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あの日

 あの日、私は入れ歯になった。

 と言っても、左上あごの第一、第二小臼歯の二本の部分入れ歯だが。それでも入れ歯にするかどうかはずいぶん悩んだ。なにせ、二十代の頃からデンタルフロスを使ったり、虫歯には相当気を遣ってきたからだ。

 二十代で左上あごの第二小臼歯を虫歯で失い、そこをブリッジにした。保険のブリッジはすぐに壊れると歯医者さんが言うので、保険外で治療した。当時の値段で十七万円くらい遣った。そのときに歯医者さんから、デンタルフロスを勧められた。しかし、千九百七十年代半ばの当時、デンタルフロスというものは一般に知られておらず、銀座のソニーショップくらいでしか入手はできなかった。値段を忘れたがけっこう高かった。この歯医者さんは、北欧で修行してきたらしい。当時ではめずらしい、洋風でおしゃれな作りの歯科医院だったが、トイレに入ると汲み取り式だったので「あちゃー」となった。東京都杉並区は、千九百七十年代にはまだ下水が行き届いていなかった。最先端のデンタルフロスと「ぽっとん便所」のギャップが今でも忘れられない。

 あれからずいぶんたった。私ももう六十代後半。失った歯が奥の上の二本だけというのは少し自慢。そうはいっても、この数十年の間に幾度となく削って埋めてを繰り返してきた残りの歯もだいぶ悲鳴を上げてきている。いつ折れたり抜けたりしてもおかしくない。歯茎も緩んできたし。

 思い起こせば、いろいろな歯医者さんに行った。

 私が高校生の頃、故郷には歯医者さんが二軒しかなかったので選択肢がなかった。うわさを聞いて少しでもましかと思った伊藤歯科の伊藤先生は、とにかく話好きで、待合室にずいぶん患者が待っていたが、それもお構いなしで、患者に一方的に話しかけていた。麻酔注射を打って、それが効いてくるまでがお話タイム。もう麻酔が効いていると思われるのに、世間話が終わらない。きりのいいところまで話すと、今度は、きいいいんと豪快に削り始める。最近のドリルと違って当時のドリルは本当に音が大きくてその金属音を聞くだけで歯が痛くなった。麻酔の注射針は太かった。麻酔注射を打つ前に麻酔してほしいくらいだった。

「痛かったら教えてね」と伊藤先生。予約制の時代ではなかったので、少し削っては薬で埋めて「じゃ、来週」とか言って患者が次々と帰される。薬を詰めて神経を殺す、とか恐ろしい話も聞いた。

 薬を詰め込まれたところが気になって舌でさわると刺激的な味がして、さらに舌で遊んでしまい、一週間後に歯医者さんに行く頃には、薬でふさいだはずのところに大きな穴があいて唾液にさらされている。今思えばこれが最悪だった。患部が唾液に触れるのは、バイ菌が入るので、いくらここを見た目きれいにアマルガムで埋めても、バイ菌もいっしょに埋め込むので、やがてそれが繁殖して、神経に及ぶ新たな虫歯を作ることになった。

 私が二十代の頃に入れたブリッジが、結局、五十過ぎまで持った時には、歯医者さんから、最初の治療がよかったとほめられた。便所は「ぽっとん」だったが技術は最先端だったらしい。ちなみに私の口中には虫歯菌が棲みついている。果たしてこの虫歯菌はどこからやってきたのか。私は子供の頃、両親が忙しく働いていたのでおばあさん子だった。おばあさんが口移しで赤ん坊の私にご飯を食べさせていたみたいで、その時に虫歯菌が移ったらしい。最近になって、歯医者さんが口移しはやめましょうとか言っているが「遅いわ!」。

 私がこの十年ほど通っている歯医者さんは、歯の型取りにこれまでのような寒天のような印象材を使わない。テレビのリモコンみたいな装置を口の中に入れて、スキャンするのだ。この3Dスキャンデータはパソコンに取り込まれ、少し離れたところの小型の切削加工機で、元気な機械音とともにセラミックを削っていく。削りとられたセラミックの塊は、やがて私の歯の穴にスポッと見事におさまる。

 入れ歯になったあの日から三か月後、私は検診のため歯医者さんを訪れた。

「先生、フロスが通りません!」歯科衛生士さんが叫んだ。ムードメーカーの甲高い声が響いた。「あーあ、また虫歯が見つかってしまった」この歯科衛生士さんの虫歯発見率は高い。そのたびにずいぶん歯を削られた。それでもたいていは初期虫歯なので、レジンと呼ばれる樹脂を塗るだけで治療が終わる。

 治療も随分進歩した。高校時代、麻酔が治療中に切れるのではと恐怖しながら歯を削られた身としては、実に隔世の感がある。先生がやってくるまで、夢でも見ながら診療台の上でしばし感慨にふけることにしよう。 了

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