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いまさらながら小山田圭吾(コーネリアス)の差別問題を考える。

私が二十歳の頃フリッパーズギターというバンドにめぐり逢い衝撃を受けた。

フリッパーズギターとは小山田圭吾と小沢健二によるいわゆる”渋谷系”の元祖的なバンド。

二十歳の私にとって今までに聞いたことのない表現しようのないジャンルの音楽を聴かされたから。

後に元ネタが60年代のイタリア映画から、かなりの影響を受けていたことが分かるのだが、パクるにしてもそんなマイナーなジャンルから持ってくる感性の高さに感動をし、その後もかなりの影響を彼らから受けてきた。

さて、本題だが、もちろん小山田のやったこと(記事を読んだレベルの印象)は酷く許されがたいものだと感じる。

しかし今回あえて、障がい者差別やいじめの問題でいつも感じる違和感を自分の経験を交えながらあくまでも個人的な考えとして書かせてもらおうと思う。自戒も含めて。

まずは差別やいじめと、法に触れる犯罪とはそもそも区別をしなければならない。

そこでいわゆるいじめにかんしては昔からあったし、今後もなくなることはないと思う。

私の子供の頃もあった。
ある時はいじめる側に、ある時はいじめられる側に。

ずっといじめられる側にいた子もいた。その子たちにとっては学校は地獄だったと今でも想像する。

私は小学校5年~6年にかけて特定の子にいじめられ続けてきた。

ある日、通学路いっぱいに私の悪口をチョークで書かれ、ほぼ全校生徒に知れ渡る行為をされた。

さすがにショックを受けたが、でも何も言えず我慢していたら、別の友達から ”こんなことされてお前黙ってるのか!” と言われ、いじめていたやつとはそれ以来こちらから何を言われても無視し続け、その友達も力になってくれていじめは終わった。

逆に私が肥満体型だった同級生を豚呼ばわりしてからかっていたら、別の同級生が ”いい加減に止めろ!” 殴られそこでいじめを止めた。

当時思い出すのは、私の周りでは、いじめを解決したのは周りの大人でもなく、先生でもなく、子どもたちだった。

どこかの段階で”いい加減にしろ”という子が出てきてそこで止めることが殆どだった。

前途したように中にはずっとその対象になっていた子もいた。そこは自戒を込めて反省しながらも同じことは今後繰り替えすまいと守ってきたつもりだ。

今のいじめはSNSなどの影響もあり私たちの頃とはかなり違った形のいじめがあると感じるし、深刻度は酷いものだと想像する。

だが、私は解決法は昔も変わらないと感じている。

どこかで誰かが手を差し伸べること。周りがその勇気をうけいれること。

それしか根本的な解決はないと思うし教育者・大人はそういう子どもたちの模範にならなければならないと強く感じる。

しかし実際、働いている環境を見渡してほしい。

経験上だが、どの職場に行ってもいじめは存在している。

そして手を差し伸べるどころか、同調圧力に負け、止める気配はなく、むしろ皆、目を付けられないように目立たないように保身に走っている。

大人がこの状態で子どもにいじめを止めろなんてちゃんちゃらおかしい。

見て見ぬふりをする、保身に走る。そんな大人を見ていじめをなくそうなんて言葉が子どもたちに響くとは到底思えない。







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