「アート思考」の危うさと可能性

最近の「アート思考といわれるもの」には、かなり危うさを感じています。

このところ、「アート思考」という言葉を使ったワークショップや講演にまとめて参加してみたのですが、きちんとしたものもある一方で、ほとんどアートを知らない人がブームに乗ろうとしてやっていたり、アーティストと友達になろう、アーティストと仕事をすると楽しいよ、みたいなことで終わっているものがあったり、ゆるーい「現代アートってこんなものでいいの?」というものを作っているだけだったりと、かなり危機感を感じることも少なくありませんでした。

ですが、アートとビジネスがむすびつくことについては、良い効果が期待できるだろうとは思っています。そういう意味では、「アート思考」という言葉が出てきた経緯については、とてもよく理解できます。

アート思考の背景

デザイン思考は、当初は、論理的な思考と感覚的な判断の両方融合するものとして位置づけられていたと思いますが、よりビジネスマンに理解されるものになっていくにつれて、カスタマージャーニーのようなメソッドばかりが重視され、ビジネスマンに理解しにくい感覚的な部分が薄れていってしまった印象があります。そこで、より感覚的な部分を「上塗り」するような形で、「アート思考」が、感性的な判断、好き嫌いなどを許容するものとしてでてきたように思います。(あと、当然、便乗もありますよね。)

そもそも、デザインが、センスだけでもなければ、論理的に説明できるメソッドの積み重ねでもないように、アートも好き嫌いだけではないはずなんですけどね。


アートが生み出される過程

アートが生みだされる過程にはさまざまものが必要となります。

・論理的な思考
・感覚的な判断
・これまでのアート文脈と未来への展望
・アートの世界の人間関係とそうした人たちの美意識
・社会の美意識の変化
・制作するための技術

おそらくまだまだあるでしょう。こうしたものすべてを注ぎ込んで作品を生み出しても、10秒で見る人の心をつかめなかったら、存在そのものを忘れ去られてしまいます。

よくアートは自己表現と言われることがありますが、アートこそ、人(他者)と、社会と、ダイレクトに相対しています。集団的な生の感情を相手にせずにはいられない状況におかれています。

こうしたことを思えば、アートを生み出すための考え方が、新しい価値を生み出すうえで役に立たないわけがありません。

「起業家はビジネス界のアーティストである。」Kevin Daum

という言葉がありますが、まさにそのとおりだと思います。

ところが、現在「アート思考」としていわれている部分には、正直なところ、こうした本当に大切な部分を欠いていると思わざるをえなかったりします。

ゴールドラッシュで本当に儲かったのは、金を採掘する作業者のための服を作ったリーバイスだという話がありますが、今、イノベーションというゴールドラッシュに対してのリーバイスが、デザイン思考だったり、アート思考なんだろうなと思ってしまいます(デザイン思考については、後日書きます)。

アートが提供できるもの

アートの世界の側から、作品以外に一般の人に講義やワークショップといった体験として提供できることは、主に4つに分けることができます。

アートの「見る」と「作る」という行為、それぞれについて「伝統的に」と「自由に」の二つの方法にわけることができます。

アートボード 1-80


伝統的なアートの見方

伝統的な見方は、作品の解釈です。

・作者は誰で、どういう人なのか?
・いつ、どのような状況で描かれたのか?
・描かれている対象には、どのような意味があるのか?
・絵画の世界の常識としては、どのように読むことができるのか?
・どのような画材を使って描かれているのか?
・構図はどのように計算されているのか?
・美術史のなかでどのように位置づけられるのか?

こうした作品の解釈は、見るために知識を必要とするために、知的好奇心をくすぐるという面があります。美術史の研究として、一般的に行われてきました。一方で、一般の人には、美術を見ることがむずかしいと思われてしまうという弊害もあったといえるでしょう。こうした学問的な方向性は、アートを普及させるためにはマイナスに作用することが多く、20世紀初頭にアートのマーケットが急激に拡大した背景には、むずかしい解釈をあまり必要としない印象派の存在が大きかったと思われます。

ぼくは、美術史というのは、その歴史全体を通じて、集団的な価値創造のトライアルだと思っているのです。そこをきちんと伝えることをしないで、細かな図像学(それも価値はあるけど)ばかりがもてはやされてきたことが問題なのだと思っています。そこをきちんと表現できないかなと思い続けています。


伝統的なアートの作り方(の教え方)

これはいわゆる「道」「お稽古」の部分です。書道だったり、花道だったり、陶芸だったり、スケッチだったり。ジョブズがカリグラフィを学んでいたのは有名ですね。ある程度、目標とする完成形があり、それに至るための学び方が決められている。

こういったものは、もちろん流派やスタイルにもよりますが、あまり自由な発想につながるわけではありません。ただ、クオリティというものがどういう部分から生まれているのかは、わかってきます。美意識を鍛えるという面では、とても有効です。

政治家などがこうしたクリエイティブに関わってきたのは、実は伝統的なことです。和歌は宮廷のたしなみでもあり、美意識を養うという意味では、大きな効果をもっていたのでしょう。文人画や書も、同様だったのではないかと思います。平安貴族にとっては、音楽も含まれていたようで、ついでながら、アートのくくりのなかには、文芸や音楽も含まれて良いだろうと思います。

実は、美意識というのは、社会のなかで、どのように「価値」が生まれてくるかというところの縮図ではないかと思うのです。それは、政治家であれ、起業家であれ、社会を動かそうとする人にとっては、必須の感覚ではないかと思うのですね。実はこの部分、かなり重要だところだと思うのですが、最近の「アート思考といわれるもの」のなかでは、あまり取り上げられない部分です。

そういう意味では、アート思考的考え方は必ずしも海外、西洋からのものというわけではないのですよね。東洋にも、日本にも、ベースのあったものだと考えることができるし、そこから学ぶべきことは多いと思っています。

アートはゼロから1を生み出さない

上記の二つよりも、アート思考という流れのなかで強調されがちなのが、「自由に」という方向です。論理的な思考と対比させるために、「自由に」という部分が強調されているように思います。しかし、アート自体が本当に自由なのかというと、そうは思えません。かならず文脈のなかに存在するものです。それはアートの世界の文脈、社会というものの文脈、論理的な思考だけでなく、そういったものを身体で受け止めたうえで制作しているからこそ価値があるのだと思います。

アート思考は「ゼロから1を生み出す」(デザイン思考に対してもよく使われる)と言われることが多いですが、これはまったくの嘘です。アートがゼロから1を生み出したことは、歴史上一度もありません。どんな形でさえ、ゼロではない部分から生み出されてきた。そこに価値があります。ラファエロは、ポロックの絵を描かない。その時代のなかで、最善の表現をしたからこそ価値があるのです。


自由に作ってみよう

アートを自由な発想で作ってみるというのは、とても良い体験です。最近では、子供向けのアート制作を体験するワークショップも増えています。それ自体は、とても良いことだと思います。

ですが、これが「イノベーションのためのアート思考」といった文脈にはいってくると、違和感を感じる部分がかなりあります。

そもそも「自由な発想」をするのは、そんなに簡単なものではありません。「いわゆる現代アート的なもの」を作ってもらうと、「現代美術らしきものって、こんなものじゃないか」というものしか出てきません。そもそも、参加者自体が、現代アートをそれほど見てもいなかったりもします。それはもう、茶番ですよね。

稀にそういうもののなかからも、はっとするようなものが出てくることはありますが、多くの場合、自分のなかの問題意識などがあって、それが表現につながってくるものであり、そのつなげかたも、さまざまな試行錯誤が必要なのであって、数時間のワークショップなどで「価値」が生まれるというのはむずかしいです。

気分転換になったり、ちょっと新しい発想ができるようになったり、チームの雰囲気が変わったりという効果はあるでしょう。ですが、この手のワークショップは、美術に親しむためのエンターテイメントとしてならよいのですが、「イノベーションのための」といわれてしまうと違和感を覚えます。むしろ、「自由な発想」だけでは、価値は生まれないというところを理解してほしいと思ってしまいます。

自由に見てみよう、対話型鑑賞

最近の「アート思考といわれるもの」の流れのなかで多いのが、対話型鑑賞です。フィリップ・ヤノウィンの提唱するヴィジュアル・シンキング・ストラテジーズ(VTS)は、80年代にMOMAで研究され、歴史も古く、手法としても確立され、効果もかなり実証されているものです。

『学力をのばす美術鑑賞 ヴィジュアル・シンキング・ストラテジーズ』
フィリップ・ヤノウィン
https://www.amazon.co.jp/dp/447303979X/

対話型鑑賞においては、作者やタイトル、作品に関する情報などを用いないで、数人で一つの作品を10分以上じっくりと鑑賞します。作品そのものから自分が何を感じるか、何を読み取るか、他の人はどのように感じるのかということを知ることで、観察力、批判的思考力、言語能力などをやしない、正解のない問に取り組む姿勢や、多様性を受容する心を高めることができるとされています。

実際、これを体験することで、プラスの効果があることは体感することができます。手法としてもシンプルなので、今、対話型鑑賞が注目されているのはよいことだと思います。アートを言葉で考える癖がついてしまうことは、多少の弊害もあるかもしれませんが。

対話型鑑賞は、美術教育の文脈からでてきているので、人のモノの見方を育てたり、チームでおこなって硬直した人間関係を和らげたりするにはよいと思います。それが「アート思考」というバズワードのために、アート側から提供できるメソッドとして、ひっぱり出されてしまった。対話型美術鑑賞を、「これがアート思考ですよ」といって、ビジネスのイノベーションに直結するかというと、そういうものではない。人材育成とか、チームビルディングのひとつの手法として取り上げると、効果があるかもしれないというレベルだと思うんです。

これ、身体にいいとされている食べ物、にんにくとか、ビタミンCのある果実とかを、「癌に効きます」と言って売っているようなものではないかと思ってしまうんですね。それ自体は良いものなのに、過剰な売り込み方をすることで、かえって陳腐化してしまわないか心配というところなのです。


食事療法としての「アート思考」

アートとビジネスの関係が注目されること自体は、とてもよいことだと思います。ビジネスだけでなく、人が生きていくことと、もっと自然な形で結びついていくべきでしょう。

ただ、勘違いしてほしくないのは、そこから急にいいアイディアが浮かぶようになったりするものではないということ。結局のところ、本当にいいアイディアは、その人なりの「生き方」のなかからしか生まれないのです。その生き方自体を、より豊かなものにするために、アートは大きな助けになると思います。

イノベーションという文脈に対してということなら、即効性のある医薬品としてではなく、食事療法としてなら、「アート思考」は悪くない選択肢だと思います。

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