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やさしさの理由(3)

前回まではこちら→第一話第二話

◇◇◇

間もなく、西谷、西谷です

起こそうと佳奈ちゃんを見ると、目を開けていた。

「起きてたの」
「うん」
「降りるよ」

電車が西谷駅のホームに滑り込む。立ち上がりかけた僕のジャケットの裾を、佳奈ちゃんが引っ張った。

「まだ、乗る」

ごくたまに、こんな夜がある。

佳奈ちゃんが帰りたがらない夜。そういうときはいったん終点まで行き、上りの電車に乗り換えて西谷に戻る。その頃にはもう、佳奈ちゃんは落ち着いている。

時計を見る。この電車は湘南台が終点だ。湘南台まで行っても、この時間なら上りの最終に間に合うだろう。

停車するとドアが開き、同じ西谷の住人たちがホームへと吐き出された。

◇◇◇

バイトを始めて一年ほど経った頃、バイト先に雪さんという二十四歳の女性が入ってきた。名前の通りに色白で、儚げな印象の女性だった。

僕は、雪さんに話しかけることができなかった。

二十歳の僕にとっては四歳年上というだけでものすごく大人に感じ、気軽に話しかけるのが躊躇われた。雪さんは無口で、どことなくミステリアスな雰囲気があり、二人きりになると緊張した。

それを佳奈ちゃんに話すと、「あっちゃん、雪さんのこと好きなんだぁ!」とでかい声で言われ、慌てた。

「ちょっ、声でかいから」
「あっちゃん面食いだなー」
「えっ、そう?」
「ほとんど話したことないのに好きになるって、見た目が好きってことでしょ? それって面食いじゃん」

佳奈ちゃんにそう断言されると、そんな気がしてきた。僕は、二十歳にしてはじめて恋をしたのかもしれない。

「あっちゃん、良かったねぇ。初恋だもんねぇ」

佳奈ちゃんはしみじみと(でかい声で)言った。

それからというもの、佳奈ちゃんは僕の恋を積極的に応援してくれた。「雪さん、彼氏いないって!」「雪さん、ピアノの先生やってたんだって!」などと、雪さんから聞き出した情報を僕に横流しするようになった。

僕も、佳奈ちゃんに恋愛相談をした。なんて話しかけたらいいか、どうやって連絡先を交換するか、デートに誘う前に告白するべきか否か。

その度に佳奈ちゃんは「よしっ、作戦会議だ!」と喜んだ。店ではできない話なので、作戦会議はいつも電話かメールだった。

数か月後、佳奈ちゃんに背中を押され、僕は人生で初めての告白をした。

結果は玉砕だった。なんと、雪さんは結婚していた。

佳奈ちゃんが「彼氏いるんですか?」と聞いたとき、雪さんはふふっと笑って「まさか。いないわよ~」と答えたそうだが、それは、結婚しているからだったのだ。雪さん自身、履歴書に書いてあるのでみんな知っていると思っていたらしい。

◇◇◇

フラれた日、佳奈ちゃんの家で勉強を教えているときに、そのことを報告した。

佳奈ちゃんは泣いた。

「あっちゃん、ごめんね。佳奈が、雪さん彼氏いないとか言っちゃったから」

「いや、佳奈ちゃんのせいじゃないよ! なんで泣くの」

「だって、あっちゃん悲しいでしょ? あっちゃんが悲しかったら、佳奈も悲しいじゃん」

他人が悲しいから自分まで悲しくなるだなんて、僕にはわけがわからなかった。

「あっちゃん、しんどいね。雪さんのこと思うとつらいよね」

雪さんのことを思うとつらい、だって?

ピンと来ない。「自分がフラれたことがつらい」んじゃなく?

そして、気づいた。

僕は、雪さんのことをまったく見ていなかった。「どうしたら雪さんと付き合えるか」ばかり考えていて、雪さんの気持ちを想像してみたことがなかったのだ。

雪さんは今この瞬間、何を思っているのか?
心穏やかに過ごしているだろうか?

そんなふうに心配することも、ましてや幸せを願うことも、なかった。気になるのは「雪さんが僕のことをどう思っているか」だけだった。

恥ずかしくなった。

雪さんだけじゃない。僕は今まで、誰かの気持ちを考えたことがあっただろうか。

佳奈ちゃんが僕の気持ちを想像して泣くように、誰かの気持ちに寄り添ったことがあるだろうか。

佳奈ちゃんはクッションに顔を埋めて泣きじゃくっている。花の刺繍が施されたクッションに鼻水がつき、佳奈ちゃんが顔をあげるとみょーんと伸びた。

慌てて、ポケットをまさぐる。しかし、ハンカチもティッシュもなかった。佳奈ちゃんはサイドボードからティッシュの箱を取ってきて、自分で鼻水を拭いた。

わからないけれど、少なくとも今、佳奈ちゃんが泣くのは嫌だと思った。

佳奈ちゃんがいつも笑っていられますように。

自分以外の誰かのことを祈ったのは、これが初めてかもしれない。
 
◇◇◇

間もなく、湘南台、湘南台、終点です。お出口は右側です。小田急江ノ島線と横浜市営地下鉄線は、お乗り換えです……

ドアが開く。佳奈ちゃんは黙って電車を降り、反対側のホームへ行く。僕も、黙ってついていく。横浜行きの電車を待っているのは僕たちだけだ。

「佳奈ちゃん、本当は今日、話したいことあったんじゃないの?」

佳奈ちゃんは振り返らない。ベージュのサマーニットを着た肩が震えているように見える。

「話したくなったらいつでも聞くよ。話したくなかったら、話さなくていいし」

佳奈ちゃんが振り向く。不思議そうな顔をしている。

「なんで、話したいことがあるってわかるの?」

わかるわけじゃない。佳奈ちゃんの気持ちは、佳奈ちゃん以外の誰にもわからない。

でも、わかりたい。佳奈ちゃんが誰かに話したいならそれを聞きたいし、佳奈ちゃんが泣くならハンカチを差し出したい。

そんな気持ちを教えてくれたのは、あの日、花の刺繍のクッションについた佳奈ちゃんの鼻水だ。

アナウンスが流れ、ホームに電車が滑り込んでくる。僕たちは、横浜行きの相鉄線に乗り込んだ。車両はガラガラに空いている。

「好きな人がいたんだけど」

足元にぽとんと投げ捨てたような声。

「彼女にしてもらえなかったー」

「……悲しかったね」

「うん。悲しかったー」

今なら、あの日の佳奈ちゃんの言葉の意味がわかる。

佳奈ちゃんが悲しかったら、僕も悲しい。

心の中で祈る。

佳奈ちゃんがいつも笑っていられますように。


◇◇◇

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