タレントの醜聞を知って、最初に思ったのは相手の女性をそのように扱ったのは、彼が彼自身をそのようなものとして取り扱い、殴りつけていたからだろうということだ。するとスティーブ・マックィーン監督の「SHAME」をひりつく感覚とともに思い出した。
 セックス依存症の男とリストカットを繰り返す妹の隠された、過去の恥辱を描いた本作は、ふたりのあいだに何が起きて互いがなぜそうなったのかほとんど具体的に描かれない。何が恥なのかがわからないまま、ただ不穏な描写が続く。
 公開されて数年後の2014年、この作品を観た。号泣した。主人公の彼がそうなった理由がはっきりとわかったからだ。親密さの拒絶だ。

 7年ほど前、知己を得たアメリカ人のカウンセラーと話をした際、私と女性との関係の結び方をこう評された。
「それは言うなれば、傷とおっぱいの関係だね」

「君は自身の傷を無自覚のうちに、まるでマスターキーのように使って相手が胸底に隠している、鍵のかかった箱を巧みに開けている。すると相手は胸をはだけるだろう。理解されたと、受け入れられたと感じるからだ」

 彼の前に置かれたソファに座った私は汗が止まらなくなって、膝に置いた手が震えたのを覚えている。

「なぜ、それがわかるかと言えば、目の前に座る君がかつての僕だからだよ。君はそれを続けるかい? 続けても構わない。何も得られないわけじゃない。虚しさが得られるのだから、それはそれで構わない」

 学生の頃から私の周囲には、とても損なわれる経験をした女性たちがいた。なぜそうだと知っているかといえば、彼女たちが告白したからだった。恋人や夫、親、友人にも口を噤んできたことを私はたくさん聞いた。
 彼女たちは自発的に話した。でも、それは違うかもしれない。これまでの人生で黙っていたことを彼女たちが口にしたのは確かだし、私が彼女らに話すことを無遠慮に強いたわけでは決してない。だが、巧みな鍵の開け方をおそらくはしたのだろうと思う。テクニックではない。親密さをめぐっての私のサバイバル能力がそれをもたらした。

 母親は、私が生まれたときに難病に罹った。長くは生きられないと医師に告げられた。体力もない母の手を煩わせることは直ちに死を意味した。だから私は親の言うことを聞く、いい子供でなくてはならない。抑制の効かない言動で困らせてはいけない。決して本当のことを言い、心を開き、親密になってはいけない。子供らしい無邪気さで、いつかの時点でそう心に誓い、それを忘れた。
 信頼する、愛する人に本当のことを言わない。あらかじめ裏切ることを自らに強いた結果、それはある種の自傷行為になった。
 痛い。しかし、もし本当のことを言ってしまえば愛する人は死ぬのだから決して親密になるわけにはいかない。そういう掟を私は作った。最初に出会った異性である母親との関係性は、その後に出会う異性との間柄の雛形となった。

 親密になることは恐るべきことだった。それによって招かれる死は最も私が避けたい恐怖であったから。同時に心を開き、互いの手を取り合い、抱擁するまで近づきたい強烈な飢餓感があった。
 一瞬、そういう状態になったとしても恐慌に襲われ、親密圏の外、相手からすればよそよそしい、冷淡なラインまで撤退した。昨日とはまるで異なる人格を前にして、彼女たちは混乱しただろう。当時の私もなぜ自分がそのようなことをしてしまうのかわからなかった。そうせずにはいられないからそうしている。それで束の間、安心するが全く安心はできなかった。とても混乱した。
 見捨てられたくはないのに、相手を拒絶する。そこにいては見捨てられるにもかかわらず。この過呼吸になりそうな心身の状態を、私は4歳以降ずっと味わってきた。慣れ親しんだ恐怖だった。

 恐怖に安心するのは、親密になってはいけない場所にいることに慣れているからだ。そして、そこが安心できないのは、その場所に止まる限り、決して本当のことを言わない自分で居続けるしかないからだ。この激しい葛藤の、怒りのエネルギーが私の中にマスターキーを作り上げた。親密さを破壊し、台無しにするための解錠。

 過去と向き合うこと。母とのあいだに作り上げた関係性を観るように勧めてくれた、当時の恋人のおかげで私はいくつかの葛藤を手放すことができた。
 かつては虚しさが占めていたスペースには、別のものが入り始めたのを近年感じるようになった。それが何かうまく言えないのだが、冷淡さや拒絶、無関心とは異なる、何か暖かい感じがするもの。親密や愛そのものかわからないが、そう呼んでもいいかもしれないと思えるような何か。

 傷を通じての取り引きの時代は終わった。傷は本人にしか癒やすことはできない。癒えるまでの道のりは苦しい。しかし、苦しみを苦しみとして味わわないことが最も苦しいことだと、今にして思う。
 すべての葛藤が跡形もなく消えたわけではない。ただ、自傷行為はなくなった。かつては自分にはかなうはずもないと思っていた愛することについて少しずつ触れている感覚がある。



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