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戦略的に褒める技術

 この現代では文章を書く機会が増えました。ちょっとした投稿につけるコメントでも、絵文字一つより、ちょっと文章書いたほうが喜ばれます。また何かをつくったらコメントが寄せられることがあります。それに対してコメントしないと「放置か」なんてすねられたりする時代です。まさしく一億総コメンテーター時代なんてもんですからね。

 そして文章って書いてると感情がモロに出ます。それに感情が高ぶったときには鬼となって文章をうばーっと書いてしまいがちです。人によってはその怒りの舌鋒の鋭さを『キレがいい』ものと思って、褒められるものと思っている人もいるようです。

 しかし! 人の真価はそういうキレ芸では差が付きません。むしろ褒めることによってこそ出ます。断言できます。褒めるのはものすごく難しい。でも難しいからこそ、そこで多くの人は意識無意識のうちにその人を判断しています。

 というわけで「差がつく褒め方への戦略的ステップ」を。

前提としての難易度

 褒めるのは難しいです。人を怒る言葉は簡単に思いつきます。バカアホ間抜け。いくらでも思いつく。でも褒める言葉は? 天才聡明冷静沈着? でもこのバカ!と言いかけた相手に天才! というのは気が引けます。それは嘘だから。嘘をつくことには人間は実は予想以上に耐えられないものです。それより感情にまかせてど阿呆うんこキモいエンガチョ、という言葉のほうがぱっと思いつきやすいものです。
 だからこそ、あえて褒めるのです。

 褒めることの効用を挙げていきます。

脱「オタ」できる

 いや、オタクでもいいんですけどね。でもとかく他人の言葉になんでも「いや」とか「でも」とか逆接の否定で入る典型的ダメオタクな会話術が人に好かれるワケがないのも自明です。「いやそんなことない」と今思ったアナタ。そういうとこだぞ。(と予防線を張る。ヒドイっ)

 毎度毎度、否定に否定をぶつけあうのは疲れますからね。ちょっと「いや」「でも」と思っても、そこをちょっとこらえて相手の言うことを少し泳がせましょう。そのほうが結果実り多い対話になります。

けなすより効果が大きい

 褒めることに慣れていない相手には効果絶大です。褒める声のない塩だらけの死海みたいな環境で物事をやっている人間は、まともに相手されただけでも生きる余地ができて嬉しい。まして褒められるなんて予想外なのです。それでつい防御が薄くなります。

 今の世の中は褒められもしないのに鍛錬を続ける無名地獄に耐えざるをえない世の中です。そのなかで褒めるってのは、手っ取り早く承認欲求を満たすよいものです。承認欲求をばかにしちゃいけません。社会的動物には承認欲求は生きるために必須なものなのです。そしてその承認はだいたい承認として返ってきます。

 承認されたければまず相手を承認しましょう。

 それをまとめて褒めあい傷のなめ合いと批判する人もいるでしょう。

 でもそういう人が生き残って何かを成した例をワタクシの著者は作家生活20年で見たことがないです。自分は批判して相手に承認されようなんて虫のいいことはできません。よほどめちゃめちゃいい批判でなければ評価され承認されないのです。「批評家の銅像が建てられた例はまずない」という言葉もあるのです。
 いい批判は褒める以上に難しいのです。無理せずにまず軽く褒める練習からははじめましょう。

芸として認知されやすい

 また周りで見ている人間はけなす人よりも褒める人に技術を感じるものです。けなすことより褒めるほうが難しいことをほとんどの人は無意識のうちに知っているのです。

精神修養になる

 褒めるために頭を総動員することはいい鍛錬になります。怒鳴りたくなる相手がいても、その怒声をぐっとこらえる忍耐を養うことはいろいろ役に立ちます。

 人は見境なくわめきちらす人よりも、まず堪え性のある人のほうに知性を感じ、尊敬するものです。沈黙は金とまで沈黙するのは大変ですが、ちょっとこらえましょう。

良い知的訓練になる

 褒めるには語彙力とアイディアが必要です。けなす言葉にくらべて褒める言葉を集めるのは難しい。「すっごーい」「何それヤバーイ」とばかり連発していると、褒められた方はだんだん耐性ができてしまい、誰にでも同じこと言ってるじゃん何だこいつ、と思ったりするものです。戦略的に褒める計略がそういうところからほころびます。
 そこでアイディアも付随して必要です。直接褒める言葉には限りがあります。それを使い切ってしまったらまずい。そこで言い回し、なにかに例えるとかのアイディアが必要になります。ひどい話ですが昔の本で女の子を口説くために褒める例で「この子は肘がきれいだ!」という例示がありました。たしか肘がきれいってのはいいですよね(でも顔や体が良ければもちろんもっといいのですが)。嘘に落ちずに褒めるには工夫がいるのです。

観察力が身につく

 観察力も養われます。先程の例の「肘がきれい」も、それに気づくのが偉い。確かに嘘ではないですからね。良心は比較的に痛みません。褒めどころを探す力を養うことは、なにかとよいです。

 昔まずい料理を食べざるを得ない食レポのTVリポーターはそういうとき「美味しい!」というと嘘になるので「なかなかですねー」という、と告白していました。また震災のとき飲み水がなくて人々が飲む使ってないプールの溜まり水を飲んだレポーターも「まずい!」といえない。でもいくら人々が命をつなぐために飲んだありがたい水でも溜まってたボーフラ浮くような水が美味しいワケがない。そこで頑張ってこらえて、「命の味がします!」と言ったのです。このように褒めるには表現力も必要です。とくにそういう極限状況だとそれが求められるのです。

社会性が身につく

 そして褒めるなかで社会性も養われます。のべつ幕なしに「最高! すばらしい!」とばかり言ってると、それはそれで「なんにでも同じこと言ってんなあ」と浅い底が見透かされます。なんでも10点満点にすると10点があたりまえのインフレになります。そうはならないようにこれは8点かな、6.5点かな、と余裕を残して褒める注意をもつことが求められます。

 褒めるということはそのなかで価値基準をどう持っているかを試されることです。だから10点満点を「知る」ことも必要になります。それをもとめていろいろ見聞を広めることがいります。さまざまなものの10点を知る、それはすなわち教養を深めることであります。

 褒めるのは難しい。小学校の先生が通信簿に書くがごときの力技で褒める技術にも学ぶ必要が出てくるでしょう。難しい道です。でも、嘘をできるだけつかずに褒めるという道を歩む人間は、いつの間にか他人も同じその苦難の道を歩んでいることもわかります。そして、そういう人々と知り合う人生になります。

ライフスタイルが健康的になる

 限られた人生です。それは常に不平たらたらで喧嘩っ早くイライラしている人と過ごすよりも、褒める人と過ごすほうがずっと安全で楽で生きていきやすいのです。

 生きやすい環境は自分の心がけ次第で呼び寄せられます。それだと自分の欠点に気づけない?

 そんなことはないです。褒めることを頑張っている人間は、褒められた時に「あ、結構『頑張って』褒めてるな」と自覚できちゃうのですから。批判に身を晒し、批判に批判で対抗する終わりなき『戦(いくさ)の日々』よりずっとエネルギーもセーブできます。

 セーブしたエネルギーは他のことに活用しましょう。人生に活力が出ます。

しかしここで誤算

 で、ここまで書いて、私は誤算していたことに気づきました!
 ひいいい、これだと私の褒め言葉に裏探られちゃうし私は今後褒められても、ずっと手放しで嬉しくなれないッ! ひゃあああ。

 というのは冗談です。まあ褒められないのにはなれてるからべつにいいし。それよりいろんなとこで罵り合い見て、すっかり疲れちゃったからね……。

嘘の危険

 ちなみにバブル時代に政治家に「褒め殺し」なんてのやった悪いやつがいました。「実にすばらしい大悪党だ!」みたいに国会周辺に街宣車だしてたのが。褒めることで殺しちゃう。でもあれは褒めてないのです。褒める気ないのに褒め言葉言ってもダメです。それは所詮嘘ですから。

 嘘をつくことはどうやっても罪深いことです。それはまわりまわって自分に返って因果応報になってしまいます。そんなことにエネルギー割くより、ほんとうに10点満点で褒めるに値するものを鑑賞したり、それを作れるように時間を使ったほうがいいのは自明ですよね。

まとめ

 褒めるのは難しい。でも程度はどうあれ、にもかかわらず褒めるしか人間の生きる方法はないのです。

 アタリマエのことなんですけどね。

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