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【ショートショート】咲氷室

蝉の中でも一際暑いのはクマゼミじゃないだろうか。
真夏の日差しにむせ返るような空気。
そこにあのシャンシャンシャンシャンと爆ぜる鳴き声はミンミンやジージーには出せない特別な暑さを演出する。
そんな蝉の声も小学生の頃は虫取り網片手に駆けずり回った夏の1日を彩る最高のBGMだったはずだが
今は聞いただけで背中が汗ばみそうな夏の騒音へと成り下がってしまった。そんな事を考えながら実際に背中に汗をかき、公園の横を通りかかった。
鬱蒼と茂った木々の中で一層に蝉の声は重なり合う。
不思議な事にそれら蝉噪せんそうは互いに打ち消し合い、喧騒の中で一瞬幻の静寂に包まれるのだ。
それまでおざなりにしていた視界からの情報にピントが合うと
赤ひげ書体の『氷』の文字が飛び込んでくる。そしてそれが
かき氷屋の暖簾と分かると年甲斐もなく心が弾んだ。
暖簾をくぐると昭和家屋の車庫を改装した様な味のある佇まいが現れた。
いらっしゃいませ
と年配で小柄な女性店主が前掛けで手を拭きながら出迎えてくれた。
「へー知らなかった。"さきごおりや"っていうんですか?」
「ふふ、実は"さきひむろ"なんですよ。いいのよ、よく間違われるから」と嫌味のない笑顔で店主は答えた。
よく見ると『咲氷屋』でなく『咲氷室』としっかり表記されている。
「あ、失礼しました」と照れ笑いし誤魔化すようにメニューを探した。
「味はこの『咲き氷』一種類だけなの、大きさだけこの中から決めて」
「へぇ。じゃ小で。咲き氷って変わった名前ですね。何味なんですか?」
「それはお客さん次第よ」と意味深に答えて店主は氷を削り始めた。
小銭を握りしめて待っていると懐かしい気持ちが蘇ってくる。
「はい、咲き氷の小ね」
カウンターに置かれた咲き氷は夏祭りの屋台で見るソレよりも一層きめ細かく美しい白が際立っていた。
あれシロップは?という表情を「いいから」と店主は掻き消した。
店内に設けられた丸椅子に座り咲き氷を一口頬張る。
氷は舌の上でスッと溶け不思議な甘味が広がった。

店を出るとうだるような暑さもどこか心地良い。
単純に体温が下がっただけでは得られない清々しい気持ちが足取りを軽くした。
歩きながら店主の言葉を思い出す。
「咲き氷は甘かったり、酸っぱかったり人それぞれに味が変わるの。食べた人の夢の味がする不思議な氷を使用しているから。もし甘く感じたのなら貴方がまだその夢を大事に抱き続けている証拠ね。
それに氷と同じ様に心の中でスッと溶けたモノがあるでしょう?それが迷う気持ちよ」
不思議な体験だった。
もし今振り返ったら、店ごと無くなっていそうな気さえする。
自然と首が後ろを向こうとしたその瞬間
虫取り網を手にした少年達が私を追い越していった。
我に返る。そうだ、そんな野暮な事はやめよう。
少年たちはあの公園へと駆け込んでいった。

蝉の声をBGMに逸る気持ちで家路へと急いだ。

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