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文章に冠を授けられた夜に

私は今、とっても嬉しい。
時計の針が夜中を回っているが、そんなのはお構いなしに文章を書こうと思う。この想いが新鮮なうちに。


昨晩、参加させていただいたエッセイコンテストでグランプリを受賞したことが知らされた。

個人の方が主催したエッセイコンテストなので、規模がそこまで大きいわけではない。とはいえ、文章をメインとしたコンテストで最高賞であるグランプリを受賞できたことは素直に嬉しい。

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文章は感性を伴う表現物だから、読み手によって好き嫌いがある。私の文章を良く思わない人もいれば、たまらなく好きになってくれる人もいる。全員に好かれる文章なんて、きっとない。
だから、今回のグランプリもたまたまの結果なのだろう。決して万人に受ける記事を書いたつもりはない。賛否両論あるんだろうな、と思いながら応募した。賭けに出た結果、それが運良く吉と出ただけ。

おそらく、どのエッセイコンテストでも同じなのかもしれない。審査員・・・つまり読み手と作品の相性がいいかどうか。それが大きく結果を左右すると思う。

これはエッセイコンテストに限ったことではない。誰かが誰かの文章を読むたびに、それは起こっている。賞こそはないが、「面白い」「面白くない」「最後まで引き込まれる」「飽きる」「読みやすい」などの感情を抱くことは、読者なら誰もがあるはず。その感情こそが、読み手と作品の相性がいいかどうかを表している。

そう思うと、時々出くわす批判にも少し耐えられる気がする。私の文章がおかしいんじゃなくて、あなたとは相性が良くないだけなのよ、と。

もしかすると、"絶対的に" 良い文章は、この世にないのかもしれない。それと同じように "絶対的に" 良くない文章も、ない。

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ずっとずっと、文才のある人が羨ましかった。プロの文章を読むたびに自分と比較してしまい、その差に落ち込んだ。

私は文才があるわけではない。
それなのに、書くことを愛している。
書かないと生きていけない。

そんな自分でいることが苦しかったこともある。

でも、今は少し楽だ。才能がなかったとしても、冠を授けられるような文章を少なくとも書くことができた。書くことを仕事にしている人間として、書くことを愛する人間として、これは素直に喜びたい。たとえ私の文章が "全員にとって" の良い文章でなくても、"誰かにとって" の良い文章にはなれたのだから。


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