性愛と再生産活動

 経済活動において、自分より能力の高い人の意思の強い行動力に「女は怖い」と言う男性がいる。出産や子育てに当たっての我が子への没入の仕方を見て、「やっぱり女性は強い」という男性もいる。
 自分には手に負えない女性の振る舞いについて、そうした発言をすることで他の男性たちの共感を得ようとする。そのことで発言者は何を獲得するのだろう。
 所詮は「男は弱い生き物だから」と降参して見せる仕草は、年配の男性が「女房には苦労をかけた」と果たすべき責任を放棄した態度を積極的に肯定するところにおいて共通しているだろう。
 彼女に怖さを感じるのは早いが、敬意を払い、学ぶべきだと思えないのはなぜなのか。女性が強くて、己が弱いかどうかはともかく、育児に関わらなくてはならない。

 家族を守る。家庭を築く。ヘテロセクシャルの男はそれらについて「責任感を持つ」という。「責任感」とは何なのか。それが経済活動について言うのであれば、エコノミーの語源は家計のやりくりを意味したことを忘れるわけにはいかない。
 家族の領域において、家計の運営を放棄した態度を取り続けていられるのはなぜなのか。家計を細々とした家事の総計と捉えた上で疎かにできるとしたら、細かいところにまで気がつかないという感性ではなく、責任の問題だ。

 社会を形づくる権力を保持して来た男たちは、家庭とは構成メンバーによって共同で運営するものだとは思っておらず、権力を恣意的に行使できる領域なのだと無意識に思っているのではないか。
 しかし、彼は権力ではなく愛だと思っているだろう。もしも、そうだとしたらDVを振るう男との絶対的な違いはない。愛が権力の揺りかごなのか。

 家庭が再生産活動、つまり生命の営みを行う活動の場であり、そのひとつがセックス、性愛であるならば、彼はどのような性愛をパートナーと行っているのだろうか。これは性的嗜好の話ではない。
 愛が性を通じて表現されるとしたら、分かち難い性と愛はどのような「こと」として、ふたりの間に現れるのか。権力を伴っているのか。それともそれを放棄するような形でか。

 男たちは彼女たちの身体に本当に触れているだろうか。それが喩え、彼女から快楽を引き出す刺激に満ちたものだとしても、彼女は心から開放されるような体験をしているとは限らない。概念上の性愛を繰り返しているだけかもしれない。
 欲望は倒錯的であればあるほど興奮するのであれば、すべては自由なのかもしれない。けれどもフェティッシュな欲望は性愛に行き着くだろうか。
 ヴァギナを執拗に攻撃するような行為は性愛の名に値しないだろう。ヴァギナと等しく欲望を喚起する女性の乳房に対して、男たちが異様な関心を注ぐのはなぜだろう。
 猿のセックスアピールは尻にあったが、人間が直立二足歩行するにしたがって胸に移ったという説がある。真偽のほどはわからない。臀部の豊かさに多産の徴を見てとった文化も世界中にある。


 だが、近年の傾向を言うならば、グラビアやポルノを待つまでもなく、乳房がエロスの象徴として視覚的にも多大なセックスアピールの効果を男たちに与えている。
 乳房を生存上、必要とするのは、乳児だけであるはずだが、これほどまでに成人が乳房に焦がれているとしたら、現代の男たちは乳離れを拒否しているようにも見える。
 成熟と自立の拒否が愛の形をとって家庭で再生産活動を行う原動力となっているのだろうか。そうだとしたらあまりにグロテスクではないか。
 

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