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「紅い草」 *翻訳*小説*掌編

 雨が降っていた。まだ、列車はやってこない。駅舎には調子っぱずれのピアノの音色がひびいている。古い、そしてとても小さな駅だった。赤い傘をさした女が窓の向こうを歩いていく。ケイジはカフェで紅茶を飲んでいた。お世辞にも美味しいとはいえない紅茶だった。カフェは駅舎と出入り口がつながっていた。駅舎のすみに置かれたピアノを老人が弾いていた。音楽にあまり興味がないケイジには何の曲だかまるでわからなかったが、明らかに音はくるっている。雨はとても静かに降っていて、窓を叩く音もカフェには届かない。

 カフェに入ったときから、ケイジには嫌な予感があった。その紅茶をいれたのはカウンターでグラスをみがいている若い女だった。女は田舎町の駅にはまるで似つかわしくない派手な化粧をしていた。カフェにケイジ以外のお客はいなかった。紅茶は色こそ紅茶らしい雰囲気だったが、味はどこまでいってもホコリっぽい風味がした。カフェにはコーヒーの香りがたちこめていて、あたたかい紅茶を頼んだケイジに向かって女が怪訝そうな表情をしたのだ。ケイジの前にある紅茶は明らかにコーヒーのカップとおぼしき器に入っていた。

「もうすぐよ、もうすぐ来るわ」
 カウンター越しに、女がそう言った。そのセリフはすでに3度目だった。もしかしたら、女が言っているのは列車の話ではないのかもしれない。女の手にはセントバーナード犬が愛用してそうな平たいカップが握られていた。たぶん、中身はコーヒーだ。
 ケイジはおそろしく暇だった。ものすごく時間を持て余していた。この駅には時刻表がなく、時計もない。ケイジはホテルに忘れてしまった腕時計のことを恨めしく思っていた。ケイジの前には1冊の本が置いてあった。タイトルは「凡庸なる動物の非凡なるホメオスタシス」。家を出るときにあわてていて、買ったばかりのミステリー小説とまちがえてしまったのだ。部屋にそのような本があったことすら忘れていた。旅の友にするにはまったく不向きな内容だった。ケイジはカバンから本を取り出してみたものの、1ページたりともめくる気にはなれなかった。
 
「なにを読んでいるの?」
 女はそう言うと、カウンターのイスに腰掛け、タバコに火を付けた。紙巻きタバコの煙がただよってくる。この香りは年上のガールフレンドが吸っていたタバコと同じだ。
「ネズミのお話」
「童話?」
「いや、生物学の本」
「勉強?」
「そう……」
 いろいろと説明するのが面倒だったので、ケイジはあいまいな返事をした。先月、ケイジは1年半勤めていた中古車販売店をクビになったばかりだ。
「どんな話?」
「肉ばかり食べさせたネズミに、なんでも好きなものを食べていいよと言ったら、野菜を食べようとする話」
 ケイジが開いていたページはちょうど、ネズミのカフェテリア実験が書かれた章だった。
「ネズミって、意外に健康的なんだ」
「そうだね、でも、健康とかじゃなく、生まれつき、そんな能力をもっているという話なんだよ」
「ふーん」
 女はそう言って、タバコを灰皿でもみけした。それ以上、女は尋ねる気がなさそうだった。女がやたらと足を組みかえるので、ケイジは目のやり場に困った。
 
「もうすぐ、終わるわよ」
 女がなにを言っているのか、ケイジにもすぐにわかった。ピアノの音が消えた。嘘みたいに周囲が静かになった。老人がゆっくりと立ち上がるのが見えた。老人は灰色のシャツと泥色のパンツを着ていた。薄汚れた革の靴をひきずっている。老人はカフェに入ってくると、慣れた仕草で女からビールを受け取った。そして、また、ピアノの前に戻っていった。
「あの人、いつも、ピアノを?」
「そう、毎日、朝からここにきて、1時間ほどで帰っていくの。毎日、毎日。むかしは船の上でピアノを弾いていたらしいわ」
「船の上?」
「あのピアノを聞いたら、船酔いにならないとかで、わたしにはまるでわからないけれど」
 ほんのつかのまの静寂だった。老人は一気にビールを飲み干すと、あたりにピアノの音が響き始めた。ケイジにも、ピアノの素晴らしさがまるでわからなかった。どちらかといえば、不安定な音程でさらに船酔いが重くなりそうな気がした。
 
「若いときにね、故郷に帰る船にのって、そこの食堂にあったピアノを弾いてみたらしいの。それまでまったく、ピアノどころか、楽譜さえ見たことがなかったのに。そうしたら、食堂にいた大人も子どもも赤ちゃんも、犬や猫なんかも、船酔いにならなくて、食堂においてあった食べ物や飲み物が1日でなくなったそうよ。ふだんなら半分以上の人が何も食べられないくらいに頭がゆれるのに。で、故郷の港には降りずに、そのまま船でピアノを弾くことになったって」
 もう一度ていねいに、耳の神経を集中させて音を聞いてみたが、やはり、ケイジにはピアノのメロディが特別なものとは思えなかった。
「あれは、なんの曲?」
「すべて、即興らしいわよ、その場の思いつきで、手が勝手にピアノを鳴らしているだけなんだって」
 どこかで聞いたことがあるようなメロディがした。どこで、なのかは思い出せない。世界中にメロディはあふれているし、似通ったものなんてどこでも落ちているだろう。ましてや、白と黒の限られた鍵盤ではありふれた音階しか出せないわけで。
「そういえば、こんなことを言っていたわ……不眠症のコアラも眠るくらいだって」
「コアラ?」
 ケイジはなにか別の単語と聞きまちがえたかと思った。
「コアラって、ずっと寝ているんでしょ?」
 ケイジはうなずいた。
 そう、コアラは一日の大半を眠りのなかで過ごしている。毒性のあるユーカリの木を主食としているからだ。コアラは生きるためにユーカリをゆっくりと消化する時間が必要で、それを断続的な睡眠で補っている。
 
「もうすぐね、もうすぐ」
 女はそう言って、カウンターのなかへもどっていった。なにがもうすぐなのか、ケイジにはわからなかった。きっと、ここは時間の歩みが遅い場所なのだ。
「どうして、ここへ?」
 女は慣れた手つきでカフェポットに水を入れ、ガスコンロの上に置いた。
「まとまった休みがとれたので、目的地も決めずにふらふらと旅行へ。まさか、こんなに列車がないところだとは思ってなかった。特に急いでいるわけではないので、別にいいんだけどね」
「ここには列車だけでなく、いろいろなものがないわ」
 女がそう言うと、カフェポットが汽笛のような音をあげた。
「おかわりは、いかが?」
 ケイジは少しばかり考えていたが、同じものを飲む気にはなれなかった。ケイジはコーヒーが苦手だった。ほんの一杯のコーヒーだけで、頭痛がしてくるのだ。おそらく、生まれつきの体質なんだろう。コーヒーが飲めなくて困ったことはこれまで一度もない。
「ありがとう、でも、遠慮しておくよ」
「ごめんなさいね、ここには紅茶がなくて……」
 ケイジは自分の耳を疑った。紅茶がない?
「ここでは誰も紅茶を飲まないのよ」
「それじゃ、これはなに?」
 ケイジはテーブルの上の半分以上残っている液体を指さした。
「それはこれ……」
 女はそう言って、手のひらに錆びた缶をのせた。あまりにも錆が多すぎて、缶の横に書いてある文字さえとぎれとぎれだった。おそらく、おそらくだが、それは異国の文字だ。女はスプーンで缶のふたを外すと、カウンターの上に中身を取り出した。ケイジは立ち上がって、カウンターまで歩み寄っていく。それは赤黒い固まりだった。
「船の上のピアノ弾きをやめるときに、船長からもらったんだって」
 ケイジは左手を伸ばし、その物体をひとつまみした。どう見ても、紅茶には見えない。かつて、葉っぱであった余韻さえ感じられなかった。さわると、固まりがぼろぼろとくずれていく。
「これ、本当に、紅茶?」
「たぶん……」
 女は自分のコーヒーを、新しいコーヒーをカップに注いでいた。
「それで、あのピアノも、船の上にあったものなの。わたしがここに来るずっと前からあるみたいだけどね」

 ケイジもなにか新しい飲み物が欲しかったが、がまんすることにした。コーヒー以外を注文するとなにが出てくるかわかったものじゃない。ケイジはゆっくりと自分のテーブルにもどる。この駅にはケイジと女、それに老人しかいなかった。無人の駅だ。外では音のない雨が降っていた。まだ、列車はやってこない。駅舎には調子っぱずれのピアノの音色がひびいていた。いつになれば老人はピアノをやめるんだろう。たしか1時間ぐらいの演奏だと言っていたはずだ。ケイジがここに座ってから、もうずいぶんの時間が経ったような気がする。もしかすると、ここにあるすべてが誰かの即興なのかもしれない。もしくは、きっと船の上なんだ。おそらく、たぶん船酔いしている。ケイジも、この駅も。
 ケイジはカップに口をつけた。カップの底には深く紅い粉が沈んでいた。ふつうの紅茶が飲みたかった。豊かな香りが鼻と喉を通りすぎ、すべてのマイナスをニュートラルにもどし、心の奥から気持ちを落ち着かせてくれる、そんなふつうの紅茶を。赤い傘をさした女が窓の向こうを歩いていく。雨粒がケイジの見ている風景をモノクロームに変えていた。
 
「もうすぐよ、もうすぐ来るわ」
 カウンターの向こうで、女が虚空のどこかを見つめながらそう言った。

 
***fine***
 
 Anvil Novels Urn "The Red Grass" (2010) Unfinished
 
 この小説は、Anvil Novels Urn の掌編「The Red Grass」(未完稿)を翻訳したものです。

#翻訳 #小説 #掌編 #紅茶のある風景

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