刷り込まれた既成概念
私の意思はどこまで私の意思なのだろう。
「刷り込みだ。人の言動は全て、前人の言動ゆえの刷り込み。自分の言動が自分の意思によるものだと思っているのなら大間違いだ。全ては自分の意思から疑ってしかるべき」
そう過去の私は言った。
反抗期の私だった。
続いて、
「だから親は無条件に子供を想うなんていうのも刷り込みでしかない。
少なくとも私は何度も自問自答を繰り返して自分の意思に答えを出した」
「刷り込みではない自分の意思かどうかはそれでも判断つかないけれど」
とある。
「そういうものだと言って絶対的な意見のように使うのは、実のところ自分がどう考えているのかを放棄しているだけ」
「刷り込みに唯々諾々と従った言葉にはかけらも価値がない」
「だからその言葉は信用できない」
このように締めくくられていた。
嘘だと思ったわけではないのだと思う。
何を言われたのかは忘れてしまった。
だから想像しかできないけれど。
ただ、きっと言葉の薄っぺらさに怖気がしたんだ。
人は普段、そこまで考えて喋らないし、まして自分の考えに疑いを持つなんてそうないだろう。
自己暗示のようなものだと思う。
世間一般が『正しい』と思うことを『正しい』と考える。
それが『常識』だから。
私たちはSNSに触れることで常識の擦り合わせを容易にした。
私たちの記憶は私たちに改竄される。
誰かの考えを無意識に自分の考えとすることは思いがけずあってしまう。
そうでなくても、自分の「正しい」を強く主張する人には惹きつけられる。
自信のある人は強い。
それが本当に「正しい」かは別としても人を信じさせることができる。
私たちはどこまで、あるいはどこからが自分の意思かわからないだろう。
私の考えは自信のある誰かの言葉だったかもしれない。
毎日目にする数多の意見は無意識にインプットされる。
無意識のインプットが私の思考を継ぎ接ぎしているのはきっと確かだ。
そこに私の意思が存在するのか、端切れのパッチワークでもおかしくない。
酷く恐ろしいことさ。
私は本当に私として意見を述べることができているだろうか。
書きながら常に自問自答している。
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