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イタリアバロック絵画~カラヴァッジョをめぐって~


カラヴァッジョの絵画には以前から心惹かれていたので、それを「イタリアバロック」という視点からももう少し勉強してみようと思った。
カラヴァッジョ絵画を、私なりに、
● 対抗宗教改革運動
●ルネサンスからマニエリスムへそしてバロックへ
● 静物画に秘められたもの
という、三つの観点からまとめてみた。



対抗宗教改革運動

まず、カラヴァッジョ「聖マタイの召命」(1600年)という絵画をみてみよう。これは「聖マタイの殉教」(1600年)とともに、カラヴァッジョの公式デビュー作であると言われている。これらは公開後すぐに大評判となり、人々はそれらを見ようと教会に殺到した。

令和2年10月30日本から1 1280カラヴァッジョ聖マタイの召命

「聖マタイの召命」カラヴァッジョ

とても緊迫したシーンが描かれているということはまずわかる。
絵画の右の方、真剣なまなざしで誰かを指名している男がイエスキリストである。キリストが居酒屋のような部屋に居て、しかも普段着のような服を着ている! そのキリストが指名しているのは、左側でうなだれている若者であるらしい。
そもそもこの若者は徴税吏であった。徴税吏というのは、当時、ユダヤ人でありながら、ローマの手先となって同胞から税を取り立てる人間、という意味で罪人であったのだが、キリストは、そういう卑しい存在である人間からも積極的に弟子を集めている。
若者はキリストに指名されたあと、すぐに立ち上がり、すべてを捨ててキリストに従っていく。この若者こそ、のちに福音書を執筆する使途マタイとなった・・。
ああこの物語か、と聖書のこの部分を思い出した。

臨場感にあふれ、ざわめく声まで聞こえてきそうな絵画だが、これをキリスト教絵画というのだろうか。
私が今までに見た、レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロのキリスト教絵画とは、イメージがかけ離れている。
このような絵画を、カトリック教会は許したのか。
画家カラヴァッジョを、不謹慎である、と罰したのではないのか。

調べていくと、この絵画は、対抗宗教改革運動と関係があるようだ。
1517年、ルターの告発によって始まった宗教改革は、ヨーロッパ全体を激しいキリスト教新旧抗争の渦の中に巻き込んだ。プロテスタント側の勢力が拡大するにつれて、カトリック陣営も、さまざまな対抗運動を展開するようになる。カトリック側によるこの動きを「対抗宗教改革」という。

この「対抗宗教改革」にはっきりとした理論的根拠を与えたのはトレントの宗教会議であるが、この会議以降、カトリック教会は明確な方針でプロテスタント側に対抗していく。

カトリック教会の1つの大きな目標は、とにかくできるだけ多くの信者を獲得する、ということだった。そのためには、字の読めない一般大衆にも、キリスト教の教えを直接訴えかけることが必要となる。その試みの一つとして、美術が利用された。確かに中世においてもケルト人やゲルマン民族という異教徒に布教するために、偶像、つまり宗教美術を活用してきた。しかしキリスト教の基本方針は偶像禁止だ。この問題をめぐって過去のカトリックと分裂したギリシアやロシアの「正教」系はイコン以外の宗教美術を認めていない、またプロテスタントもカトリックの華美な宗教美術を批判している。しかし、このたびカトリック教会は、逆に宗教美術を「強化」することで対抗したのである。

カトリック教会がとった戦略は、絵画の持つ「現実的なイメージの力によって人々を説得する」ことだった。教会は宣伝のために多くの芸術家たちを動員した。


教会が芸術家たちに指示した内容は主に以下のようなものである。
●主題は、「三位一体」や「聖体の論議」のようなものよりも、むしろ「聖書や聖者伝の中の印象深いエピソード」、また「ドラマティックな迫力に満ちた物語」などを描くこと。たとえばキリストの受難を始め、殉教や奇跡の場面など。
●また、表現方法としては、明快さ、単純さ、わかりやすさを第一条件とし、そのためには写実的な表現をすること。人々の感情に強く訴えかけるために、画面の登場人物を日常の身近なものであると感じさせること。しかも人々の感情移入を促進するために、絵画の登場人物にはおおげさな表現や激しい身振りの表現をさせること、などである。

教会は芸術のパトロンとしても重要な役割を果たしたが、内容については芸術家に対し、上記のような厳しい注文をつけた。つまりあくまで芸術は教会に奉仕する内容を持つものでないといけなかったのだ。

私がカラヴァッジョ絵画の、現実感あふれるダイナミックな劇的な表現に圧倒されるのは当時の教会の思惑通りだ、ということになる。あらゆる刺激に満ちた現在の時代に生きる私が観ても息を呑むような迫力で迫ってくる絵画であるわけだから、当時の人々がこの絵を観て心が揺さぶられ、それがキリスト教への導きとなっていったのは当然のことであろう。

最初の私の疑問―「こういう絵画を、カトリック教会は許したのか。不謹慎だと罰したのではないのか」という問いはむしろ逆だった。確かに、カラヴァッジョはあまりに徹底した写実主義を実践したため、聖母や使途を冒涜するものだ、という非難も受けなくはなかったが、基本的には彼の画法は教会の目指すところと一致していた。彼は時の画家として期待され、次々と教会の意向に沿った作品を完成していく。


教会の大胆なイメージ戦略、大がかりな大衆強化路線の試みがもたらした結果は―カトリック教会側の圧倒的な勝利であった!

私の最初の疑問は解決した。
しかし、それでもまた次の疑問が生じる。
先ほどのレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロの絵画は、とにかく穏やかだ。構図も整然としていて安定している。観ていると心が鎮まってくる。
しかし、カラヴァッジョの絵画は、強い臨場感があり、むしろ心が揺さぶられる。しかも、光がスポットライトのように当たっている部分と、そうでない闇のような部分とがある。これがバロック絵画だというのなら、なぜ、いつ、ここまで対極にある絵画様式に変化したのだろうか。それについてもう少し調べてみることにする。


 ルネサンスからマニエリスムへそしてバロックへ

そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロなどのルネサンス絵画は、安定した秩序感のある構図、穏やかさと調和、動きのない静謐さ、があり、あくまでも絵画の中の世界という感じである。

しかし、同じルネサンスの絵画でも、安定したものばかりではない。ラファエロの画業後半の絵画「キリストの変容」、ミケランジェロの「最後の審判」などに、安定感があるとは言いがたい。また永遠の静けさとは逆に、動きが感じられる。平面性がうすれ、立体的に描かれている。人はひしめきあっているし、ミケランジェロにおいては筋肉質はなはだしい。技巧的に魅せるためか、ねじれたポーズがたくさん描かれているが、よく見ると登場人物のすべての人体がねじれて描かれている。現実にこういうことがあるだろうか? どことなく不自然で、人工的な匂いがする。


調べていくと、これが「マニエリスム」という様式であるらしい。ルネサンスの巨匠たちによって完成された手法を使って、自由多彩に、奔放に、技巧を誇示したのがマニエリスムであるとのこと。「マニエリスム」とはイタリア語で「様式」や「方法」を意味する「マヌエラ」を語源としているそうだ。なるほど、この不自然さはやっぱりそうだったのだ。

もう少しマニエリスムを見ていくことにする。ポントルモの「十字架降下」という作品だ。磔刑に処せられたキリストの遺骸が十字架から下ろされて埋葬のために墓に運ばれるシーンだが、この主題はこれまでにも数多く描かれてきた。ただ、このポントルモの作品は、それらとは群を抜いて異様さが際立っている。どの人物の視線もばらばらでキリストの方は見ていない。焦点の定まらないうつろなまなざしの人物たちがうごめいているように見える。浮いていると言った方がよいくらい地に足がついていない。また背景にも何も描かれていない。

令和2年10月26日高300ポントルモ十字架降下

「十字架降下」ポントルモ


もうひとつパルミジアニーノの「長い頸の聖母」を見てみる。聖母の頸部はあまりに長く、身体全体に対して頭部が小さすぎる。それぞれの人物の大きさも、その距離を考えるとおかしい。背後に見える円柱を基準に考えると、その下方に見える人物は蟻のようなサイズなのかと思ってしまう。そして、この絵も先ほどのポントルモの作品に漏れず、登場人物はうつろな放心したような表情をしている。

令和2年10月26日高300パルミジャーノ長い頸の聖母

「長い頸の聖母」パルミジアニーノ


ルネサンス時代において、自然をあるがままに写し取る様式ではすでに完成の域に達していた。マニエリストたちはルネサンス様式に画家独自の美学を加えることによって、自然を凌駕する美しさを持った新しい絵画を目指していく。確かに、これらの作品のS字状に湾曲する曲線は優雅で美しい。人工的ではあるが、洗練された技巧の美という表現もできる。
そういう意味では、それぞれの画家独自の美意識や個性が大切にされ始めたとても重要な時期であると言えるのだった。


ただ、マニエリスムが登場してくる1520年代は、上述した新旧両派の争いがいよいよ激しくなっていった時代だ。カトリック教会側は、絵画戦略の手段としてマニエリスム様式を使うのでは、上記のような内容の性質ゆえ、到底プロテスタント側に勝てそうにない。もっと主題が明確で力強く、そして敬虔な作品が必要だった。そういう意味でカラヴァッジョの絵画は、その生々しいまでの写実性、激しくドラマティックな表現において、また光と闇のコントラストのもつ強い緊張感において、教会側の意図を充分に実現させてくれるものだった。カラヴァッジョ絵画はその見事な表現により、人々を惹きつけ、説得し、キリスト教化していったのであった。

彼の活躍により、絵画世界においては、確実に新しい絵画様式「バロック」の時代に移行していく。
以下に、カラヴァッジョのキリスト教絵画をいくつかあげておく。

●カラヴァッジョ「キリストの埋葬」(1600年)
彼の最も有名な作品の一つである。
磔刑に処され死したイエスの肉体を、ゴルゴダの丘の墓に埋葬する場面だ。人物が扇状に展開するよう構成されている構図も印象的だ。
また彼の作風としても、やや変化が見られる作品である。これまでの彼の作品は細かい部分も徹底して描かれていたが、この作品では人物の身振りや緊密な構成のみによって観るものを画面に引き込む力を持っている。
これは壮大なバロック的歴史画の確立を意味している。

令和2年10月26日高300キリストの埋葬カラヴァッジョ

「キリストの埋葬」カラヴァッジョ

●カラヴァッジョ「ロレートの聖母」(1604年)
この絵が公表されたとき、人々は大騒ぎをしたという。自分たちと同じ姿を絵画の中に見つけた思いであったのだろう。また構図も、下から見上げるように設定されているため、まさに人々の前に聖母子が現れたような幻想に包まれたことであろう。奇跡が実際に目の前で起こっているような現実性や臨場感を与える、というカラヴァッジョの宗教画の素晴らしさが存分に発揮されている作品であると思う。

令和2年10月26日高364ロレートの聖母カラヴァッジョ

「ロレートの聖母」カラヴァッジョ

● カラヴァッジョ「洗礼者聖ヨハネの斬首」1608年
この絵画は、カラヴァッジョ最大の作品と言われている。洗礼者ヨハネがヘロデ王の命令で斬首されるシーンである。牢の中庭のような薄暗い空間で、この怖しい行いが実行される臨場感がそのまま伝わってくる。彼の晩年の特徴である和らいだ色調の中に随所にハイライトを用いる光彩の表現や、人物の大部分を左側に配置することにより、緊張感に満たされた絶妙な空間構成が成立しているのも、彼自身の偉才のなせる技であると思う。
よく見ると、ヨハネの首から流れ出る血は、「F・ミケランジェロ」と描かれている。ミケランジェロとはカラヴァッジョの本名だが、Fは「騎士」「同胞」「描く」を意味しているとされている。
彼はこの作品完成から数ヶ月後、再び殺人を犯すことになるのだった。自らの来たるべき未来の暗示が彼の心に忍び寄っていたのだろうか。この絵の持つ深遠さや神秘性には胸を打たれるものがある。

令和2年10月26日300洗礼者ヨハネの斬首カラヴァッジョ

「洗礼者聖ヨハネの斬首」カラヴァッジョ



絵画に秘められたもの

最後に、カラヴァッジョのキリスト教関連以外の絵画を少し紹介しておく。

カラヴァッジョがキリスト教関連の絵画を描くようになったのは、フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿に出会い、彼に雇われてからである。
それは、フランチェスコ・デル・モンテ枢機卿がカラヴァッジョの「トランプ詐欺師」に関心を抱き、それを高く評価したことから始まった。

●「トランプ詐欺師」カラヴァッジョ(1595年頃)
この作品では、うぶな若者が、二人のいかさまトランプ師にだまされる、緊張感のある場面が描かれている。巧みな光の描写の中で、それぞれの人物の心理状態が見えてくるようだ。このような主題は当時のローマでは珍しく、その理由もあって同枢機卿に見いだされたのだった。
その後、カラヴァッジョは同枢機卿のもとで、いくつかの風俗画や静物画を作成していく。このような世俗ジャンルの絵画を当時のローマにて発表したのも、カラヴァッジョの一つの業績であった。

令和2年10月26日350トランプ詐欺師

「トランプ詐欺師」カラヴァッジョ

●「リュートを弾く若者」カラヴァッジョ(1590年頃)
この作品は、カラヴァッジョ少年像絵画の頂点をなす傑作として知られている。
譜面やヴァイオリン、水差し、生け花、果物などの静物を自らのまわりに置き、若者はリュートを奏でているが、その目は虚ろげにこちらを見つめている。この若者の虚実な表情は、青年期カラヴァッジョの内面を示すものであるらしい。また、楽器や楽譜は人間の五感と関連しているわけで、この絵の持つ隠れた主題は「人間そのもの」であるとも言える。
また音楽図像学的に見ると、この時代、リュートとヴァイオリンの両方が存在していたことがうかがえる。その後、時代の流れとともに、リュートはすたれ、ヴァイオリンが主流になっていく。

令和2年10月26日300リュート弾きカラヴァッジョ2

「リュート弾き」カラヴァッジョ

●「果物籠」カラヴァッジョ(1596年頃)
これはカラヴァッジョの唯一の静物画だが、イタリア静物画の発端ともなった作品だ。ぶどうの房のつややかな輝きや、籠の編み目の精緻な表現など、その現実描写は見事である。ただよく見ると、葉の一部は枯れて丸まっている、林檎にも虫食いがみられる。それらが意味するものは、「みずみずしい生命感にあふれた果物も、やがては衰え、凋落していく運命にあること」の暗示であるとのこと。この絵を観る人は、「この世に存在するものはすべていつか滅びなければいけない」という永遠の真理に導かれる。

令和2年10月26日300果物籠カラヴァッジョ

「果物籠」カラヴァッジョ


これらのような若き日のカラヴァッジョの作品を観ても、彼は徹底して現実世界の再現を追い求めている。しかしどの作品にも、目に見える現実の「背後」に自然描写を越えた「超越的なもの、あるいは神秘的なもの」が含まれているのが伺える。それらは、虚無的な、絶望と隣り合わせにいる彼自身の世界観を反映しているものなのかも知れない。


終わりに

カラヴァッジョの美術史上の業績は、マニエリスムの空想的な美術やカトリック改革の美術を、バロック美術の時代へと大きく推し進めたことである。

しかし、カラヴァッジョ絵画は、どの作品からも、死の本質を見据えているような彼自身の精神性が伝わってくるような感じがする。キリスト教関連以外の絵画を描いていた若き日の作品からも、彼は生涯一貫して、そのような精神世界の中にいたのではないかと想像する。

カラヴァッジョの生涯の詳しい経緯は割愛するが、彼のもともと持つ暴力性や残虐的性質の起こした事件や彼自身の生涯のストーリーは有名な話だ。
しかし、「残虐性や暴力性」と「繊細で破壊的な人生観」というのは表裏一体のように見える。カラヴァッジョの作品には彼の内的世界が強く結びついているように見えるのである。

いろいろと調べてきて、あらためてカラヴァッジョの技巧の素晴らしさには驚嘆する。
しかしそれと同時に、罪と絶望の中から一筋の光を求め続け、一つ一つの作品を、身を削りながら描いたのではないかという推測がわく。
カラヴァッジョの一つ一つの作品を味わいながら、彼自身の生き様を推測するとき、「人間とは何なのか、人間にとって神の存在とは何なのか」、ということを、現代の時代に生きる私たちもあらためて問い直されているような気持ちになる。







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