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be動詞で、存在と認識を考える

昨日、アート思考に関する文章を書きました。
最近の、〇〇思考の便乗ブームには、
ここが儲かりそうということなのでしょうけど、
正直なところ、かなり食傷気味だったりします。

とはいえ、今本当に必要なのは何かと考えると、
そういう表現をあえて使うとすれば、
「哲学思考」とでもいうべきもの
ではないかと思っています。

今、必要な「哲学思考」

哲学というと、
人生論的にとらえられてしまうことが
多いように思いますが、
根本的には、存在論と認識論なのだと思います。
存在するとはどういうことか、
認識するというのはどういうことか。
思考そのものの基盤から、
「そもそも」の部分に戻って考えるという姿勢、
思考のスタイルこそが必要なように思っています。


be動詞のなかに、存在と認識がある

これは、結局のところ、be動詞だと思うんですね。
「〇〇がある」という、
存在するとはどういうことかということと、
「〇〇である」と認識することはどういうことか、
この二つがなぜかbe動詞のなかに含まれている。
ここが原点のように思うんです。

これ、哲学の問題だけでなく、
たいていの問題を深く考えようとしたときに、
この二つのポイントに戻ると
整理して考えることができると思っています。

「〇〇がある」ってどういうこと?
存在することの理由、価値は何?
「〇〇である」と認識されるってどういうこと?
人は〇〇をどのように認識するの?

問題に対面したときに、
いったん、「そもそも」に戻って考える
「癖」をつけることは、
良いことなのではないかと思っています。

癖をつける

さいきん、やたらと
「マインドセット」という言葉が使われますが、
それを聞くたびに、しっくりこない感じがするんですね。
もっと物理的な「癖」のほうが重要なんじゃないかと。

今ではだいぶ古くなってしまいますが、
サッカーの中田英寿選手は、パスを受ける前に
必ず首を振っていました。
まわりの状況を必ず確認するんですね。
中田選手に限らず、優れた選手は首を降ることが多いです。

つまり、優れた選手は、
見なくてもまわりの状況がわかるのではなく、
ちゃんと見る癖がついているから、
その癖が自分の一部になっているから
情報をきちんとキャッチできて、
よい判断ができるのですよね。

つまり、首を振るということのなかには、
思考様式なども含まれているのだけれど、
それが物理的な行為として
「癖」になっているということが
重要なわけです。
思考は身体化されてはじめて効果をもつと思うのです。

そういう意味で
be動詞で考える癖というのも、
悪くないんじゃないかなと思っています。

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