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不安が高まる社会のなかで、大人はどのようにこどもの遊びを保障できるのか①

こどもたちが(大人の付き添いなしに)好き勝手に出歩くことができる国。
これこそは日本の大きな大きな長所であるとずっと思って生きてきました。
 
送迎なしで近所の小学校まで歩いて通えること。
放課後に友達の家や公園へと気の向くままに出かけては、暗くなるまで夢中になって遊んで過ごせること。
我が家の二人の子供たちも、日没前に帰宅することはほとんどないままに育っている。次男などは小2の頃から、週に2回・片道1時間かけて電車でサッカークラブに通うようになった。基本的に親の送迎はなく、次男一人か、曜日によっては同級生と二人で通っている。スクールの最寄り駅からグラウンドまでは送迎バスがあり、自宅から駅までは徒歩1-2分の距離なので、危険が起こり得る場所としては電車や駅を主に想定している。
そんな危ないことを、という周囲の反応もないではないが、他の子たちも多かれ少なかれそうして自分たちだけで通っているところを見ると、県内の感覚としてはまだ非常識というほどの行いとは見做されていない気がする。指導者の側でも子供の自立を促す目的から、親の送迎は控えめにしてください、とやんわり促すクラブも少なくない。
 
とはいえ今日(5/28)の川崎の事件をきっかけに、今後は金銭的・時間的な余裕のある家庭ばかりが、こどもたちを庇護のもとに置きつつ様々な活動をさせることのできる時代へと加速することは間違いないのではないだろうか。
そして余裕のない家庭のこどもだけが、高まる一方の危険と引き換えに、大人に縛られることのない時間を過ごすことになるのだろうか。
 
ここで私が抱く大きな疑問は、そのどちらにも、遊びは育まれ辛いのではないだろうか?ということだ。
大人の過干渉のなかでは成立せず、かといって安心がベースになければ伸ばすことが難しい。幼少期の遊びとはそういうものだと思う。
  
子育てへの不安が高まる社会のなかで、大人は、いったいどのようにこどもの遊びを保障できるのか?
何か胸を張って為し得たと言えるようなものがあるわけではないけれど、長男が小学生になったその日から、このことに向き合ってきた数年間であったように思う。
幸いなことに、近年同じような疑問を持ちつつ活動している多くの方々と出会うことができたので、これからいくつかの事例も紹介しつつ共有の輪を広げていければと思っている。

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