明したことは面白かった。

 もう一つ、「小田原陣之時海道筋かいどうすじ諸城しょじょう守衛図しゅえいず」も興味深い(本書に掲載した図はあくまで天保年間に作成された写しであった。もっとも、天正十八年段階に作成された原本があったことは間違いなさそうである。この場をお借りして補足・訂正させていただきたい)。大変珍しい図だと思うが、近年谷徹也氏により、朝鮮出兵時に作成された同様の図が紹介された(「「朝鮮三奉行」の渡海をめぐって」『立命館文学』第六七七号、二〇二二年)。この図の来歴は不明だが、いずれにせよ、少なくとも豊臣期には出兵のたびにこうした図が作成されていた可能性があろう。

 それにしても、毛利家にまとまってこうした絵図が残されているのは、なぜなのだろうか。たとえば上杉家や伊達家、島津家など、多くの家文書を残している他の大名家にもあってよさそうなものである。戦国期の史料を見ていると、合戦に際して絵図を作成するよう指示するものがたびたび見られる。各大名家にも本来はあったのかもしれないが、あるいは毛利家の独自の動きなのか。こうした点も興味深いところである。

 特定の時期の話に偏ってしまったが、難しい話は抜きにして、本書に収録した絵画史料を眺めているだけでもとても楽しいので、是非多くの方々にご覧いただきたい。

(たけい ひでふみ・東北学院大学文学部教授) 


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