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オパールの火と放物線

1.

 鍾乳洞のような空間が光源の定かではない灯りに照らされ、その中心を闊歩する人影を明らかにした。爬虫類めいた躰は艶めかしく、煽情的に開かれた口腔には絡み合う筋肉がてらてらと光っていた。
 その対面が全く異質な空間に繋がった。
 カッ、と射した白銀の光が下方から気高い四足の影を照らし出した。ヒュゥゥゥン、と一律で複層的な音が密やかに空間に伝わり、それ以外のあらゆるノイズは存在しなかった。その輝く面貌は超然と相手を見下ろしていた。
「きれい……」
 見つめ合った二人は円を描くように移動し、それぞれ相手の空間に侵入すると、環境に合わせてパフォーマンスを切り替える。それはインスタレーションを超え、空間を支配しようとする超越的な美の表現だった。
 そこで画面が滲んだ。VR端末の故障かと思って、それから、ただ涙が溢れてきただけだと気づいて、私は苦笑しながら端末を切った。
「そら、権威主義の現実クンが追いついてきたぞ」
 カサンドラが言った。私は助手席で振り向き、何台かのグロテスクに塗装された中古のスポーツカーが追ってくるのを認めた。
 醜い。
 私は自分の歪んだ躰に触れ、アイツの感傷と狂気と善意と憎悪から逃れようと、大きな渦を脳裏に描いた。
「マオ、こいつを」カサンドラがごつごつとした金属の塊———拳銃を投げ渡してきた。
「アンタの生体義眼を登録してる。照準はソフト的に制御してくれるから、引き金を引くだけで良い。……ブッぱなしゃ気が晴れる」
 私は、その明快さに笑ってしまった。
迷わずに、振り向いて、撃った。
 過ぎ去っていくビル群の万色の灯りの中に、鮮烈なマズルフラッシュが瞬いた。追手の車両が火花を散らし、驚いたように蛇行して止まった。
 あっという間に遠ざかっていく。
「アイツはまた来るよね」
「でなきゃアタシは用済みだな。で?それでもやるんだろ?」
「もちろん。そのために逃げ出したの」
 私は煙草に火を付けた。
 世界は飽和するように滲んでから、唇に残留する乾いた苦みに輪郭を取り戻した。
 窓から彼方へ消えていく白煙に、煙草の灰が混じった。
それは、ぱっ、ぱっ、ぱっ、と警告するように瞬きながら、都市の影に消えていった。

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「ちくしょうがあのアマ!拾ってやった恩を忘れて……クソッ」
 穴の開いたボンネットに大仰な仕草で触りながら、派手なジャンパーの男が喚いていた。
「なんだってんだ、えぇ?それに……あろうことかジョエルさんに……!」
「うるさいぞ」
 良く通る澄んだ声が深夜の高速道路に響いた。男は射抜かれたかのように背筋をピンと張り、声の主を振り向いた。
 ———完璧。その言葉が形になったような姿の男だった。完全なシンメトリーを描いているようにみえる顔は、頭骨から体毛に至るまで実際にマイクロ単位で調整され続け、わずかな瑕疵も生じさせない。その全身は都市に並び立つビル群と同質の冷たい威厳を備えていた。
「レッカー車を呼んだ。本来はおまえの仕事だ」
「すみません。ジョエルさん……」
「それに、マオが拾った恩を抱くのは私に対してであって、おまえではない」
「すみません……」
 ジョエルと呼ばれた男は金色の瞳でジャンパー男を見つめていたが、すぐに身を翻し、道路の端に移動した。
 脂汗を流すジャンパー男の後ろで、その様子をおっかなびっくり覗いていた他の部下たちがささやき合っていた。
「ジョエルさんはホントわかんねぇ……」
「でも、ありゃあアムドの兄貴が悪いだろ」
「どっちも組織の上役として器が十分とは思えない」
「おまえらッ」
 ジャンパー男———アムドは振り返ると、こめかみに青筋を立てながら、叫んだ。
「オレはサツに根回ししてくる!おまえらで車を道路の脇に運んでおけッ」
 愕然として見つめ合う部下たちを尻目に、アムドは気難しいボスの様子を窺った。ジョエルは夜空を見上げ、何やら思案しているような———否、あれは通信の仕草だ。
 ジョエルの金色の瞳には星空が散り、下品なほどの輝きを宿していた。
「……ああ。運び屋。カサンドラだ。奴がついている。……そうだ。必要なら他の連中を貸し出す。……仕方がない。極力避けてほしいが、死んでしまったのならば剥製にでもするとしよう。いや、デスドールでも良いな」
 一瞬、ジョエルの顔面が痙攣した。低地に沈むガス溜まりのような不穏さを湛えた表情だった。
「頼んだぞ、犬男」
通話を終えたジョエルは静かに息を吐き、都市の、花園のような多彩な輝きと、うずくまる建造物群の影を見据えた。そして、その中心で一際高く聳え立つ摩天楼———オルフェウス・タワーに、ジョエルは視軸を傾けた。その瞳に何らかの意志の兆しが宿り、すぐに消えた。

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 受付が無人タイプのモーテルだったのは幸いだった。いや、これもカサンドラが手配してくれたものだろう。私は腐敗した大樹のような半身を引き摺りながら、モーテルの一室に躰を押し込んだ。ベッドとテレビだけの質素な部屋だったが、清掃は行き届いていて、不潔さは無かった。
「ようやく一安心だ。よく耐えてくれた」
「そんな……カサンドラのおかげだって」
「荷に負担なく運ぶのがアタシの仕事でね」
 カサンドラはウィンクした。そういう仕草が恐ろしくさまになる女性だった。
『……トランス・ヒューマニズムは姿形のみならずヒトの認識までをも……』
 ドキュメンタリィの落ち着いた音声が静寂を押し流していた。
 早めに寝て明日に備えろと言われたものの、まだ興奮の波が感情や思考を覆っていて、眠ることなどできそうになかった。純粋な解放感の為せるものだろうか。
 私はベッドの繊維と肌の摩擦を全身で感じながら、仕事道具の整備をするカサンドラを眺めていた。
「こんなの見てて楽しいかい?」
「機能美ってやつ。でも銃って単体では完結しない美しさだよね」
「だよね、って言われても解らんが」
 カサンドラは控えめに笑った。
「あれか?前に見せてもらった……アー、全身が金属の動物みたいなやつ。機能美ってさ」
「うん、アマンダ・サンヘッド。あれは表現のための形態だから、機能美とは違うけど。そう、単体では完結しない美。銃に弾丸とか標的が必要なように、パーンズ・アートの場合は、周囲の環境もオリジナルで組み上げるの」
 カサンドラは銃を整備していた手を止め、促すような眼差しを私に向けた。
「ライブ的に観客を巻き込んでやるようなパフォーマンスもあって、そっちはVR端末からじゃ感覚しきれないくらいパワーがあるの。私が目指しているのはこっちのほう」
「リターン・マッチだな———そんでもって、ついでにジョエルの野郎が手出しできないよう名を上げるわけだ」
「うん……たぶん、アイツは手が出せなくなる」
 “社会に美しいものとして認められた私”をアイツは受け入れることができないだろう。
「なんか、だんだんちゃんとした道筋が見えてきた」
「そりゃ良かった。私はアンタが提示した点と点を結ぶだけだ。ちゃんとした絵を描くのはアンタだぜ」
「うん。ありがとう」私は重たい躰を起こした。「ちょっとお手洗い行ってくるね」
「手伝おうか?」
「大丈夫」
 バスルームに入った私は今の姿を、もう一度鏡で認識した。
 半身は———まさに、正中線から半分は———自然なヒトの形態だ。
 もう半分は……醜悪な肉の塊だ。
白濁した肉の束がトーガのように襞と幕を成している。
 綺麗なモノに成ろうとして、蛹のまま腐り果てた夢の残骸。
 これが、今の私だ。無様に敗北し———そして、もう一度立ち上がろうとしている。カサンドラに頼りきりではいけない。私は私のビジョンを思い浮かべ、行動しなければならない。
 瞼を閉じ、網膜に焼き付いた鮮烈な銃火を脳裏に再演した。ジョエルの寄生する貪婪な都市の輝きを、すべて衝撃と輝きの向こう側に追いやった。
 もう一つ。胸元から、ペンダントを取り出した。うっすらと白く霞んだ宝石の内に、七色の星雲が渦巻いている。私は手を固く握りしめた。
「私は、やる。今度こそ、私のアートを完成させる」
 明朝、大地を洗い流すような朝陽の下、オープンカーからバンに乗り換え、私とカサンドラ、そして新たに運び屋のグレイを加えた逃避行が再開した。それは同時に、活路の道行きでもあった。
 ……客の居なくなったモーテルの一室に、巨大な影がうずくまっていた。そいつはベッドに絡みついた一筋の毛髪を手に取ると、それを嗅いだ。
「……代謝の香りだ」
 身を起こした影は、屠殺業者じみたレザーの衣服で巨躯を完全に覆っていた。振り向き、窓を向いた巨漢の頭部でゴーグルが輝く。その眼差しは窺い知れない。
「生と進歩の気配だ。……逃してはならない」
 こもった声がマスクから漏れた。深い粘性と刺すような熱気を孕んでいた。


2.

 肉と皮、粘液と体毛、呻き声と律動。寝台の上で絡み合う二つの躰は、その片方こそヒトの形態———それも完璧に近いもの———だが、もう一方はフラクタル様に枝分かれした四肢をもつ、自然に非ざる嫋やかな肉体をしている。
 触手のような手足は覆いかぶさる男の背を撫で、脚を締め付け、掌に纏わり付く。男の蠕動する咽頭めいた動きに苛まれた肉は、その海産物じみた口からガラス玉を吐くような異音を零す。
 そして、充足と放出、その反復の末———男がずるりと立ち上がった。そのまま、男は振り返ることも無く、無言で浴室へと向かった。寝台の上では震える肉塊が未だ荒い息を上げていた。
 浴室の硬い照明が彫像のような裸身を照らす。シャワーが降り注ぎ、その肌を川のように無心で流れていく。その中で、男———ジョエルは疲労も解放感も見受けられない、完全な無表情だ。
『ヤツを見つけました』
 ノイズ混じりの音声がジョエルの聴覚器官を震わせ、鉄面皮のこめかみがピクリと動いた。
「マオだな。捕らえられるか」
『ルート34を封鎖して、追い詰めます』
「万が一もある。沿岸警備隊にも話を通しておけ」
『承知しました』
 乾いた応酬だった。だが、そこに奇妙な吐息が続いた。
「なんだ?犬男。言いたいことがあるなら言え」
『……お愉しみの最中に、邪魔をしてしまいましたか?』
「おまえには関係無い。必要な時に連絡しろ」
『はっ。失礼をば』
 ジョエルは浴室から出ると、ここだけは完璧ならざる動きでそそくさと着衣した。そのまま寝室に戻ると、私娼が寝台の上で物憂げに身を起こしていた。
 醜い。
 ジョエルは鋼鉄のような躰に再び黒々とした血流が巡るのを感じた。
 暗い部屋に呻き声が広がった。

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 茫洋と拡がる海原に、朝陽を受けた凄絶な波濤が延々と続く。
私はそのとてつもない自然美を左手に見ながら、崖沿いを巡るルート34を進んでいた。
「ロドリゴは確実にアンタを手術してくれるんだよな?」
「手術というか変異だけれど、うん。以前の契約はちゃんと生きてる」
「書類はオレも確認したよ。うちの弁護士も咬んでいるからご安心」
 運転席のグレイが陽気に言った。カサンドラは安堵の吐息を漏らす———が、まだ何か懸念があるような粘つく眼差しを私に投げかけていた。
「なに?カサンドラ」
「アンタが自信を取り戻したようで何よりだよ。……それで、昨日はアンタを励ます意味もあって突っ込まなかったんだが、肝心のパフォーマンスは上手くいくのかね。観衆は拍手喝采で迎えてくれるもんか?」
 陽に照らされたカサンドラの乾いた顔には、中年女のくたびれた皺が刻まれている。
 私は陽光に瞳を向けた。
「私が躰を変異させるまでが二人の仕事。だから、そこから先のことは心配しなくて大丈夫」
「つれないじゃないか。救った相手がその先でちゃんとやっていけるかまで気になるのが人情ってもんじゃない」
「だったら私を信じていて。きっと綺麗なものを見せられるから」
 私はヒトの形を残す半面でフッと笑ってみせた。
 カサンドラはまだ何か言いたげだったが、そこでグレイが訝し気に唸り、私も彼女もそちらに注意を向けた。
「……ん。変なバイクが後方にいる。なんだあのシルエット」
 その声音にはすでに警戒が滲んでいた。
 振り返ると、私にもその異様な代物が見えた。サイケデリックな塗装を施された装甲大型バイク———そして、その鋼鉄の猛獣の上に、肥大化した腫瘍のように背を丸める巨躯。
「なんだあれは!?」
カサンドラが叫んだ。私はそいつを知っていた。
「犬男!ジョエルの側近!」
濃密な血と獣の臭いがフラッシュバックする。恐ろしい殺し屋。潮風と陽光を塗り潰すような圧迫感が迫ってくる。
カサンドラがバンのバックドアを勢いよく開けながら、銃を構えた。
「耳ィ閉じてな!」
肉襞をターバンのように巻きつけて耳を覆うが早いか、鋭い衝撃が車内にこだました。犬男の躰に血の花が咲く———が、その勢いはいささかも減じない。
カサンドラが舌打ちしながら、銃を連射する。肉片と火花が飛び散る。バイクは、速度を、緩めない。
バンとバイクは崖道を猛烈な勢いで走行しながら、次第に距離を詰めていく。
 銃弾が犬男の顔面に炸裂し、ゴーグルを爆ぜ割った時、バイクはバンのすぐ後方まで迫っていた。獰猛なエンジン音がうなり声のように車内に反響する。
「おいッ。どうなってる!」
 グレイが叫んだ。直後、その焦りが操縦に伝わったか、バンがわずかに蛇行した。運悪く、カサンドラは銃のリロード中だった。
 瞬間的にバイクとの距離が詰まった———直後、大質量が車内に飛び込んできた。車体が大きく傾ぐ。搭乗者を失ってガリガリと路面を滑っていくバイクの音が、あっという間に遠ざかっていった。
「テメ……」
 一瞬。ほんの一瞬の沈黙の後、犬男の丸太のような腕が私の喉に掴みかかっていた。ぞっとするような浮遊感が躰を芯から震わせた。
 犬男の血塗れのマスクからは、痛みも感情も窺えない。その、徹底的に現実と隔絶した在り方に、私は心が沸騰するのを感じた。
「私は……戻らない!」
気付けば、喉から痛いほどの絶叫が迸っていた。喉を締める犬男の手から燃えるような熱が伝わる。
「その汚い手ェどけろ!」
カサンドラの叫びと銃声がどこか遠くに聞こえた。だが、銃弾は私のすぐ近く———犬男の頭部に次々と炸裂し、片目に開いた穴を深くえぐっていった。脳が半壊しているはずの損傷———それでも、犬男は倒れない。
 屈服しろ、そう叫ぶ心の一部をねじ伏せて、私はもがいた。
「ちくしょう!離せ!」
「おまえはジョエルさんに相応しくない」
 犬男のマスクの内からくぐもった声が漏れた。
 喉を締めあげる力が強まった。

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「アレかな?」
「さっき聞いたバンだな」
「交通違反も甚だしいな。こちらも大義名分が立つというものだ」
 昨夜から一睡もせずに上からの理不尽な指令に従っていたため、お互いに罵り合うほど不機嫌だった三人の男たちも、美しい海の眺めを臨みながら煙草を一服、二服する内、カラッとした心持ちに変わって来ていて、曲がりくねった道の彼方に標的が見えるころには、すでにいつもの気の置けない距離感に戻っていた。
 男たちは車に立て掛けていたスパイクとカラフルなコーンを道路に展開した。
「あー、アムドさん。バンが来ました」
 作業を終えた一人が、彼らの兄貴分に電話を掛けると、携帯端末から欠伸混じりの返事が聞こえてきた。
『ふああぁぁ……。そうか。たぶん犬男が片付けるだろうが……ま、きばっていけや』
「……はい。了解です」
 男は電話を切ると、舌打ちした。
 バンは今にも海に落下しそうな勢いで道路を疾走している。運転手からは、彼らが施した“検問”が見えているはずだ。
「あのまま突っ込んできたら無事じゃすまねェぞ」
「彼らに理性があることを期待しよう」
 スパイクに踏み込めばパンクは必至。そしてこのような崖道で操作を失えば、最悪滑落もありうる。そうなれば沿岸警備隊の連中と一緒に水死体探しをする羽目になるだろう。大人しく止まっていてほしいものだ……。男たちは物憂げな眼差しで、バンの行方を見守る。
 バンはついに最後のカーブに消え、代わりにエンジンの低い唸りが聞こえ———甲高いブレーキ音に転じた。

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「カサンドラ!」
 グレイの叫びが早いか、巨大な慣性の力が私の躰を貫いた。先ほどまで喉を潰さんばかりに引き締められていた犬男の掌は、鋼鉄の首輪じみた束縛と庇護に強張った。
 その瞬間をこそ狙っていたのだろう、カサンドラは慣性に逆らって突進し、大振りのナイフを、私の喉首を締め上げる犬男の腕、その関節に突き立てた。
「オラッ」
 カサンドラはさらにナイフを抉る。拘束が緩まり、私はえずいた。助かった———そう思ったのも束の間、うなじに強い圧迫を感じた。
 犬男が私ごと後方に大きく飛び退いた。
 犬男は無事なほうの手に私を移し替えた。
 車内には、グレイとカサンドラの驚愕した表情。
 潮風が頬を撫でた。
 マスクの下で、犬男が残虐な笑みを浮かべた気がした。

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「あ……」
 突然のブレーキ音に、男たちは警戒すらせずカーブの向こう側に駆け寄っていた。
 そして、バンの鼻面を認識するより先に、それを目で追っていた。
 ほどけながら、くるりくるりと舞いながら、海面に堕ちていく真っ白な影。
 直後、翼の破れた鳥のように拡がって、風に翻弄されながら散っていく。
 ついに、それは全く軽やかに海面に叩きつけられて、ゆっくりと沈んでいった。

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 恐怖も、焦燥も、覚悟も、あった。
 それでも、それらはすべてBGMで、実際に躰を流れていたのは解放感だった。
 突き抜ける潮風を包むように躰を拡げた。それは半身だけで、ただ躰をきりもみさせるだけの結果に終わった。
 やっぱり、駄目だったのか。圧し潰され、絞り尽くされた最後の一滴のような涙が零れ出た。それは卑しさとは無縁で、ただ構造を違えた飛行機が失墜するような、必然の解放だった。
 ああ、だけど———正しいカタチに成りたかった。
 手を伸ばそうとも、その先は恐ろしい深淵が波間に覗く海面で、一片の感傷も投影できはしなかった。
 衝撃が、訪れた。

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 海面に掛かる光のカーテンは、汚染と海洋ゴミの散乱する暗い海中に、上澄みめいてわずかに透き通った空間を創り出していた。その光の下を一つの影が泳ぎ進む。
 海面に漂う廃棄物を巧みに避けながら泳ぐ影の遥か前方に、無数の気泡を伴って一際大きな物体が落着した。海面を揺れ動き、すこしずつ拡散していくそれを感覚してか、影は諦観と忌避の滲む動作で反転しようとした。
 だが、突然、影は何かに気付いたようにそれに向かって加速した。そして、螺旋を描いて揺蕩う肉束の収束点に向けて、その手を伸ばした。
ヒトだ。
 その瞼がうっすらと開き、差し出された真っ白な腕と、むっつりとしたイルカの顔面を瞳に映した。


3.

「オパールの火?」
 寝具に散乱した己の肉体を呆然と見つめていた私は、ジョエルが発した綺麗な単語に浮遊していた意識を吸われた。
「そういう云い方をすることがある。鉱石の構造によって、光の乱反射が起こって生じる輝きだ」
 ジョエルはそう言うと、戸棚から小さな石ころを取り出し、私に手渡した。私は半身を引き摺りながら窓に向かい、都市の夜景に石を翳した。
 一瞬、世界が眼前だけに凝縮された。吐息が唇を撫でた。
 煌めく宝石の内には、スモークと結露にぼやけた都市の灯りを蒸留したような、硬く力強い光が閃いていた。近くで見つめれば、輝きは星雲めいて細緻の極限を描き、どこまでも捉えきれることがなかった。
 フッ、と視野が広がって、窓に映る私自身の顔が見えた。ほんの思いつきで、私は綺麗に研磨された宝石を、半分崩れた方の顔面にあてがった。
「美しいだろう。成型品には無い妙がある。———パーンズ・アートでこの微妙が出せるものか?」
 ジョエルの口調は全く平易だったが、その奥には明らかな皮肉があった。私は応えなかった。
 顔から宝石を下げると、崩れた肉に埋もれた義眼が、昏い瞳で私を見つめていた。

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 目覚めると、眼前には乳白色の無機質な壁が広がっていた。私は心から躰を切り離して、強張った身を起こした。
 私が寝ていたのはパイプを骨組みにした粗雑なベッドだった。それ以外には、嵌め殺しの薄汚れた窓と、埃を被った何も刺さっていないコンセントが壁から突き出しているくらいしか特徴の無い、空疎な部屋だった。
 だが、暖房が効いていた。それに服も乾いている。そのことに気づいた時、不安よりも安堵が心に拡がった。
 立ち上がり、ドアを開けた。ガチャ、キィ、という子気味良い音。
 ドックだ。船は無いが、そう直感される場所だった。空間の一面は、ネイビーとカッパーが深く混じり合った夕闇の海面に向けて大口を開け、その一端が私のすぐ足元まで続いている。両脇は、先ほどの部屋と同じ乳白色の壁が、それよりずっと重厚な暗さで広がっていて、壁際には用途の判らない機械が点在している。
 そして、見慣れぬ空間を把握しようと周囲を見渡していた私の目の前で、突如、海面を持ち上げて、それが頭を出した。
 イルカだった。動画やテレビで見るイルカよりも、幾分かむっつりとしているように見える。———海中で気を失う直前の記憶がフラッシュバックした。幻では無かった。やはり、彼(彼女?)が私を救ったのだ。
 知能の高い生き物だとは知っていたが、ここまでだとは……。
 私はしゃがみ込み、イルカを見つめた。
「……ありがとう。イルカさ」
 にゅっ、と水中から生白い腕が生じ、私の足元で手を組んだ。
『礼には及ばない。私としても興味があった』
 イルカの右腕から妙に超然とした調子の、バリトンの電子音声が発せられていた。
『驚いているな。だが、海中に没した君を助けるには、当然この愛らしい鼻先だけでは足りないというものだ』
 イルカは両手を開いて見せる。
『もちろん、他のイルカどもには無い良心と人間性も不可欠だった。……そんな顔しないでくれ。ジョークだよ』
 愕然として、ふてぶてしいイルカの顔面を見ていた私はようやく我に返った。
「え?あの……あ、助けてくれてありがとうございます」
『先ほども言ったが、礼には及ばない。ちなみに室内まで君を運んだのは、そこのフォークリフトで、君を乾かしたのは奥のヒーターだ』
「はぁ」
 私の名はロゴス。仰々しい名前だ———彼は実際、仰々しくそう名乗った。
朗々と語るロゴスの話では、まず前提として、彼はイルカの肉体をもつ人間ではなく、正真正銘のイルカだという。増設された培養脳によって、“人間化”させられて誕生し、紆余曲折の末、今は人権を獲得して、このような海上に隠棲しているのだという。
『ルート34から滑落する人間がいれば生死問わず回収しろ。そういう指令が沿岸警備隊曹長の携帯端末に送られていた。この都市の沿岸警備隊の連中は、日頃から密輸密航に精を出しているロクデナシ共だがプライドは高い。そこに、ギャングから雑用じみた指令が来たものだから、奴らはあからさまに動くのを渋っていたよ。実際、奴らより先に私が君を発見したわけだ』
「盗聴でもしていたの?危なくない?」
『危険は少ない。というより、危険を避けるための監視だ。私を殺したいのが何者であれ、ここの沿岸警備隊に話を通すのが手っ取り早いからな。それが、殺処分の依頼にしろ、見なかったフリの依頼にしろ、な』
「ひどい。あなたを殺したいと考える人間が?」
『知性化動物ジョークだ、だが、まぁ、私を見てそういう欲求を抱く人間は少なくあるまい。とはいえ、その欲求を実行に移す者はそういないだろうな。監視は9割方好奇心だ。それに、いくつか身を守る術も講じている。この払下げの海上施設もそうだし、SNSを通じて後援者も得ていて、比較的リベラルな動物保護団体も私の味方になってくれている。社会的弱者としての節度ある発言だとか、種を代表した怒りの声明なんてものを求めてこないタイプの団体だ。というか、私のこと聞いたことない?』
「ごめんなさい……。長い間、世間と離れた場所にいたから」
『広報活動が足りないということだな』
 ロゴスは頭を上下に振りながらキュウキュウと鳴いた。
『さて、目の前の相手が社会的に信頼のおける善良な哺乳類であることが理解できたなら、そろそろ君のことを話してほしい』
 私は言葉に詰まった。
 逃げて、襲われて、落下して……そして、解放された。
 私は勝ちたかったはずだ。ジョエルの執心に。都市の熱狂に。私自身の弱さに。だが、あの落下の瞬間、「もう、これで良い」と、そう思ってしまった。
 私が逡巡していると、『君を海で見かけた時、正直に言うとゴミかと思った』、ロゴスがなかなか心にクる言葉を放った。
『着水直後だけだ。すぐにヒトの半身と、そこに群がる筋肉や被膜を認識した』
「どうだった?」
『どう?ああ、君の意思で動いていたならば美しかったかもな。あれは波に翻弄され、揺蕩っていただけだ』
「あはは、そうか……」
 沈黙。
 夜闇が水平線に凝った陽の残滓をじわじわと侵食していた。
 私は吐息を漏らした。
「……綺麗なカタチに成りたかった」
 眼を細める。火の帯が消えていく。
 いつからこんな願望を抱くようになったのだったか。これは私のカタチではないという想いは、まだ小さかったころから現実の裏側でずっと駆動していた。ひとりの人間として、あるいは社会の潤滑油として育まれる内も、ずっと。
 ある時、パーンズ・アートを知った。人にして、ヒトあらざるカタチをこの世に顕す現代の神たちは、ただ美しいだけでなく、社会を、人々を、私を、大きな渦に巻き込んでしまう熱と力があった。
 私自身の熱と、アーティストたちの熱が私の中で混ざった。私はすべてを賭けて、渦になろうとした。……そして、霧散した。
半壊した肉体と心で泣き叫んでいた私は、ジョエルに救い出された。彼の下で、私は醜悪なものとして庇護され続けた。
 綺麗なカタチに成りたい。いま、その想いに報うのは、ひょっとすると、“死”なのではないか。落下の瞬間に訪れた解放感はそのことの証明だとすら思えた。
『死、死、死。死か』
 ロゴスが歌うように言った。
「自殺したいって思っているわけじゃないよ。ただ、もう、私には成れないものなんじゃないかって」
『死にたいなら止めるつもりはないが、そうか。死、ね。———生と死を分かつのは何だろうな?』
「無い。……あ、うーん。明確な境目があるものじゃなくて、ただ、私たちの今の状態からは遠くにあるものだと思う」
『同意するところだ。だが、そんな模糊としたものが君の目指すカタチなのか?』
「違うな。もっと隔絶したもの。だから、それは“無”なのかも」
 現実の裏側で駆動する、無。
『有と無の境目は……絶対だな。本当の“無”は自然には存在しえない。そうだろう?我々は“有”に立脚して存在する。では、無を在らしむるのは?———人の言葉だ。おお、それこそロゴスなれば!まさに私に相応しい話題だな』
光あれ!ロゴスは声高に叫んだ。
『たどり着けない?いやいや、無は在る。我々の認識の中に存在しうる。哲学的瞑想の先にあるものではなく、もっと卑近で、普遍的なものとしてね』
 ロゴスは一人でトリップしたように言葉を紡いでいる。騒々しいイルカは風景に混じる。
 陽の残光が消え、どこまでも深く青い夜が、空と海を埋め尽くしていた。そこに境界は無い。だが、未練がましく瞳に焼き付いた光はそこに水平線を幻視させる。一方で、瞬き始めた星々と、揺らぎ続ける水面は、その狭間に深淵を極めていく。
 脳裏に描かれる地平線は、無に漸近していき、しかし存在し続ける。
 収斂していく渦のように。どこまでも伸びていく弾道のように。
 そうだ。終わりじゃない。
 まだ、先がある。当たり前のことだ。
 私は立ち上がった。
『おや?何か思い付いたかな?何か変えられたのなら喜ばしいが』
「うん。ありがとう。……寒くなって来たな。部屋に戻って良い?」
『構わない。ゆっくり休むと良い。発想というものは寝かせるとまたカタチを変えるものだ』
 私はくるりと180度回転すると、暖房の掛かった部屋に戻った。
ベッドに座ると、ギシリと音が鳴った。
『そうだ。今夜は泊っていくとしても、この後はどうするね?』
「うわ。そっか、直接喋ってるわけじゃないもんね。ここでも会話できるよね」
 出所の判らないロゴスの電子音声が室内に響いた。
「そうだな。今から———いや、明日の朝に、仲間に無事だって伝える。それから、たぶん、合流するよりはドクターに会う方が早いな」
『私が送ることが前提になっているな。もちろん送っていくがね』
「何から何まで、ありがとう」
『こちらこそ!ゴミのはずが、思わぬ宝を拾ったものだ』
「その言い方はひどいって」
『失礼失礼。人間を変節させるのはいつだって楽しいものだからな』
「はははは」
『では、君のメフィストフェレスは退散しよう。また、用があれば呼んでくれ』
「わかった」
 施設全体の照明が落ちた。
 私は立ち上がって窓に向かった。先ほどと変わらない闇の上に、私の顔が反射して映っている。
 ヒトの面には疲労が見える。だが、まだ折れてしまうほどではない。そして、もう一度、折られてやる余裕もない。
 瞳の中で、火が瞬いた。

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 犬男はマホガニー製の瀟洒なドアの前で立ち止まった。音の無い廊下には点々とライトが灯る。
 巨大な手がドアノブに触れ、一瞬躊躇したように止まった後、静かに動いた。
 暗黒。まずそれが認識された。
 一面のガラスから飛び込む都市の夜景と、照明の落ちた部屋、そして影に沈む調度品の数々は、その後だ。
「マオはまだ生きている」
 光の海を背にした真っ黒な人影が言った。犬男は沈むように立ち膝姿勢になった。
「申し訳ありません」
 この部屋での主の姿は、彼が本来与えられるべきだった帝王の座に相応しい風格を漂わせている。新興のギャングの長など、あの猥雑な都市の底辺など、彼の居場所では無いのだ。
「おまえが虚偽の報告をするとはな。ルート34では、マオを捕えることもできたと聞いた。なぜ海に落とした」
 暗闇は彼の感傷だ。それを脱ぎ去れば、真にこの摩天楼の支配者として君臨できるだろう。そこに、犬男はいない。
「はっ……」
 犬男は主を見上げ、わずかに逡巡した後、言った。
「あの女にそれほどの価値がありますか?」
「死体でも良いと言ったはずだ」
 犬男はまっすぐに主を見つめながら、マスクを脱いだ。
「あなたの憐憫は理解しています。しかし、それは王が捨てねばならない甘さです」
 言葉の柔らかさと裏腹に、マスクを脱いだ犬男の機械の眼はどこまでも硬質な眼差しで主を見ていた。その顔面は南瓜めいた筋肉の畝で埋め尽くされ、その筋をひっ裂くように、レンズカメラとスピーカが突き出ていた。銃撃で破壊された箇所だけが、わずかに白い。
 主は犬男を見下ろした。
「おまえが決めることではない」
 主に動揺は見られない。怒りも、信頼もない。
「はっ。僭越なことを申し上げました」
 犬男はそれ以上言葉を重ねることなく頭を垂れた。主もまた、犬男を責めることは無かった。
 それから、少しばかり今後の対応について言葉を交わした後、犬男は主の私室を辞去した。
 犬男が暗い廊下を進んでいると、アムドの部下の三人の男たちがおっかなびっくりしながら、私室のひとつに何かを運び入れようとしているところに出くわした。
「何をしている」
「え?……あ、犬男さん。いや、我々もジョエルさんに呼ばれましてね」
 男は卑しい笑みを浮かべた。彼らが運んでいるのは奇怪な肉の塊———主の私娼の一人だった。手足の触手を握られ、半ば引き摺られるようにして室内へと運び込まれていく。
「どけ。後は私がやっておく」
「あ、ええと、それはオレたちが“下賜”されたもんでしてね」
 別の男が皮肉気に笑いながら言った。彼らもまた、主の秘め事を知る者たちである。
 家具が端に寄せられた暗い部屋の中央には薄汚い布が何枚も重ねて広げられていた。そして、その一番下にはビニールシートが垣間見えた。
 犬男は無言で男たちの手を退け、肉塊の胴を強引に抱え上げた。
「ソレは我々が愉しむ予定です。ジョエルさんからも許可をいただいている。あなたが……」
 犬男は男たちを見下ろした。圧倒的な体躯が入口を完全にふさいでいる。沈黙した男たちを背にして入室した犬男は、主の私娼をゆっくりと布に横たえた。
「……では、ごゆっくり」
 男たちが憤りを隠しきれない様子でドアを閉めた。周囲は闇に閉ざされた。
「何をしでかした」
 犬男は照明を付けながら話しかけた。深い橙色の灯りが、ささやかに、染み入るように空間に広がった。
 主の私娼———カーラと名乗った———は震える口でぽつぽつと語り、犬男は立ったまま値踏みするように聞いた。失墜の物語だった。結末だけ切り取れば主の不興を買ったという話だった。
「……私がジョエルさんに口利きしてやっても良い」
 犬男は少しの沈黙の後、声にほんのわずかに感情を滲ませながら言った。
 カーラの反応は激烈だった。およそ感情を表せる顔の部位など眼しかないというのに、それは拒絶と悲憤の炎を燃え上がらせていた。
「そうか。……好きにしろ」
 犬男は空虚な苦笑を残すと、照明を落として振り返ることも無く部屋を後にした。
 あとには暗闇が残された。

4.

 始めに感じたのは憐憫だった。卑劣にも依存状態にされて、ヤツに隷属させられる被害者。だから助けたいと思った。
 喧噪に揺らめく都市の灯りが窓を流れていく。そこに映りこんだ顔は疲れた中年女のそれだ。カサンドラは誰にも気取られないよう、静かにため息を吐いた。
 運転席のグレイとバックミラー越しに目が合った。
 マオが海に落とされた後、グレイの判断は早かった。待ち伏せを察知していたグレイは即座にバンを転進させ、逃走した。犬男はマオを落とした後、道路脇に退いて不気味に直立したまま、バンに縋ることすらしなかった。翌朝、マオから連絡が来るまで、カサンドラは延々と武器の整備を繰り返していた。
 カサンドラはバンの後部座席を振り返った。蛹めいた真っ白な塊が鎮座している。あれが、いまのマオだ。ロドリゴの手配したドクターの下から彼女を回収した時には、すでにこの姿だった。パーンズ・アートという異形の芸術を成す者が、およそ人間から離れた形態になることは当然判っていたが、コミュニケーションすらできなくなるとは考えていなかった。
 白い塊からは眼だけが覗いているが、そこに感情は窺えない。こちらの意思が伝わっているか確かめる術もない。。
 せっかく救ってやったのに、何の手ごたえも無い……。カサンドラは窓に映る自分を睨み付けた。私が口を出すことじゃない。彼女を運ぶ。そこまでが私にできることだ。
 バンが信号で止まった。窓から目的地が見えた。輝く摩天楼。パーンズ・アートの総本山。この都市の権威と栄華の中枢。120階の超高層建築。オルフェウス・タワー。

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「リターン・マッチというわけかね?」
 アイツによく似た、だが起伏に富んだ声音と表情。
「もちろん細かい調整は必要だが、構わない。君との契約は生きている」
 トランス・ヒューマニズムの実践と受容を標榜し、この悪徳の都に新たな価値と意味をもたらした男は、想像よりもずっと普通だった。
「君と直接話そうと考えたのは、当然ジョエルと君の関係を知ってのことだが、あくまでそれは動機だ。君がやろうとしていることに純粋に興味がある」
 純粋。綺麗な意志が受肉して形を得れば、それはもう純粋とは言えない。だが、躰が、アクションが、インスタレーションが、ひとつのカタチとして像を結んで、純粋さを描く。
『そうだ。ひとつ、君の計画に私も咬ませてくれ』
 ロドリゴの姿は消え、バリトンの電子音声がふてぶてしいイルカの頭上から響いた。
『いつか、我々のためにもアートを披露してもらいたいんだ。そのためにも、君には無事にアートを完遂してもらいたいからね』
 イルカの世界か。何が感覚され、どう認識されるのだろう。いつか、その果てにあるカタチも見られるだろうか。
『では、また会おう』
 イルカは白熱する世界の彼方に消えていった。
 蛹の中で、記憶が解消されて魂の淀みに溶けていく。来たる瞬間に向けて、心が研ぎ澄まされていく。

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 天を衝く壮麗な塔の根元に、グレイの駆るバンが乗りつけグレイとカサンドラ、そして台車に運ばれるマオが現れた。彼らと入れ違うようにゲートから代理運転用のドロイドが転がり出ると運転席にへばり付き、バンを都市の暗闇に誘った。
 露店の酩酊するような輝きが並ぶ広大なコンコースで、ジャンプスーツめいた衣服の二人組と真っ白な塊は、すれ違う多種多様な人々の間を決然と進んでいく。
 人波に混ざる三人を、真っ暗な部屋でモニタ越しに見つめている者がいた。
 派手なジャンパーの男は口元を手で覆い、苛立たしげな様子でモニタを見つめていたが、ふいに振り返るとボケっと突っ立っている三人の部下に何やら怒鳴り付け、彼らが慌てて部屋を出るのを確認すると、再びモニタに視軸を向けた。モニタの光を照り返すアムドのまなじりは不安と緊張を露わにしていた。
 その遥か上層、タワーの中腹。ぱっ、と光が灯り、人形じみて整った容姿の男と豪奢な内装を照らし出した。ジョエルがモノリスのような壁に手を着くと、その一部が棚となってせり出し、ただ一つ収納された物体を光の下に晒した。彼は、その悪趣味な装飾の施された銃を取り出すと、愛でるように弄んだ。それから、ジョエルは整えられた寝具を凝視した。その眼差しは部屋を出る直前までそこに残留し続けた。
 再び、コンコース。カサンドラ達は人混みから吐き出されるようにエレベータに乗り込んだ。他に乗り込む者はいない。簡素な暖色の照明の下、しばしの沈黙が続いた。
「迎えも無しとはね」
 カサンドラが監視カメラを見上げて呟いた。グレイが応じる。
「タワーを使わせてもらえるんだから、それだけで感謝しなくちゃ」
「マオはどういう約束をしたんだか」
 台車の上のマオは身じろぎもしない。
「一端タワー側のエレベータに乗り換える。そこからは展望フロアまで直通だ」
 12階。混雑する商業フロアを進んでいくと、ある地点で人波がふっと消失し、視界が開ける。オルフェウス・タワーそのものに接続し、一般の店舗がほとんどなくなったためだ。三人は巨大な吹き抜けを横目に進み、再びエレベータに身を投じた。今度はわずかだが同乗者がいる。だが、それも40階、50階と昇り、オフィスフロアに入る頃にはいなくなっていた。
 62階———エレベータが停止するのと、照明が消えるのが同時だった。
「停電?」
「それでも動くはずだ」
「地震でも無さそうだ。……なんかおかしいな」
 オルフェウス・タワーは竣工してからというもの、災害による被害や各種システムの不具合、小規模なテロには幾度となく直面しているが、その貪婪な輝きが都市の夜空から失われたことはただの一度も無い。
 カサンドラは階層表示モニタのロックを外し、緊急用のコンソールを開けた。かたっぱしからボタンを押そうとしたところで、エレベータがじりじりと動き始めた。
「動いた」
 カサンドラとグレイは顔を見合わせた。
 62階でドアが開き、非常灯だけが光る薄暗い空間に出た。オフィスフロアの簡素な壁が拡がる。台車の音だけが響いた。
「人の気配がない。もう避難したのか?」
「……作為を感じる。やっぱりおかしい。出直したほうが良いかもしれない」
 カサンドラがそう言った直後、どさっ、とマオが倒れ込んで台車から落ちた。そして、躰をもぞもぞと動かすと、眼だけを前方に向けた。
「ハハッ……進みたいってさ」カサンドラは笑った。「この日のために準備してきたんだもんな」
 グレイはその言葉に頷くと、マオを背負い、テープで自らに固定した。合成タンパク質の強靭なフレームを内蔵したスーツによって、グレイは軽やかな動作立ち上がる。
 三人はフロアを巡り、中央にスロープを備えた幅広の階段に辿り着いた。先行して登るカサンドラは、腰のあたりまで下げた両手に鈍器のような黒い塊を携えていた。54口径の拳銃。あまりに巨大なそれは、この都市に跋扈する肉の怪物たちに対抗するため造られた鋼の怪物だった。とはいえ、その怪物を扱い得るのは、それこそ肉体改造者か、そのテクノロジィの延長にある技術を纏った者だけだろう。トランス・ヒューマニズムは、もはやこの都市に幾重も層を成して、相互に影響し合っている。
 63階、64階。階段を登り、踊り場を進み、また階段を登る。65階、66階、67階……。カサンドラは新たな階に辿り着く度、簡素な壁の続くオフィスフロアを素早く覗いて警戒する。そして、階段を登る。衣擦れの音と均一な呼吸音だけが響く。70階、71階……フロアと階段の接続口、その左右の輪郭が同時に滲んだ。
 瞬間的に空間を支配する炸裂音!銃火!72階フロアから二条の火線がカサンドラを襲い、それに抗うような獰猛な輝きがオフィスの壁を穿った。
「下!」
 カサンドラは叫んだ。確実に殺すなら、挟み撃ちだ。果たして、カサンドラの警戒虚しく、71階フロアから現れた男の機関銃がグレイと、そしてマオに向けて鮮烈な銃火を迸らせた。
マオの瞳に赤い点が灯った。

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 ジョエルが真っ暗な空を見上げた。タワーの灯りは消えども、都市の輝きは星空の深みを押し殺して余りある。それでも、濃密な夜に幻覚のように光の粒が散って、一瞬だけ無限に連なる銀河を空想させた。
 100階。屋外展望台。犬男は闇と化して侍る。
 風切り音だけの静寂に、場違いな安っぽい着信音が響いた。
『楽しんでもらえているかな?』
 犬男にもしっかりと聞こえる、陽性の———そう感じさせる———声。
「……負け惜しみか?おまえの部下は私に従った。この権威の象徴を一介のギャングに明け渡したのだ」
『天啓だ。この美しきオルフェウス・タワーから腐臭のするヘドロを押し流し、同時に、その真の役割が何だったかを人々に知らしめる』
「わざと見逃したとでも言いたいのか?どれだけの経済損失になる」
『大した額ではない。タワーの中身が生む利益などたかが知れている。臓器のようなものだ。かつては必須だったが、この都市では、いまや装飾の一つに過ぎない』
「下らん比喩だ」
 平静に見えるジョエルの声音にはわずかな怒気が含まれていた。制御している、いや、肉体が制御させているのだ。震える顔筋は主の自覚しない激情の表れだ。
「……おまえの負けだ。おまえが契約したマオは何もできずここで死ぬ。栄光の階段を登り損ねた墜死体が一つ生まれて、この件は終わりだ」
『アマンダ・サンヘッドなどは対戦形式の熱っぽいアートを好むが……マオが目指すのは清廉な独演だろう。勝ち負けなどないよ』やれやれと言わんばかりのため息。『空を舞おうというのだ。失墜する覚悟などとうに抱いていよう。そして、だからこその美しさだ』
 ジョエルは携帯端末をゴミのように投げ捨てると、いまだ声を漏らすそれを撃った。乾いた音と硝煙は風に消え、ジョエルの表情には普段の落ち着きが戻っていた。
「行け。マオを殺せ」
 犬男は立ち上がり、マネキンのように平易に立ち尽くす主に背を向けると、全身に熱を凝らせ、闇に沈んだ。

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 予想外の威力で壁を粉砕した銃撃は男たちを一瞬すくませ壁の向こうに退避させたものの、彼らは即座の反撃に臨んだ。ストライプスーツと機関銃、そして薬物による高揚は男たちを狂犬じみたギャングの先兵に仕立て上げていた。二人の男は笑いながら頷き合うと身を乗り出し———入れ違うようにオフィスフロアに飛び込んできた女に驚愕した。
 ———カサンドラは最初の銃火を階段に身を伏せて避けると、グレイとマオへの襲撃を尻目に、全身のフレームを躍動させ一息で上階の襲撃者のもとに攻め寄っていた。右手の男は体勢を立て直す暇もなく顔面を吹き飛ばされ、左手の男はカサンドラの浴びせるような蹴りをくらって倒れた。強力な銃撃をジェット噴射めいて利用するフィクショナルな動きだった———強化スーツと、生体義眼に紐づいた照準機能のたまもの。
 男の平然としようとして、まったくそうできていない顔はルート34で一瞬だけ見たものだった。ジョエルの手勢なのは間違いなし———マオを固定したものと同じテープで素早く男を拘束し、踊り場に駆け戻った。
 まずマオの姿が目に入った。だが、カサンドラの認識は滑って、右大腿部から出血したグレイと、残忍な笑みを凍らせて斃れる男に順番に移り、それからようやく、点々と肉と血の花が咲いた白い塊に収斂した。
「マオ!」
 人間で言えば胸、腹、脚……躰のほとんどの場所からだくだくと血を流していた。角質めいた肌にカサンドラの指は沈み、生命の熱を伝えた。
「大丈夫か!?」
 グレイが叫んだ。すでに自分で止血しつつも、その眼差しはマオに向いている。
 私は何をしでかした!?カサンドラは慟哭しかかる心をねじ伏せ、力強く笑い掛けながら、マオの傷を確かめる———が、その蛹めいた姿は、カサンドラの覚えるヒトのための応急処置の全てを拒んでいた。ただ、傷を抑え、スーツの手から零れていく血液を眺めるほかない……。
「帰ろう」
 グレイが言った。白い塊が身じろぎした。首を振っていた。
 蛹から覗く感情の感じられない眼は、いま鋼鉄のようだった。硬い意志。マオが頷いた。
「はは……なんだ、解るじゃないか」
 カサンドラが手をどけると、いつのまにかゲル状になっていた血液がベチャッと落下した。出血は止まっていた。
 カサンドラはマオを抱え上げ、階段を登り始めた。
 ……アムドはモニタの向こうで凄惨な死を迎えた部下たちを見つめていた。そして、ジョエルに連絡しようとして、それがまったく繋がらないことに不安と焦燥を抱えながら、一つの結末を脳裏に描いていた。
 連絡を諦めたアムドはふらふらとセキュリティルームから出て、扉の横で待っていた女に疲労した眼差しを向けた。
「終わったかい?」
「ああ」
「彼の組織はつつがなく後任者に引き継がれる。君も然るべき地位を与えられるだろう。ご苦労さま」
 女はアムドの肩をぽんと叩くと、セキュリティルームに帰っていった。
 そそくさと退散するアムドは幅広の階段をぞっとする思いで下って、無人の商業フロアを抜けると、タワーの障害にざわつくコンコースに抜け出た。
「ちくしょう……」
 アムドは誰にともなく独りごちると、しばらくは足早に歩み去ろうとしてたが、急に歩を緩めると、まごついたあと露店に頭を突っ込み揚げ物を注文した。

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 真っ暗なラウンジを抜け、開け放たれた扉を慎重に進むと目の前に都市の灯りが拡がった。荒野の途中から海岸線に掛けて断ち切られたように消える光の海は、無辺の大地に空中楼閣を描き出した人の知恵と貪欲さの現れのようだった。
 寒風が吹き荒れる屋外展望台を、整然と並んだガラスフェンスを横目に進む。
 カサンドラは足を止めた。前方に人影。
 光は遠く、眼前の影は細部を失って、巨塔めいた威容で聳え立っていた。
一呼吸後、カサンドラは引き金を引いた。

 乾いた破裂音が響いた。
 ラウンジの壁に寄りかかっていたマオは膝を折ってから廊下に寝そべると、ゴロゴロと丸太のように回転しながら進み始めた。
 マオは半ば固まったどす黒い血痕を残しながら、カサンドラが向かった方向とは逆に向かって転がり始めた。展望台は100階をぐるりと巡る。進み続ければカサンドラと犬男に出くわすだろうが、二人の争いに巻き込まれるわけにはいかない。マオはしばらく進み続け、ある地点で止まった。
 マオは躰を起こし、夜景に臨んだ。無数の光点の彼方には、海と夜の深淵。頭上には、霞のような雲が点々と蟠り、星明りを背景に沈ませる。
 傷付き汚れた蛹は、濃紺の世界の中に幽けき影となって凝る。
 その背後で暗闇が盛り上がり、ヒトの形をとった。
「マオ」
 傲然とマオに銃口を向けながら、ジョエルが現れた。

 マオは彼女のアートを無事に完遂できるだろうか?
 引き金を引く瞬間、カサンドラの脳裏には一瞬の憂いが浮かび、戦いの熱に焼き払われていった。
 銃声とほぼ同時に、犬男の背後でガラスフェンスが砕け散った。犬男は信じ難い速度で身を屈めて銃撃を避けると、一瞬だけ虎めいた四脚姿勢になってカサンドラに飛び掛かっていた。
「ふっ!」
 傲然と迫る犬男の肩を蹴り付け、カサンドラは跳んだ。躰のどこを撃ち抜こうとも易々と止まる相手ではないことはルート34の戦いで判っていた。
 スーツのフレームを軋ませながらカサンドラが着地すると、背後に抜けていた犬男が大木のような腕を振って重心を変え、カサンドラに向けて即座に転進してきた。犬男は巧みに躰を左右に振って迫ってくる。だが、二人の間には十分な距離。たて続けに三つの銃火が瞬き、大質量から肉片が飛ぶ———右腕、左肩口、そして頭部。
 肉片———筋、血、骨。その中に、柔らかな脳は含まれていない。都市の肉体変異者に関する知識と、撃たれてなお平然としていたマオの姿が重なり、敵に致命傷を与えうる一撃が脳裏に像を描く。
 犬男が迫る。先ほどと同じ回避は通じまい。あと一射で仕留める。
フッ、と夜闇が拡がった。カサンドラはそう錯覚した。星空を背に、犬男が跳んでいた。無心で巨体の胸元に一発撃ち込んだ。筋肉の塊が降り注いだ。

「おまえを創ったのは私だ」
 ジョエルは夜景を眺めて動かないマオに銃を突きつけながら言った。
「パーンズ・アーティストを目指して己のすべてを投げ打とうという人間はそう多くない。おまえの噂もすぐに私の耳に入った。壊すのは簡単だった。法と契約以外に身を守る術の無い人間など、この都市では生きられん」
 蛹は微動だにしない。ジョエルの顔面がぴくぴくと痙攣した。
「おまえは醜い。姿形だけではない。魂が醜悪なのだ。パーンズ・アートのような上辺だけの形態に美しさを見出すのは、構造に依存している証だ。まるで寄生虫だ」
 ジョエルは捲し立てる。
「おまえは永遠に醜いままだ。社会はおまえを受容しないし、アートが完成することも無い。……なぜなら、おまえはここで終わりだからだ」
 風が二人の間を流れた。ジョエルの全身は緊張で凝っていた。
 永遠にも思える一瞬が吹き流れた後、何かが裂ける乾いた音がした。マオの輪郭が膨らんだ。ジョエルの瞳が震えた。銃声が轟いた。

 落下してきた犬男は、カサンドラの胴にギロチンめいて腕を叩きつけた。ぐぇえ、という動物的な悲鳴を漏らしたカサンドラの胴に犬男の腕が巻き付く。そこで、犬男は眼前に生じた暗い穴に気付いた。
 銃口が火を噴き、轟然と犬男の頭を吹き飛ばした。だが首無しの犬男はそれを意に介さず、カサンドラを後ろから抱きかかえると、胴を締め付けに掛かった。フレームとプロテクタがミシミシと音を立て、筋肉と血管の爆ぜる感触が伝わる。
 カサンドラが声にならない絶叫を上げ、血混じりの唾が跳ぶ。
 犬男は無明の中で、敵が暴れまわりも、腕を押しのけもしないことを訝しんだ。だが、もはや必殺の意志を曲げはしなかった。
「がッ……ぎッ……」
 喉から悲鳴を漏らしながら、カサンドラは夜空に両腕を伸ばした。そして、震えながら肘を曲げると、銃身を犬男の首の断面に突き刺した。
 どぉん……。くぐもった音波と衝撃が犬男とカサンドラの躰をどよもした。さらに二度、暗闇に鈍い炸裂音が響き、空に消えていった。
 静寂。
 ……勝利を確信して不敵に笑ったカサンドラの表情が歪んだ。犬男の巨腕はなおも痙攣するように一度、二度と極まっていき……停止した。
 次の瞬間、雪崩のように犬男の躰がくずおれた。
 逃れ出たカサンドラはしばらく四つん這いになってえずいていたが、息を整えると犬男に向き直った。
 頭を失った犬男は脱力して膝を折っている。慎重に背後に回ると、犬男の脇腹から蛸の漏斗じみた器官がせり出し、血を濁流のようにゴボゴボと吐き出しているのが確認できた。拡がっていく血だまりは致死量と言って良い。
頭部が致命傷にならない肉体変異者の場合、大抵は胴体のどこかに脳髄ないし思考器官が存在する。当然胸部は防御しているだろうと踏み———実際、宙にあった犬男の胸板は弾丸をものともしなかった———首筋か僧帽筋のあたりから内臓を狙おうとしていた。読みは当たり、ジョエルの使役していた怪人はついに斃れた。
 風が吹き荒れた。痛みを熱として腹中に抱えながら、カサンドラはマオの下へ急いだ。

 生き延びようとあがく肉体に、もういい、あきらめろと命じた。鋭敏な皮膚のセンサも閉ざして、犬男は駆動を停止し、私は完全な無明に沈んだ。
 かつて、あの閨の暗闇の中だけで、私は狂わずに済んだ。あの醜さの中に正しさなど無かったのだから。そして、だからこそ彼が掴むべき栄光の道の上に、私の魂を浄化しうる祝福があったはずなのだ。
 闇が煮詰まり、心が石のように凝っていく。
 犬男にとって馴染み深い沈黙と停滞が魂に満ちていく。
 そして、すべてが死の秩序に隷属した時、もうそこには誰もいなかった。

 血の朱が散った蛹が前に倒れ込むと同時に風が舞い、巨大な影が天を掛け昇っていった。ジョエルはたたらを踏んで退きながら、それを追って真上を向いた。夜空には寒々しい沈黙が拡がっていた。
 ジョエルはハッとしてマオに駆け寄ると、爆ぜ割れた蛹と中にこべりついた筋肉と臓器を認めて、もう一度空を見上げた。
 どこまでも拡がる虚空に真っ白な翼が閃いた。

 派手なジャンパーの男が栄養虫の唐揚げを頬張りながら、停電したタワーから吐き出されてざわつく群衆の中に威圧的に佇んでいた。光の消えたタワーは圧倒的な威圧感と不気味さで天に聳えている。
「あ……?」
 その時、男は空を見上げていた。その口から虫の肢がぽろりと落ちる。群衆の中にもその存在に気づいてざわつく者や、携帯端末を取り出す者が現れ始めた。
 異様なものが空に浮かんでいた。グライダー、あるいはステルス機……翼?
 深淵の内で遠近感が消失し、その大きさは計り知れない。
 白い翼は波打つようにタワーをぐるりと一周だけ回ってから、引力を振り払うように空の一方へ滑っていった。
 その様子を興奮気味に撮影していた群衆の一人が何か柔らかいものを踏んづけた。「うへぇ」隣のジャンパー男が食べていた気色悪い栄養虫の食べかすだ。反射的に周囲を見回すと、街の灯りの向こうに派手なジャンパーがちらりと垣間見えて、雑踏に混ざって消えた。

 天に突き立った白い刃は静かに夜を裂く。
 厳然たる黒白のコントラストは、タワーの影も、暗雲も、星々すらも吞み込んで、人々の視界に焼き付いた。
 薄汚い布の拡がった部屋を抜け出て、小さな窓から夜空を見上げる濡れた瞳があった。
 タワーの最上層。地上の営みと無縁の高みで、一人のアーティストの失墜と栄光の美しい波形を愉しむ者がいた。
 脚を引きずりながら荒い呼気と共に頭上を見上げ、瞳に飛び込んできた彼女の意志の結実に微笑む男がいた。
 展望フロアでは、愕然としてへたり込む男と毅然として立つ女が空を見上げていた。
 女の真摯な眼の上を、翼は反射光のような清らかさで流れていき、
 さっと飛び立つと、ゆっくりと世界から遊離していく。
 翻る切っ先は力強く、迷いはない。
 綺麗な弧が地平を飛んでいく。
 都市から遠く離れた空で、翼が楽しげにくるりと回った。
 マオは蒼黒い宙を舞っていた。
 都市と海上を巡る風を跳び越え、遥か上空のずっと大きな流れを掴み取ると、星を覆う偉大で無関心な力が躰の芯を衝いた。
 周囲を満たす冷気を感じ、断熱層の奥で腹中に溜まる熱を感じる。
 貪欲な重力と、太陽の熱波は、遠くに在りながらも、ここに在った。
 ふっ、と後方に光を感じた。朝陽だ。
 マオは大きく伸びをするように躰をめぐらせ風を抱いた。真皮層の光源を落とすと、陽光は体表の細胞に拡散して鋭敏な輝きを発する。マオは波打つように虹が奔るさまを愉しんだ。
 人間はこんなことができる。
 生も死も遠い場所で、マオは飛び続けた。

『おわり』

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