コミュニケーションが受け身
たびたび書いているとおり、私は自分から距離を縮めるということができない。
挨拶や世間話、業務連絡はできる。
だけど、
・自分から世間話以上の話題を振る
・連絡先を聞く
・遊びに誘う
といったことができない。
じゃあ友だちが少ないかと言えばそうでもなくて、偏屈で人見知りなわりには、友だちがいるほうだと思う。
自分からは距離を縮められないけど、相手が縮めてくれれば友だちになれるのだ。
つまり、私はいつも距離を縮めるきっかけを相手まかせにしている。
コミュニケーションがひどく受身な、受身人間だ。
◇
受身人間は、よく言えば協調性があり、悪く言えば主体性がない。
で、受身人間は集団の中で疎外されにくいので、一見コミュ力があるように見える。
けれど、子どもの頃の私は受身を極めすぎてけっこう大変な目に遭っていた。
今思えば、何かしら診断名がつくやつかもしれない。
このひどく受身な状態から一転、16歳~22歳くらいはコミュニケーションが過剰に積極的(一方的)になった。
極端から極端に振り切ったからか、今は「社会生活に困らない程度の受身人間」に落ち着いた。
◇
受身あるあるだと思うけど、「敬語をやめるタイミングを相手にまかせる」ことってないだろうか?
知り合ってお互いに敬語で話している場合、親しくなるとどこかで「敬語からタメ口に切り替えるタイミング」がある。
私は、自分から切り替えることがない。相手がタメ口に切り替えてきたところで、自分も切り替えるのだ。
あと、仕事関係の人とのメールで「お世話になっております」をやめるタイミングとか、絵文字を使いはじめるタイミングも、だいたい相手に合わせる。
だから、相手も受身人間の場合、永遠に距離が縮まらない。
そんな受身人間の私からすると、自分からするりと距離を縮められる人は尊敬しかない。
山小屋で、知り合ったばかりのスタッフに「連絡先教えて!」と言われると、私は何食わぬ顔で「うん」とスマホを取り出す。
しかし、内心では「す、すごい……! どうしたらためらいなくその台詞が言えるの……!?」と圧倒されている。
◇
私は2015年から脱・受身をテーマにしている。
別に受身人間は悪いことじゃない。「是正すべき!」とはまったく思わないけど、私自身が是正してみたくなったのだ。
具体的には、自分から話しかける・自分から連絡先を聞く・自分から遊びに誘う。
人と出会ったとき、これらを意識するようにしている。3年実践していると、わりと受身が是正されてきた(これでも)。
やってみてわかったけど、30過ぎてからでも人間ってけっこう変わる。
たぶん、「ネガティブからポジティブへ!」「人見知りから社交的な人へ!」という大変身は難しいし、疲れちゃって続かないと思う。
だけど、「自分から連絡先を聞く」くらいなら、3年意識していればできるようになった(緊張するけど)。
高いハードルを越えるのはしんどい。
低いハードルをたくさん越えるほうが、私には向いているみたいだ。
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