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「気づいてないかも」  *翻訳*小説*掌編

 ふいに、助手席のクリールが、
「あ」
 と、声をあげた。自分でも意外なくらい甲高い声を出してしまったのに驚いたのか、クリールはあわててて左手で口をおさえる。
「ペンダント、落とした」
 クリールはジーンズの腰を浮かせながら、両手をシートの上にすべらせた。91年式ミニクーパーの車内はせまい。小柄なクリールでも身動きが取りづらそうだ。ミニは町外れのショッピングセンターに向かっていた。クリールが夕食にカマンベールチーズがどうしても欲しいとごねたからだ。近所のサリヴァンのお店には美味しいチーズが売ってないのよ、と。そう言って、クリールはダヴィドに向かって少しだけ頬をふくらませた。
 ミニは安物の芝刈り機よりノロマなスピードで目的地に向かっていた。どこかで事故でもあったのだろうか。ミニの前方には数え切れないくらいのクルマが通せんぼしていた。列の先頭はまったく見えない。ショッピングセンターへ行くにはこの通りが近道だった。横道に逃げたとしても、右には川が、左には大きな公園があって、どうやっても向こう側には抜けられない。
 ダヴィドは滅入った気持ちを隠しながらハンドルを握っていた。車内にいるふたりがどんよりとした気分ではせっかくの晴れた日が台無しになってしまう。そう、ミニはせまいのだ。クリールが小さなため息をゆっくりとついた。どうやら、シートの上にペンダントはなかったようだ。
「たぶん、すきまに落ちていったんだよ。手を伸ばせば取れると思う」
 ダヴィドがそう言うと、クリールは細い手をシートのすきまに伸ばした。クリールが攻撃できる場所は3箇所。ドアとシートのすきま、クリールの足元、そしてクリールとダヴィドのあいだだった。順に、見えないネックレスを求めて、クリールの指がさまよっていた。しばらくして、クリールの身体がダヴィドのほうへと傾いた。クリールの匂いがする。クリールの髪の匂いだ。ダヴィドはとてもいい匂いだと思った。とても落ち着いた気分になれる。全身の力が奪われそうなくらいの心地よさだ。複雑そうに見えて、いたってシンプルな種類の素適だった。ダヴィドはクリールに気づかれぬよう、そっと髪の匂いを嗅いでいた。

******

 ダヴィドが初めて髪の匂いを嗅いだのは10歳のときだった。もちろん、それまでにも髪のことは知っていた。当たり前だ。だれでも毎日のように嗅いでいる。ただ、髪の毛は単なるひとつの名前ある物体にすぎず、それ以上でもそれ以下でもない存在だった。10歳、それはダヴィドが大人の女性を初めて意識した年齢でもあった。
 その日の午後、ダヴィドはお別れ会の準備をしていた。ルーマニアからひとりの交換留学生が来ていて、ダヴィドたちといっしょに3日間だけ授業を受けていたのだ。とても白く透き通った肌の女の子だった。何人かのクラスメートと先生で、教室をささやかなパーティー会場へと変身させていた。ダヴィドはカラフルな風船を教室の壁につける係だった。
 どうしても手が届かないところに飾りをつける段になって、ダヴィドは先生を呼びに行った。先生はその年に大学を出たばかりだった。高校時代からずっとチアガールをやっていて、ダヴィドから見ると、はるかに背の高い大人だった。先生は机をもってきて、ダヴィドに机の端を両手でしっかりと支えておくように伝えた。そして、絶対に机から目をはなさず、決してまちがっても上を見ないことを約束させた。理由はきわめて明快だ。先生が膝下までのスカートをはいていたからだった。
 先生が机の上に片足をかけたとき、ダヴィドの顔に先生の身体が近づいてきた。ほんの一瞬だった。けれど、10歳のダヴィドにはとてつもなく長い時間に感じられた。ダヴィドの鼻に甘い匂いが入ってきた。これまでに経験したことがない匂いだった。キャンディのような合成甘味料でもなく、バタークリームのような油っぽさもなく、それは少しだけほろ苦い味をふくんだウォンカ製のチョコレートみたいだった。
 もちろん、ダヴィドは言い付けを守らなかった。そして、もちろん、約束を破ったことはだれにも言わなかった。ダヴィドだけの秘密だった。おそらく、先生も気づいていないようだった。だが、スカートの内側よりも、髪の匂いのほうがダヴィドの記憶の奥深くに残った。それから2年ほど経った頃に、先生は学校をやめた。町で小さな本屋を経営している男と結婚したからだ。本屋の店番をしていたり、子どもを連れて道を歩いたりする彼女の姿を見るたびに、ダヴィドは髪の匂いのことを思い出した。

******

「ない、ない、どこにもない」
 クリールの声は軽い絶望に満ちていた。それから3分間、クリールはいかにあのペンダントが自分にとって大切なものなのかを早口でまくしたてた。クリールの演説はまったく理路整然としていなかったし、時間の軸もぶれまくっていた。つまりはこうだ。あのペンダントがなければ、わたしは生きていけない。大げさすぎるが、クリールの要点をまとめるとそんなふうにしか聞こえなかった。
「だいじょうぶ、どこかへ消えてしまうことはないよ」
「ぜったい?」
「ぜったいに、だいじょうぶ」
「シートの下に、小さな穴があいていて、そこから道路に落ちるなんてことはない?」
「ありえない、もし、そうだとしたら、君も下に落ちてる」
「このシートが衣裳だんすの扉ってことはないの?」
 先月、クリールは2年越しに挑んでいた「ナルニア国物語」を最後まで読み切ったところだった。
「もっと、ありえない、あれはファンタジーだ」
 ほんのしばらく、クリールは考えていたが、どうやら別の新しいたとえを思いつかなかったみたいだ。
「ぜったいのぜったいに?」
 ダヴィドは強くうなずいた。それでも、クリールはまだ心配そうにしていた。ウッドパネルにそえた両手に体重をかけて、黙ったままうつむいていた。その姿はまるで内側からミニを押しているように見えた。明らかに、クリールは自分の運命を受け入れられていなかった。ダヴィドはカーラジオのスイッチをつけようと手を伸ばしたが、3秒ほど考えて、やめることにした。もし、歌詞にネックレスの入ったナンバーなんて流されたら、凍えたクリールの心に絶対零度のシャワーを浴びせるようなはめになってしまう。ダヴィドは運転に集中することにした。いくら空を飛べないガチョウぐらいの歩みでも、ミニは勝手に前へと進んでくれない。どちらかといえば、ただ今のダヴィドの心配はペンダントよりもミニの機嫌だった。ミニのラジエターはクリールよりずっと気まぐれだ。いつ、気分を熱してしまうかわからない。このまま渋滞が続けば、ミニの心は高温にぶれていくだろう。ダヴィドはおそるおそる、水温計の針に目をやった。

******

 10代の半ばにダヴィドは最初のガールフレンドができた。同じ学校に通う、とても目立たない女の子だった。家にだれもいないときに、ダヴィドはガールフレンドを呼んだ。父は大学時代の恩師の葬儀に参列していた。母は叔母が2人目の子ども産んだとかで、ずっと離れた土地へお祝いに行っていた。
 女の子はおとなしい顔だったが、平均以上の好奇心をもっていた。ダヴィドもその年代にふさわしいだけのスピリットをもちあわせていた。ダヴィドはいろいろなことをいろいろと期待していた。試合は予想していたとおりにうまく運んだ。でも、ひとつだけ残念なことがあった。女の子の髪はほとんど匂いがしなかった。あえて言うなら、井戸水で薄めたミルクのような匂いだった。たったひとつの期待はずれだった。おかげで、ダヴィドはすべてが残念な結果であるように思えてしかたかなった。おそらく、女の子も別の意味で同じようなことを感じていたのだろう。その日以来、女の子のほうからダヴィドに声をかけてくることは二度となかった。
 それから、ダヴィドには何人かのガールフレンドができた。だが、どれも10歳のときみたいな匂いはしなかった。だれとて同じタイプのガールフレンドはいなかったが、だれひとりとして甘い匂いはしなかった。ダヴィドの期待は3人目ぐらいで砕けていた。そして、あれは特別な記憶だったんだと思うようになっていた。きっと、なにか香水でも付けていたんだと。もしくは、ダヴィド自身の感情と感覚が特別な組み合わせになっていたんだと。

******

 ようやく、ミニのスピードが上がった。前方のクルマたちも進んでいる。水温計はだいじょうぶだ。少し高めだが、安定はしている。この調子でいけば、あと10分もかからないくらいで駐車場にミニを寝かしつけられるだろう。エンジンキーを抜いたら、すぐに助手席のシートを倒してやればいい。そこにはクリールがお気に入りのネックレスが待っているはずだ。かならず、絶対に。絶対の絶対だ。やっと、ミニが衣裳だんすではないことが証明できる。ダヴィドはハンドルを握り直した。ゆっくりとアクセルをふんでいく。
「まだ、着かないの?」
 ダヴィドは前方に注意しながら、クリールの顔をうかがった。クリールはこの悪夢が永遠に続くかのような表情でフロントガラスをぼんやりと眺めていた。もしかしたら、ミニのスピードが上がったことに気づいていないのかもしれない。右の眉に少しばかりの力が入った横顔に初夏の日差しが当たっていた。クリールはまだ、なにかに怒っているようだった。でも、その横顔は美しかった。ミニより、ダヴィドの水温計が高くなりそうだった。
 クリールが右手でアンティークのコーヒーミルみたいなハンドルを回して助手席側の窓を半分だけ開ける。広がったクリールの髪がヘッドレストを優しく包んだ。車内のかすかな残り香が風に散らばっていく。ダヴィドは残念に思ったが、すぐに考えをあらためた。ネックレスより先にやることがある。抱きしめてあげなくちゃ、クリールを。きっと、クリールの髪だから、甘い匂いがするんだ。クリールの首に両手をかけて、クリールの髪にキスをしよう。この世界はファンタジーではないんだよ。ダヴィドはひさしぶりにギアを4速に入れた。
 そして、苛立つ気持ちをおさえきれないクリールに向かって、ダヴィドはこう言った。
「もうすぐだよ、もうすぐ、ほら」
 やがて、ダヴィドの視界にショッピングセンターの建物が入ってきた。もちろん、クリールの瞳にも。最高にとっておきの一日になりそうな、ダヴィドにはそんな予感がしていた。


***fine***

Anvil Novels Urn "You may not realize" (2009)

この小説は、Anvil Novels Urn の掌編「You may not realize」を翻訳したものです。

#翻訳 #小説 #掌編 #美しい髪

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コメント12件

私はコメント欄を先に見て、これから中を読むよ(  ̄▽ ̄)

ミニは本当に狭い(笑)
私の大好きな多田由美に描いてもらいたい(*^^*)
yoshさんのお話の中では、ちょっと甘い…バニラみたいなお話だったな。あ、yoshさんのお話はいつも匂いを感じるから。あ、でもねこの前の「夜見る夢…」は何故か無臭だった。
>れいこさん
あら、先にコメント欄を。そうでしたか…先にあとがきを読んでしまうタイプですね。
むかし、旧ミニに乗っていたので、リアルに書いてみました。
多田由美さん!そんなことが起きたら、鼻血全開ですぜ。海外映画の1シーンみたいな感じを意識してみました。Twitterでアピっておいてください(•ө•)♡
匂い…。美しい髪からの連想で、髪の匂いしか思い浮かばなかったもので…、たぶん、癖ですね。趣味とも言いますが。
大正解!私、先にあとがきを読んでから本文に入る、または途中であとがきや最後の1文を読んじゃうんです(*^^*)
ミニに乗ってたの?ちょっと引く…(笑)
全然関係ないけど、じんこちゃんの個展とサイクリング行きたかったね…(´-ω-`)
ミニ、乗ってましたよ。ボディが黒で屋根が白の、パンダカラー!
欧州小型車好きなんですよ、なんですか?ちょっと引くとかw
じんこさんの個展!というか、あれは、じんこさんのフェスです!
手塚るみ子さんとの2ショットにはビビりました。12月末までやってるんですよね…行きたい行きたい行きたい…来週行くかもw
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