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島での弔いのかたち

本当は恐ろしい映画『めがね』の話」 で、与論島の死生観についてちらりと書きました。今回はその話。

 与論島に火葬場ができたのはなんと平成15年、ということは2003年。そう、21世紀に入って、初めて火葬という文化がもたらされたのです。それ以前は、ごく一部の希望者が隣の沖永良部島、あるいは沖縄まで運ばれて火葬された他は、かつて全国で広く行われていたように土葬で死者を弔っていました。
 ただ、ちょっと他所と違うのは、いちど埋葬された遺体を数年後に掘り出していたこと。これは奄美群島を含む南西諸島で続いていた「洗骨」という儀式です。

洗骨

 亡くなった人は棺に納められ、墓地に埋葬されます。その上には龕蓋(がんぶた)と呼ばれる木製の家が置かれ、埋葬場所の目印になります。傍らには生前使用していた履物などが置かれることもあり、あたかも墓地で故人が小さな家に住み、そのまま生活を続けているようにも見えます。  

 3年から7年の後、旧暦の決められた日に親族が一堂に会して洗骨の儀式が行われます。がんを壊してその下に埋まった骨を丁寧に掘り起こし、水で清めていきます。作業の間、涙を流して再会を喜ぶ人も多いとか。
 きれいになった骨はフニガミと呼ばれる甕、もしくは近年増えてきた本土に見られるような墓石に納め直され、先祖に並んで永い眠りにつくのです。
 島を巡っていると多く、海に面した見晴らしのいい場所に墓地があるのを目にしますが、これは砂地の方が洗骨に都合が良かったからという説もあり、実際、墓地はたいてい砂に覆われています。
 現在では与論でも火葬が一般的になり、2010年頃を境に、この洗骨もほとんど行われなくなって久しいとのこと。  

 そしてこの洗骨の歴史もまた、案外新しいものというのが意外です。
 火葬場の建設より100年ほど前の1909年、鹿児島県による通達でそれまでの風習が禁止され、死者の送りは土葬へと移行したのでした。  

 しかし、なぜこの島では埋葬するだけでなく、わざわざ掘り返して洗骨をする必要があったのでしょう。
 それには島民の遺骨に対するこだわりがあったものと思われます。こだわりのもとになったのが、禁止された風習である風葬です。

風葬

 洗骨の儀式を含む土葬以前、死者は風葬で送られていました。  

 隆起珊瑚礁で成り立つ島の南部は断層崖となっていて、自然の洞窟が多く見られます。
 風葬は、それを利用した横穴に死者をそのまま安置し、遺体が自然に朽ち、白骨になるまで待ったのち、家族ごとの共同墓へ納めるという方法。
 洞窟内に設けられた当時の墓は、入り口を漆喰や石積みの壁で半ば塞がれてはいるものの、まだ多くが残っています。ご遺族の許可をいただいて内部をのぞかせてもらうと、薄暗い中に夥しい数の骨がほの白く輝いていました。
 その一種美しい光景を目にすると、肉親を暗くじめじめした土に埋めるのはかわいそう、燃やすなどもってのほか、という気持ちがわかるような気がします。

 洗骨、そして風葬といった風習は、生者と死者との距離が極めて近いことを示しています。普段の生活のすぐ隣に死があり、二つの世界は重なり合い、地続きになっているのです。『めがね』で最初から最後まで、物語の全編を覆っていたのはこの感覚でした。
『天国にいちばん近い島』という小説がありましたが、このフレーズを借りれば与論は「あの世にいちばん近い島」とでも言えそうです。

 さて、人がいざ死に向かうその時、看取りについても島独特の考えがあります。それについてはまた次の機会に。  

山の国に住みつつ与論島をテーマに活動中。なぜ? どうして? その顛末は note 本文にて公開中!