フリオ_デ_カロ

ピアソラが影響を受けたタンゴミュージシャン③フリオ・デ=カロ

【デレチョ・ビエホ】 エドゥアルド・アローラス 1916年

タンゴを変えたデ=カロ

フリオ・デ=カロは厳格なクラシック音楽家の家系に生まれ、幼少期から音楽の英才教育を受けていましたが、10代の頃タンゴの魅力に取りつかれ家出同然でタンゴの世界に飛び込みました。

1920年代に若くして彼が結成したフリオ・デ=カロ六重奏団はオリジナル作品だけではなく、一昔前のタンゴに大胆で華やかなアレンジを施して魅力を引き出す手法で人気を博し、「いかに優れたアレンジを作り、楽団の個性を出すか」という、その後につらなるタンゴ楽団の方向性を決定づけました。
上で取り上げた音源もフリオのタンゴの師匠ともいえるエドゥアルド・アローラス(バンドネオンの虎)の作品をアレンジしたものです。

それまでのダンスの伴奏が主体でシンプルな演奏がほとんどだったタンゴを前進させ、クラシック音楽に影響された和声や構成を導入したスタイルは、その後のタンゴの作曲法や和声法にも大きな影響を与えることになりました。

黎明期からタンゴを支えてきた重鎮ロベルト・フィルポもデカロ楽団の躍進をみて『デカロは私たちみんなを追い越してしまった』と語ったそうです。
それだけデカロの前後でタンゴという音楽の演奏や作曲・編曲の質は変化したといえるのです。

また彼の六重奏団の編成(バンドネオン2、バイオリン2、ピアノ1、コントラバス1)は長らく最もスタンダードなタンゴの演奏形態として定着していくことになります。

【黒い花】フランシスコ・デ=カロ 1927年

またフリオの兄でピアニストのフランシスコ・デ=カロも弟とともに楽団のために優れた作品を残しています。
この「黒い花」も当時のタンゴとしては非常に複雑な和音や転調が使用されており、タンゴ・ロマンサと呼ばれるクラシック音楽風の高踏的なタンゴの一つとされています。

デ=カロとピアソラ

ピアソラの父ビセンテ(ノニーノ)はデ=カロ楽団の愛好家で、ニューヨークで暮らしていたころから盛んにレコードをかけては聞きほれていたそうです。
とはいえその頃はまだピアソラは4~10歳ごろ。
彼がタンゴの魅力に取りつかれるのはまだまだ先の話でしたが…

【デカリシモ】アストル・ピアソラ 1961年

デ=カロ楽団の革新性を高く評価していたピアソラは、彼への敬意と彼の活躍した古き良き黄金時代への憧憬を込めてこの作品を作曲しました。
華麗なバイオリンソロもデ=カロ楽団へのオマージュを感じさせます。
「デカリシモ」の初演にはフリオ・デ=カロ本人も立ち会っていました。1958~59年のピアソラのニューヨークでの不遇の時代にはデ=カロは励ましの手紙を何度も送っており、そのことをピアソラは非常に感謝してたそうです。

1954年に50代半ばという若さで演奏家を引退してしまったデ=カロに対して、ピアソラは再び演奏するように誘ったそうですが、結局デ=カロが復帰することはありませんでした。

デ=カロからのタンゴの系譜

タンゴの演奏の歴史にはいくつかの大きな流れがありますが、ピアソラがつらなる系譜を図示してみましょう。

画像1

非常にざっくりとした系譜になりますが、これがピアソラのタンゴ界の中での位置づけとなります。
デ=カロに始まるタンゴの「革新派の系譜」といえるでしょうか。

1920年代にデ=カロがおこしたタンゴの革新の流れの先、1950年代からいよいよピアソラのタンゴ革命が本格的にスタートします。

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