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無責任と横暴のあいだで

以前、大所帯の稽古場で外国人の演出家に

「今までこういう動きをしてたけど、それを別の動きに変えたんですけどどうですか?」

と質問しに行ったことがあった。

少人数の座組ならお互いが呼応しあってバランスを取りやすいけど、大人数だとぼく一人の動きでバランスが崩れてしまうこともあると思ったからわざわざ聞きに行った。

するとその演出家は

「君はどっちがやりたい?」

と聞いてきた。
聞いてきたので

「後者がやりたい」

と答えたら

「じゃあそっちでいいよ」

と言われてしまった。

基本的にその演出家はNOを言わないひとで、NOだと思ってもYES BUT〜で演技の方向性を指示していた。

正直、無責任だとも思った。下手したら何をやってもYESになってしまいそうな空間だったから。
その一方で、俳優として自立しなければという気持ちにもさせられた。

自分で考えて行動をする。
自分が良いと思ったら、それをやってみる。

かつてYES ANDという概念を教わった通りのことがそこにあった。

相手にYES ANDしてもらうためには、提示する側も責任を持って提示しなければならない。
自分が良いと思っても、そこに責任が伴わないのであれば提示すべきではない。

自分の意見を述べることは大切だ。
そしてお互いの価値観をぶつけていくことで、作品が研ぎ澄まされていくこともある。

一方で価値観をぶつけていく行為が、ただ相手を論破する行為になりかねないなとも思う。
感覚的に言うと、相手の価値観を捻りつぶす感じだ。

それは自由じゃない。横暴である。すぐそこに裸の王様が迫ってきている。

あの外国人の演出家はなぜ懐深く、どっしりと構えていることが出来たのだろう。

本質を捉えていた?信頼?
じゃあ自分の主張はどこにあったのだろう。
自分が美しいとか面白いと思えるものはどこにあったのだろう。

ぼくは何を捨てきれていないのだろう。
どうして初手で「あなたはどちらがやりたいですか?」と聞けないのだろう。

ぼくには意見がある。それを飲み込めない。
なんでもいいよとなれない。

つくづく頭が固いなと思ってしまう。

あ、【ひとにどう見られたいか】が影響してしまっているのかもしれない。

【ちゃんと物事に対して何かしら考えてますよ】というひとに見られたいのかもしれない。

ああ。それは捨てたい。いらない。
生きるのって難しいけど、切り替えよう。

ひとの話を聴こう。よし。

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