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緑紫色の苔を飼っている

 横断歩道で、ぼんやりとしていたら、左足の甲を真っ白な自動車のタイヤが通り過ぎていき三秒間の記憶が飛んだので、コンビニエンスストアで緑紫色の苔を買ってきた。定価の半値だった。ところどころに錆が腐食している。期限切れだったのかもしれない。陳列棚のジャンクフードと仲良く廃棄されるのも忍びなく思い、ぼくは苔を手にとってレジへ向かった。衝動飼いだ。無愛想な店員にお釣りと長いレシートを渡される。「これが説明書です」とレジが喋った。豆本みたいな薄い冊子だった。ぼくは苔を持って、部屋に帰る。軽くて鈍い痛みが左足の先に残っていた。ぼくは痛み止めの錠剤を噛み、靴下を脱いで湿布を貼る。おそらく、骨に異常はないはずだ。

 説明書の日本語は支離滅裂だった。誤字脱字の域ではない。中途半端に壊れている。まるで、母国語を同じくするパラレルワールドからのお便りみたいだった。ぼくは世界の成り立ちを解読する天文学者のような気持ちで、捻れた文字を読み始めた。原三地は宙羽瑠度ウ。湿リノアールところで再倍ス。耐用は転敵だ。吸い分は不要。エサ乗ん音波はドビュッシー。深赤緑紫色になると終わ理。続きの文章を、ぼくはパスした。読む気にもなれない。断念する。ぼくは引き出しの奥にあるはずのドビュッシーを探した。ホコリまみれになった「子供の領分」のCDだ。ぼくは緑紫色の苔を白い皿にのせ、フローリングの床に置いた。狭いワンルームの隅だ。ここなら西陽さえも当たらない。そして、ぼくはドビュッシーを流した。

 苔は気紛れで我儘だ。

 それから、ぼくは緑紫色の苔と一緒の時間を過ごした。朝はカーテンから生まれたての光が木漏れる部屋で「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」を。昼の間もドビュッシーをループし続けておいた。月が出てくれば「雪は踊っている」を苔と一緒に聴く。そして「ゴリウォーグのケークウォーク」では少しボリュームを上げてやった。現実世界を半音階ほど揺らしてくれるドビュッシーの音楽はとても心地よい気分がした。苔が好むのも理解できる餌だ。三日ほどで苔に付いていた錆は薄くなった。苔が再生していた。緑は暗色度を増し、紫の青みが深くなっていく。色の変幻は蛍光灯の下でも鮮やかに分かった。ぼくは一回り大きな皿に苔を移し替え、新しいドビュッシーの曲を追加してやった。

 苔は言葉を発しない。動いたりもしない。意志もない。ただ、そこにあるだけだ。ぼくに安らぎを与えてくれるわけでもない。甘えてくるわけでもない。苔の細胞は部屋の空気に潜む、僅かばかりの水蒸気で日々の維持は事足りるようだった。陽光を嫌い、日陰を好む。音楽はビタミンのようなものだろう。部屋での一日が本来の主であるぼくでなく、苔に乗っ取られていく。ベランダに面した窓ガラスさえも曲の振動を覚えてしまったかのように、部屋にはドビュッシーの音像が浮かんでいた。

 ぼくは人間で虚仮だ。

 ぼくと苔の生活が四十日を過ぎた頃、苔に変化が現れた。苔は小さくなっていた。一昼ずつ、白い皿の上にある苔が縮んでいく。ぼくは栞代わりに使っていた説明書を読み直した。宙意書き。エサ之は療は滴度に。過多すルと輝く光リを放ツ。苔の傷害終えル。輝きを蝕詩テも咳任は終わズ。跡死末は素のトコ口へ還す。原因は音楽を与え過ぎたのか。もう、遅い。ぼくはドビュッシーを止めた。無音の部屋がぎこちなかった。日に日に苔は小さくなっていった。そして、ちょうど七週間目の夜に緑青色の苔が輝いた。小さな種子のような光は苔の表面のあちらこちらに点在していて、ぼくは何の迷いもなく、そのひとつを口に入れた。ほんの数秒、微かに甘い刺激が舌を通り過ぎていく。

 翌朝、白い皿の上には何もなかった。苔は消えた。何度も何度も何度も皿を確かめる。部屋を探す。どこにも苔は見当たらない。代わりに、ぼくの指先が緑紫色に変わっていた。痛くも痒くも微熱も帯びていない。苔はあった。ここに。ぼくのなかに。そう思った。ぼくはコンビニエンスストアまで歩いていき、ぼくを買ってもらった。「これが領収書です」と店員が言った。やはり、無感情だ。いや、店員の顔には目鼻がなかった。ぼくはお金と領収書を店員の口に投げ入れる。レジがどこか異国のような発音で何かを喋っていた。ぼくは苔が置いてあった陳列棚の一番下にもぐりこんだ。眠い。ぼくは肘まで緑紫色になった腕を眺めていた。深赤緑紫色ではなく安堵する。ひたすらに眠い。部屋のカギを閉めたか、上着を忘れてきたとか、苔と過ごしている間ずっと何も食べてなかったなんてどうでもいいことを気にしながら、ぼくは待った。とても暖かい。今日がぼくの新しい誕生日だ。ぼくは両腕で膝を抱えながら、ぼくが誰かに飼われるのを待っていた。

 
BGM: The Sugarcubes - Birthday

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文章と音楽。灰色の脳細胞です。京都生まれの京都育ち。自己紹介&ポートフォリオ(ライター) https://note.mu/yosh_kyoto_ash/n/n04bcedab00cf はこちら。連絡先 yoshikawa.ash@gmail.com

コメント10件

ありがとうございます!「羽瑠度ウ」に関しては、戸田様へのコメントからちょっと調べてみました。よかったです。よい機会を頂いて、幸せでした。感謝です_(._.)_
調べてもらったなんて恐縮です(;´∀`) noteにアップしたものは「お好きにどうぞ~」というスタンスなので、またの機会があれば、よろしくお願いします!
頭の中でドビュッシーの子供の領分をクルクルとヘビロテしながら読みました。(全部弾いたことがあり、ドビュッシーにはちょっと思い入れがあります)。不思議だけれども、引き込まれる話で、ちくわさんの朗読も何度も聴いてしまいました。
かねきょさん。ドビュッシー、大好物なのでつかってしまいました♪ ちくわさんの朗読。音読されるなんて思っていなかったので、わたしは冷汗ものでしたけど^^;
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