「日本人とは何か。」を読んで

800ページにもおよぶ、かつてないほど長い文庫本。日本人という民族の成り立ちから、それらの文化の変遷について、国際感覚豊かな著者が書いており、わかりやすいとともにFact基づいて書かれているため説得力がある。グローバル人材を目指す日本人であれば、自国のことをある程度知っている必要があり、そうした人向けには良書だと思う。
(全体的にやや日本礼賛寄りに書かれているかもしれないが)

以下、備忘録も兼ねてポイントをメモしておいた。(多分にネタバレを含む)

1.「骨の代」から「職の代」へ
日本の成り立ちは、文化的統合体。
歴史書の中心は戦争であり、戦勝国の威を高めるために書かれるもの。
一方で大和国の成り立ちが書かれた歴史書などが見当たらないのは、「日本が比較的平和なままに統一されたから」という学説がある。武力ではなく、文化的な優位性をもって各地の豪族をゆるやかに従えたのであれば、そういったプロセスが記録されていないのも仮説としては成り立つ。

日本語は中国語とは基本的には異なるものである。漢字が中国由来のものだが、当時の日本人は、日本語オリジナルであるかな文字をベースにしてそこに漢字を当て込む、というやり方で現在の日本語をつくった。これは当時の和歌文化に影響されたものと考えられ、仮にすべて中国語を使っていたとすると、日本の文化は大きく変わっていたと考えられる

結果として日本人は、韓国人に比べて漢文に対する知識が劣ってしまうものの、独自の文化を持つようになった。日本人の漢文に対する理解(なんとなく意味はわかるが発音できない)の仕方が、近代英語が入ってきた時にも影響し、現在の日本人の英語話せない状態の原点となったとも言える。

天皇が政治権をほぼ持たないのは、律令制度の崩壊とともに天皇は和歌をはじめとした文化の進展や祭事を行う一方で、政治のほぼ全権を太政官に委任したことから始まる。もともとの起源は卑弥呼の時代にも遡ると言われる。
こうした天皇が政治権を持たない体制があったからこそ、天皇家が120代以上続く要因となっている。

天皇=神という解釈は誤解であり、「カミ」という言葉は目上の者を指す言葉として日本語に残っている通り、「最上位の者」という考え方が正しいと思われる。天皇は神祇官の最上位として神事を司る役割であり、祀られる者ではない。実際、人々が願い事をするのは神社にいる神様であり、天皇に何かをお願いすることはない。

日本人は神道でも仏道でもなく、神儒仏合一論のもと日本独自の宗教を作り上げた。
もともとあった天皇を中心とした神道の最上位は天照大神であるが、鎮護国家の崇拝対象として仏道を混合させている。これらはもともと貴族の間に広まったが、時代の変遷とともに武士を経由して民衆にまで広まっていく。

多数決の根源は、宗教上の集団意思決定。
もともと多数決は一人一人が神の声を聞いて投票するため、「神のご意志」が現れると考えられていた。そのため、決定事項に間違いがある、という考え方は存在しなかった。
「神のご意志は絶対である」という考え方が行き過ぎると、本来俗世に関わるべきでない宗教徒の多数決が、俗世の物事にも影響し強訴を行うように変わってきてしまう。

多くの農民が租税に苦しみ、自らの土地を寺に寄進して傘下に入ることで、寺社の勢力が増すようになった。そのため、こうした宗教的なバックグラウンドを持つ多数決による意思決定がメジャーになってきた。これが近代、日本における民主主義の大きな拡大の原点といえる。
こうした共通点が歴史的に存在するからこそ、西欧から導入された民衆主義が日本で広がった理由である(逆にこうした共通点が少しでもないと、なかなか異質のものは広がらない)。

2.「職の代」から「名の代」へ
租税と同時に兵役にも苦しむ農民は、寺院の庇護下に置かれなかった場合は逃亡するしかない。逃亡した先は盗賊や海賊として生きていくこととなり、全国的に治安が悪化した。
そのため、平安時代は朝廷が各地方に自衛の警察を設けるが、これをほぼ委任・放置してしまったため、経済・武力で有力な武家が出来上がってきた

平清盛ののち、源頼朝が実質的に全国を統一したが、頼朝の行動は全て朝廷の意思のまま行ったことで、頼朝は非常に天皇への忠誠心が強かった。そのため、清盛と違って自らが公家に入りこんで権力を取ろうとはしなかった(朝廷と武家の役割分割の始まり)

上記のような公家と武家が線を引くようになったのは、北条家が提唱した一夫一婦制にもおよぶ。こうした武士としての生き方や気配りといったところにおいては、公家のそれとは全くことなるもので、武士として公家と全く同じことはしてはいけない、という一種の敬いである。

承久の乱ではじめて武家が朝廷との衝突が起こる。ここで武家は朝廷を滅ぼすのではなく天皇を変えることで乱は終結する。(中国のように滅ぼすことはない)
これは、天皇の位置づけがあくまでも「神々そのものに近い存在」となっており、天皇が悪しきことをしてしまうのは、その天皇の周囲の者がそそのかしているという解釈をしたからである。
(天命によって天子となる中国の皇帝とは位置づけがことなる)

その後、統治の実権は幕府が握ることとなり、法律が制定される。
ただし、この時漢文から成る公家法と、仮名文字からなる武家法(適用は武家から庶民まで)に分けられた。これは、漢字を理解していない者(公家法を理解できない者)がその法律を守れと言っても意味をなさないからである。この法律のもと、もともと寺院で使われていた多数決形式の意思決定が使われるようになった。(最終的に法的な部分も朝廷が幕府に権限委譲するようになっていく)

武家法の中身を見ると、意外にも能力主義・個人主義的なところが多く、相続権は長男と決まっていたわけではなく、妻や娘も含めて主人が決めるようになっていた(武士の土地に対する一種のこだわりを反映されたものの、要は「人の土地の相続対して口出すな」ということ)。
また、 罪に関しても一族郎党の首をはねる中国や韓国(家族のつながりが結束)と異なり、ある程度家族内で共謀していたりしない限りは重い罪にならなかった。

日本は韓国と比べても貨幣経済の浸透が非常に早かった。貨幣の浸透には、農業・商工業といった分業体制や交換経済の浸透などが前提条件だが、それが日本は比較的早かったといえる。結果的に、金さえあれば手ぶらで旅行ができる状態が室町時代には確立した。(今で言えばキャッシュレスの確立条件は??)

一揆をする際は、一族のつながりより一揆前の契約が優先される個人主義が発達する。また、こうした一揆の契約が、日本の平等主義・集団主義の原型とされ、一揆を行うメンバーの中で便宜上リーダーは存在するものの、意思決定の際は多数決を行うような形をとった

現代日本独特の二面性のある社会(現代で言えば多忙の中の礼節のようなもの)は室町時代に生まれたと言われる。当時は個人主義による激しい競争社会の中で、そこから隔離された静寂な空間、侘茶が発展した。

足利幕府は統治力こそ脆弱だったものの、金融市場を握ることに長けており、結果的に日本社会に貨幣が浸透することとなった。
戦国時代の領主にとっては、家柄などではなく、領土を守ってくれる強力な武将がいればよかったため、強い武将の領土がどんどん拡大するのは必然で、武田のように一気に求心力を失う武家は多かった。(例:家柄のない秀吉の台頭)
また、貨幣経済の浸透によって、民が土地から離れることが一般化、さらにカネで鉄砲を買うことができたため、カネを抑えた武将が非常に力をつけていた。

3.名の代・西欧の衝撃
韓国には終末論はないが、日本では終末論がある。これは度重なる一揆や戦乱で常に「今の世はいずれ終わる」という考え方が広まったと思われ、これが日本人の無常観に繋がっている

キリスト教の伝来について、真言宗をはじめとした仏教からの伝道妨害は起こっていたものの、これは他国でも起こっていたことである。
そもそも仏教も外国伝来の宗教であるように、日本人独特の宗教的寛容が存在する。また、日本がかな文字の発明で中国を脱し、式目によって中国的体制を脱したタイミングでキリシタンが来たことも作用している。

秀吉をはじめ当時の日本トップはキリスト教そのものを禁止したのではなく、宗教戦争を回避するために苦労していたことが窺える(一向一揆の鎮圧に苦労していたことが背景)。基本的に日本人トップのスタンスは、宗教の自由は認めつつ、宗教勢力が過度な武力や所領を持つことを危惧していた。国内の政治的平穏を保つため、宗教間のいさかいを起こさなければ、個々人の宗教観は自由、という態度である。
つまり、政治と宗教は完全に切り分ける、という一種の合理的な日本人の態度がここで生まれている。

当時九州ではキリシタンから伝わった奴隷制度に基づき、日本人奴隷をインドその他に売り渡していた。日本では、公に奴隷制度がなく、ましてや日本人の同胞を海外に売り渡すといった行為は秀吉が受け入れなかったため、「奴隷購買者破門令」を出している。

家康は比較的海外との通商に積極的ではあったものの、ポルトガルやイギリスがオランダとの通商合戦に敗れ、日本から退いていったという見方もある。
また、一貫して幕府のスタンスは、キリスト教自体は否定しないものの、一向一揆のような政治力を持った団体になって争い事を起こすことだけを危惧していた。
家光時代の島原の乱は一説には、キリスト教の弾圧ではなく領主の重税に耐えかねた農民(キリスト教徒)による農民一揆とも捉えられる。というのもキリスト教徒は仏教が中心となる他の地域に逃亡することができなかったため、耐えかねて戦う選択肢をとったということである。

若干平和ボケしてしまった幕府側武士もあり、島原の乱の鎮圧に相当苦労した。そのため、幕府側も鎮圧後は農民一人ひとりを仏教徒として寺に登録する、一種の戸籍のようなものを作ることとした。

キリスト教は同時に日本に多くの西欧からの知識をもたらせており、禁教後もキリスト教を除いた蘭学として広く学ばれることに代表される。韓国のように朱子学一辺倒ではなく、蘭学も取り入れて、どちらか一方に偏るのではなく、いいとこ取りをしていくのが日本独自のやり方として今後も定着していく。

4.伊達千広の時代
徳川家康は、過去の法律や制度のいいとこ取りするのが上手く、統治のやり方(中央集権と地方分権の合体版)によるバランスのよい統治、貨幣制度の確立(幕府のみが貨幣発行権を持つ)、参勤交代による地方→関東への道の整備、などを残した
結果的に、国内で人や物の往来が盛んになり、「秋田のコメを江戸の人が食べる」といった地方ごとの役割分担も確立した。

徳川幕府が確立し、戦乱の世が終わると、武士の役割が少しずつ小さくなってきた。彼らは藩に徴用されるか文官になるといった少数以外は少しずつ役割がなくなり、社会上の立場が少なくなってきてしまった。結果として武士階級は支配階級という位置づけではあるものの困窮し、自己の技能や労働で生きていかざるをえない状況になっていった。

実力・個人主義の戦国時代から江戸時代となると、タテ社会が形成される。ただしこの社会は絶対君主ということもなく、時に藩主が有力家臣によって隠居させられるケースもあった。こうした君主の権力と部下の下克上の混在した、トップダウン・ボトムアップの両面を持った組織文化は現代にも受け継がれている

徳川幕府は幕府を中心にしつつ、各藩の自治を認めていたため、各藩が領内の農工業の生産性を向上させるモチベーションが高かった。そのため、農民は必ずしも米ばかりを作っていたわけではなく、その土地で作れて付加価値の高い製品(例:藍や紙など)を作るようになっていた。そのため、五公五民と言われていても過度に生活が困窮する農民は少なかったと思われる(また、五公五民の根拠となる検地も頻繁には行われなかったため、生産性を上げた分は自らの取り分になったことも起因)。

約300年間の鎖国において、日本国内は経済の全てを自給自足する必要があった。農工業だけでなく、金融も発達し、町人が各藩以上に力を持つようになった。
町人に金が集まるものの、海外との取引がなく、技術革新もないことから、彼らの新しい投資先が見つからない状態となった。最終的には密貿易が横行したことは、鎖国の限界がきていることを示している

日本は四季がはっきりしており、暦を正確に把握しないと農業が成り立たなかったこともあり、和時計の技術が発展した。明治維新後、海外から様々な技術が入ってきた際、日本の時計技師たちはそれを取り入れることに成功した。
海外からは「日本人は模倣の天才」と揶揄されるが、ベースとなる時計技術があったことが起因している。

江戸時代という平和が訪れることで、武力の時代から学問の時代に変わった。この学問の中心となったのは、公家や幕府、宗教ではなく、民間学者である点に日本の特異性がある。

幕府は自らの統治権の正統性を保証するため、学問をうまく用いることとした。そこで発達したのが政治学で、「幕府は天皇から統治権を委譲された正統な政府」という位置づけを学問内で明確化し、それに相なす者は謀反としていた。
(ただし、そもそも天皇が統治権を持つべきでは、という考え方にならないよう注意する必要があった)

武力で一山当てる戦国時代からにおいては、幕府は力で民衆を抑えるようにしてきていたが、一向宗や農民の一揆があり、こうした武力で人々を抑えるのは長期的には難しい。民衆も、武力でどうにもならないということに気づくと、そういった鬱憤や下克上意識を学問に向けるようになった

無宗教でありながら、神仏行事を行う日本人独特の考え方は、江戸時代に生まれている。当時の学者たちは、神仏行事は「祭る者の宗教心理学的な問題」として、神仏が実在するかどうかについては問題としていなかった。こうした考え方があるからこそ、儒教・仏教・神道・キリスト教など多くの宗教が混在する社会でも宗教問題が大きくならなかったと考えられる。

日本の近代化の成功は、自らの「くせ」を知りつつ、加上することが出来たことにある。前例を全て否定するのではなく、今までの積み重ねに新しいものを加えることで進化するやり方が日本人らしいやり方である。こうした日本人の「くせ」は必ずしも外国の文化にフィットするわけではない。


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