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民主主義を破壊したのは安倍晋三ではないのか - 今こそ安倍政治と戦う勇気を

10日に投開票された参議院選挙は、予想どおり自民圧勝の結果となった。投票3日前(7/8)に遊説中の安倍晋三が銃撃され死亡し、その後のテレビ放送は安倍晋三への追悼と賛美の一色となり、画面に映る全員が喪服モードで安倍晋三の栄誉と功績を讃える場となった。マスコミ空間は安倍晋三を偶像崇拝する儀式で埋まり、参院選で自民党を圧勝させる準備が淀みなく進行する時間となった。テレビ出演者は、国民の安倍晋三への弔意を一票の行動にさせるべく、安倍賛歌を奉ったその口で必ず選挙に行きましょうと念を押した。視聴者に義務づけるように促した。

あれほど大がかりで隙のないキャンペーンを遂行すれば、今回の選挙結果は当然のことだ。投票率が上がり、事前の傾向にさらに拍車がかかり、無党派層が勢いよく自民と維新に流れた。よく考えれば、スタジオに登場した喪服軍団のほとんどが、10年前からの安倍体制下で機会を得た者たちであり、安倍政治からの恩恵や抜擢を受けてマスコミで出世した顔ぶれだ。そして、安倍権力に忖度し、媚び売りし、転向して、マスコミ世界にしがみついてきた胡乱な面々だ。番組を編成するテレビ局の経営幹部がそうだ。この連中が、安倍晋三の恩義に感謝して最後の御奉公に狂奔したのである。

彼らが3日間口々に言ったのは、「国にとって大事な安倍さんの命を奪った卑劣なテロ」であり、「民主主義への挑戦」であり、「言論封殺の暴力」であり、「民主主義の根幹を壊す暴挙」であり、それへの怒りの言葉である。その異口同音を聞きながら、はて、どこにそんな立派な民主主義がこの国にあるのだろうかと、正直、違和感を覚えて仕方がなかった。安倍政治に忠義を尽くしてきた、安倍政治を支えてきた者たちの「民主主義」であり、噓泣きの演出を上手にしている子分たちの「民主主義」である。あるいは、安倍晋三など心から軽蔑してるのに、カメラの前で社交辞令を余儀なくされた者たちの空虚な演技の台詞だ。

軽薄なお笑い芸人たちがげらげら笑ってネタにする永田町の三文芝居が、この国の「民主主義」の実相ではないか。口利き収賄とパパ活買春が本業だ。アメリカの要求に召使か奴隷のように従って予算を貢ぎ、制度を変え、官僚が遊興三昧する天下り法人に税金を流し込むのが、この国の「民主主義政治」に他ならない。その「民主主義政治」の頂点に立つ最高権力者が安倍晋三だった。子分たちの意識と感覚では、自分たちがテレビや永田町で威張れて、金儲けができ、富裕層として好き放題できる環境こそが、つまり安倍レジームの楽園こそが「民主主義」なのだろう。だから、この事件が「民主主義への挑戦」と認識されるのだ。

マスコミは、41歳の犯人が政治的な動機と背景を持ったテロリストのように言い上げ、安倍政治を憎悪し打倒を狙った卑劣な挑戦者として描き、民主主義の敵として糾弾する報道に染めた。反安倍のイデオロギーを暴力で実行に移した政治兇徒として決めつけて説明した。そうしないと、選挙で自民党に票を流し込む舞台装置が設定できないからである。「国民が安倍さんに弔い票を入れた」物語に仕上げるべく、事件の詳細や真実は隠し、触れず、一方的にフェイクニュースを流しまくった。実際には、41歳の犯人に思想信条の要素は欠片もなく、宗教団体をめぐる個人的な遺恨が理由だったにもかかわらず。

この事件の本質は、政治的なテロではなく、新聞の社会面で扱われる範疇の殺人事件に他ならない。犯人は政治を変えようとしたわけではなく、社会を動かそうと決起したわけでもなかった。襲撃の目的は私的なものでメッセージは何もない。犯行声明もない。扇動の要素は何もなく、共鳴を呼び起こそうとする意思も覇気もない。敢えて喩えるなら、安倍晋三は野犬に噛まれたのと同じであって、車を運転していて落ちてきた岩石に当ったのと同じだ。不運な落命の顛末であり、事故に近い事件である。マスコミが言い上げる「民主主義への挑戦」のイメージとは程遠く、政治的害意を強調し脚色する報道はミスリードさせるものだ。

宗教団体が統一教会であることを正しく調べて投票前に報じたのは、週刊文春だけである。10日配信の記事は事情の調べが詳しく、動機の内実をよく取材して伝えている。これを読むと、カルトの統一教会に家族と人生を滅茶苦茶にされた犯人の男に同情せざるを得ない。気の毒な身の上である。安倍晋三に恨みを募らせ、復讐の標的に据えるのは自然な心理だろうと想像する。報復の刃に倒れた安倍晋三は不幸に違いないが、統一教会の広告塔として派手に活動していた事実と罪科を鑑みれば、自業自得で自己責任と言われても致し方あるまい。政治家としての迂闊と失敗が招いた残念な帰結である。厳しい見方だが、安倍晋三らしい自滅の仕儀と蹉跌と言える。

畳の上で大往生する最期にはならないだろうと予感していたが、そのとおりの暗殺横死という幕切れになった。政治家人生の全体像が客観的に総括され、歴史上の人物になるとき、この結末はぶざまなもので、不覚をとった失命劇に違いない。犯人が反安倍の政治執念を滾らせた壮士や刺客であったなら、悲劇の物語として恰好がつき、英雄の人生がよく完結する絵柄となった。けれども、犬に噛まれたも同然の事故死なら、それは些か不細工な死に方と言わざるを得ない。客観的にはそう言えるはずだ。不具合な横死であり、本人と周囲が望まなかった不名誉な終幕だ。無論、こうした意地悪な総括表現は、安倍支持者からは反発と激怒を買うに違いない。

私は安倍晋三を評価せず、善意ではなく悪意を持つ者である。安倍政治を根本から否定する人間である。だから、犯人の境遇と経歴に関心を持ち、犯行の動機に内在して同情的な態度になる。安倍晋三を信奉する右翼信者や、安倍晋三に世話になった子分たちは、その立場に立てないだろうし、犯人は極悪人で、全人格を否定すべき「民主主義の敵」でしかないだろう。が、本来、私と同じ立場と認識の者は多いはずだ。7年前から9年前、安倍晋三は日本中から恨まれ、敵視され、渾身の憎悪を向けられた猛毒の独裁者だった。半分以上の国民が安倍晋三という人格への憤怒で沸騰し、その失墜と破滅を祈り願っていた。これほど徹底して嫌われた政治家はいない。

その姦夫の権力者が、犬に噛まれたように遭難死したとき、どうしてこれほど絶賛の嵐が沸き起こり、美化され聖人化され敬慕され、一億全体が安倍晋三の崇拝者になり、テレビが北朝鮮的な個人崇拝の儀礼空間となるのか。私には不思議で、また、耐えられない社会現象だった。ずっと安倍批判してきた者が、なぜ批判の口を噤まなければならないのか、誰もが口を揃えて美辞麗句を言い、左翼が心にもない阿諛追従の競争をしなければいけないのか、理解できなかった。知識人様のコメント商品を小売販売する内田樹も、マスコミと同じ「暴力反対」の一般論を唱えている。噴飯な光景に見えた。普通の左翼リベラルの感性と常識からすれば、安倍晋三以上の愚劣な悪魔はおらず、日本を不幸にした最悪の元凶ではないか。

肝心要のときに、左翼が安倍晋三の子分のマスコミと同調し、聖人賛歌の合唱隊のパートを務め、選挙で自民党に同情票を流し込む演出と謀計に協力してしまったのだ。誰もその場面で待ったをかけず、勇気を出してマスコミ批判の言葉を発しなかった。追悼のセレモニーにお行儀よく参列して時間を流し、権力側のショックドクトリンの思惑を阻止しようとしなかった。9日の朝日新聞の社説は、「民主主義の破壊許さぬ」と主張している。果たしてこの言葉が、今度の事件の論評として正鵠を射たものだろうか。犯行の動機と背景に政治性は全くない。安倍晋三は詐欺反社カルトたる統一教会の象徴で支柱のキーパーソンだったから、教祖の代わりに復讐を受けたというお粗末な事件だ。

そもそも、朝日新聞は、安倍晋三を民主主義の破壊者としてどれほど頻回に攻撃してきたのだろう。国会で虚偽答弁を重ねること、野党の質疑に答えずヤジと暴言で返すこと、憲法の国会開会規定を守らないこと、公文書を平気で改竄し破棄すること、人事で内閣法制局の憲法解釈を変えたこと、自分の権力的都合で最高検人事に横槍を入れたこと、等々、数え上げればキリがないが、安倍晋三の暴挙と専横のたびに朝日新聞は筆誅を加えてきたはずだ。安倍晋三の暴政によって日本の民主主義が破壊され、増税と新自由主義アベノミクスによって国民生活が破壊されてきたと憤り、それがゆえに安倍晋三に悪意を持ってきた者は、私を含めて国民の半分以上はいる。

それらの国民の声を朝日は代弁してきたはずであり、朝日にとって安倍晋三は「民主主義の破壊者」だったはずだ。なぜ、その認識が忘れられ、私的怨恨からの襲撃犯が「民主主義を破壊」した政治犯になり、安倍晋三が民主主義の偉大な功労者として擁護されるのか。奇妙な逆転現象の前に戸惑うのは私だけだろうか。今回、マスコミは「民主主義を守れ」と標語を立て、安倍晋三への同情票を誘導し、安倍晋三という表象に民主主義の包装を被せて意義づけた。自民党に一票入れて安倍晋三を弔うことが、まるで国民の正義の行動のように論陣を整列させた。安倍晋三が「民主主義」の化身になったのである。嘗ての朝日の安倍批判の檄文の集積はどうなるのだろうか。

今回、参院選で自民党が圧勝し、マスコミは安倍晋三の勝利だと定義するだろう。安倍晋三の偶像をさらに巨大化させ、国民と安倍晋三の一体性を説教し、安倍晋三を不滅のシンボルとして神格化するだろう。安倍晋三が果たせなかった憲法改正を、国民が挑戦すべき課題として絶対化し、改憲反対派を異端として排斥する運動を扇るだろう。朝日新聞がその先頭に立って旗を振るだろう。心ある者は、そのマスコミの欺瞞と背信に抵抗しなければならない。本来、今こそ安倍政治と意を決して戦うときであり、安倍晋三のグロテスクな反民主主義性を暴露し、正義は安倍晋三の対極にあると宣言すべきときなのだ。


天罰とか天誅とかいう日本語は、もともと、こういう衝撃的な出来事を言い表し、庶民に納得と了解を提供する社会的概念ではないのか。事件から4日経ち、彼らの意図と戦略どおり自民党も選挙で圧勝した。喪服で盛り上げた同情票キャンペーンは奏功した。われわれ反安倍のサイドに属する者は、そろそろ忖度と自己規制をやめて、自由で本質的な言論を解禁してもよいのではないか。儀礼と忖度の全体主義に屈してはいけない。


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