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55.ステージ裏の優越感

ヒジュラ暦1440.8.22 (2019.4.27)

後期の授業期間が終わり、期末試験期間に入った。
私は試験監督だ。問題用紙を配り、不測の事態があれば対応するのが仕事だ。学生が前日までぎゅうぎゅうに詰めこんだ記憶の扉を全開放している傍を、2時間近く歩き回る。

試験中はもちろん、学生はしゃべることもできず、よそ見をすることも許されない。非常に自由を制限された時間と言える。

一方、私の方は教室を自由に歩き回り、学生の解答の様子を見たり、もう一人の試験監督の先生とひそひそ話をしたり、試験委員会の見回りの人が来たら、笑顔で握手をしにいく。わりと自由だ。歩き回って疲れるから、アキレス腱のストレッチも忘れない。

静かな教室で自由に動き、アキレス腱を伸ばしていると、毎回、優越感に近い不思議な感覚を覚える。
“教室の中の大半の人間が自由を制限されている中、私は自由だ”という優越感。何か人間的に歪んでいるかもしれない(笑)

この優越感のような感覚がどこから来るかというと、おそらく私の小学生の原体験から来るものだろうと思っている。


雑な分け方だが、私は小中高と周縁側の生徒だった。中心側と周縁側。クラスの流れを作るのが中心側、それに流されるのが周縁側。転校の多かった私は、クラスの文化を作る側にいなかった。今にして思えば、小学生といっても、緩やかな権力構造というか主従のようなものがあったのだと思う。

思い出されるのは、生徒会(児童会?)のイベントが体育館であると、私はその他大勢の生徒とともにステージを見上げる側で、体操座りをして静かに待つ側だった。ステージを見ると、生徒会の役員的な生徒はステージの左右の裏側にせわしなく出たり入ったり、放送機器のある部屋の小窓からこちらを見ていたり、先生と話をしている。誇らしげに(私の偏見)。

“何であいつらは特別なんだ!ステージの裏側はどうなっているんだ?あいつら、先生と何を話してるんだ。放送の調節の部屋に俺も入りたい!!”

当時の私は、彼らに嫉妬していた(笑)

時が経ち、大学に入りなおした時に、私は、あるイベントの運営側になることがあった。その時に、初めてステージの裏側というものに入った。
“こんなふうになってたのか”
ホールのステージ裏にはゲストの控室があった。ふつうの学生なら話すチャンスがないゲストと話せた。幕が下りている隙間から会場を除くと、多くの人が座ってこちらを見て、待っている(当然)。
小学生の時に感じた嫉妬を10年越しに回収したような何とも言えない優越感を覚えた。

話は戻って、試験監督をする時になると、ステージ裏のエピソードを思い出し、学生が真剣に解答する傍らを歩くと少しいい気分になってしまう。私の中の権力欲が刺激されるのだろうか。

といっても、試験後には採点が待っており、〇×△を繰り返しつけるたびに、自分が労働者であることを実感することになる。

いつもより、ちょっとよい茶葉や甘味をいただくのに使わせていただきます。よいインプットのおかげで、よいアウトプットができるはずです!