森

Cavernous ——うつろに響く声——

 ハッ……ハッ……ハッ……。

 黎明の光を留める霧が、刃物のように乾いた樹々を白く飽和させていた。

 その中を駆け抜ける人影があった。

 洒落たネクタイとサスペンダーで汗ばんだシャツを飾った男だ。

 凍った世界に響く音はわずかだ。肺を裂くような荒い息遣い。ブーツに踏み破られる冷たい落ち葉。熱の籠った衣摺れ。

 ハッ……ハッ……ハッ……。

 男は真っ青な顔でただ走り続ける。踏み込み、蹴り出す。踏み込み、蹴り出す……。……。

 キュガッ!「がウッ」悲鳴と、悲鳴のような金属音がほとんど同時に森を震わせた。「あああ、アア……」錆びたトラバサミがブーツの上から男の右足に喰らい付いていた。

 ハッ……ハッ……ハッ……。

 男はもがいた。指を切った。金属ヤスリを取り落とした。痛みに耐えかね膝をついた。ただ血が流れた。

 そこで、血気の巡る顔で、男は振り返った。男の背後にあった、ぼやけた黒い影が形を取り戻した。

 ハッ……ハッ……ハッ……。

 荒い息遣い。愕然としたように開かれた口腔からは、痙攣する舌が垂れていた。落ち窪んだ眼窩には、血走った眼球。体毛のない体は、異様な熱気を発していた。

「待て……待て……」男は両手を向けた。それは凍りついたように停止していた。掠れた呼吸音だけが虚から漏れていた。「いい子だ……」一瞬、その言葉に反応したように瞳が揺れたが、すぐにこの世界への焦点を失った。

 ブ……ブゥゥ……ゥゥンン。突然、そいつが溶けた。そう見えた。上顎が宙をスライドしていった。舌が触腕のように引き伸ばされた。鎌首をもたげた。腹が波打った。脚が蔓のように伸長した。落ち葉が血と溶け合った。樹々が手招きするようにひしゃげていった。霧があらゆるものに充満していった。

 ピシャッ。男の眉間に風穴が空いた。血が樹皮を濡らした。男が倒れた。硝煙が風に流れていった。

 義足の老人は構えていたライフルを手にしたまま死体に近づいていった。

『続く』


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