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降りてきた

息は白く、
埃っぽいエアコンの
吹き出し口からは、
暴力的な暖房が吹きつけ、
FM76.1では、
オリジナルラブの
プライマリーが
ノイズ混じりで流れてる。
左手はシフトノブの上、
エンジンの振動が心地よく響く
3tダンプ。
朝の7時過ぎ、
助手席に乗ってる サトシが
「死ぬまでなんてね、
あっちゅーマ」

「私もそう思う」

今年の春だった、
48歳を目前に、
もし、
あと20年生きれるとしたら?と言う思いが波のように押し寄せ、
あと20年生きれたら、
70前か、、、

10年 続いた、人生初めての
サラリーマンを辞めた。
定年退職まで勤めて
老後を難なくとやり過ごすこともできたが、
そうじゃないだろと感じてた。
なんだか、
ぬるま湯に浸かってる様な感覚と
繋がれたまんま終えていくのは、なんか、らしくないと言う
思い上がった理由だ。
サラリーマンで入社した時も必ずこの日が来ると確信してた。
仕事や職場環境に問題があった訳では無く、
むしろ、好きな仕事だった。
某メガバンク 一支店での
社食の所長だったので、
事実上、現場の管理運営。
パートの姉様2人と私で、
毎日140食程の昼ごはんを
せっせとこしらえる。
楽しさもあい重なり、
居心地もよくズルズルと、
キリ良く辞めるタイミングの
キッカケが10年と言う節目になっただけだった。
12年でも無く15年でも無い、
思い上がりの波押し寄せた今。
今乗らなきゃ、
おそらくグダグダのまま
この時代の生きた証を
綴られてるはず。
過ぎてみれば10年は早かった。
人生は1度きり、
それがどう言う意味なのか、
なんとなくわかってても、
明日の朝、
寝床から起き上がる事なく、
ロウ人形のようになってるかも知れないなんてのは、
誰しも思いつかない。
それもあり得るのが命のミステリアスさ。
いつか見た映画のような、
残り寿命が腕にデジタル表記されたりすると、強迫観念で、気が狂いそうだが、どうせなら、ウルトラマンのカラータイマー、3分間の方がスパっといける。
あとさ、
未来を知りたいと思った事は誰しも有るとは思うけど、未来がわかったら面白くない気がする、何事もそれまでの過程が大事。
状況に応じた適応力であり
判断力を養うには欠かせない
成長する為のコンテンツかなと。

子供の頃に、
ボードゲームの人生ゲームがあった。
ルーレットを回して進むアレ。結婚したり、子供が出来れば車に乗せ、倒産、金持ち、と現実社会同様にコマを進めゴールする。持ち金で順位をつけ、仮想の優越感に浸る。ゲームを始める前に、銀行役をジャンケンまたは持ち回りで決めるのだが、それが自分以外の人だと、ルーレットを回すよりも、銀行役の其奴のスキ見て、札束を並べてるとこから抜き取るという、手っ取り早い人生ゲームの勝ち上がり方も独学で得た手法の一つだった。それをズルと言う。
それを社会に出て実践してしまうと、それはそれで、受け止めなくてはならない現実がブーメランのように返ってくる。幸いなことに、そこへの熱い思いや執着は無かったので良かった。
ゲームをやってる時分から、
その様な具合なもんだから、途中で不良債権だろうが、
倒産だろうが何が起ころうがの
アトラクションも
「ふーん、あっそ」。
感情の浮き沈みの疑似体験にもならない、ただ友達とワイワイやりたいだけの子ども。
そんな想い出がふと浮かび、
その延長線上で私は、
残された余生で何ができるのか、試さずにはいられなかった。
さすがに、この歳になると
夢と現実の分別はできる。
サルベージ船で大海原に眠るお宝を探しに行くとか、
どこぞの王様の様にハーレムで「皆、良きに計らえよ」など、
これは
御贈答ギフトセットのパンフレットの写真をパラパラと見るようなもんで、そこで手が止まり見入る事はなく、パンフレットはポイっと畳む。それじゃないんだよと。実はこれ「夢を録画出来る装置」を作れぬものか?と子供の頃から密かに思い続けてるのは満更でもなく、
それは歳を重ねるにつれて、「私は早く生まれ過ぎて、それを作るのは、今の私ではない」のも理解出来てきた。
これが作れたら、地球上のあらゆる名誉ある賞にノミネートされるだろう。
そうなれば、
業界の頂上辺りから景色を眺められるだろう。
摩天楼のペントハウスで
ジャグジーにキューバ産の葉巻、葉巻は吸ったらダメなんだよな?肺に入れずに口の中で煙を転がす?んー、馴染みないのでようわからん。
結局、ハーレムと変わらぬ俗なまどろみ駅での途中停車やん。
ま、夢を録画出来たら面白い事なのに変わりはない。
自分の夢がシェアできる。
ノーギミック。
日頃の行動とイマジネーションが、ベッドに横になって目を瞑り、レム睡眠でシアターを構築するのだから。
ぶっ飛んでるを通り越して
支離滅裂のジェットコースター、それはそれでいい。
多分、次に生まれ変わって来た時代が、2200年以降ならば、このアイデアは卵から孵化して
飛び立っているだろう。
とまあ、とりあえず
この現世で、
やりたいこと、
やれることも制限なく
あるのは確かだ、
自分が、その氣にさえなれば。
ふと見る
預金通帳の残高も
人生と言う辺境地を這う
サバイバルアイテムの
ひとつであった。
我が身も 一つしか無く、
その時その時やれることも
ひとつしかない訳で
その辺は不器用なのか、
考え方のフォーマットが
容量良く割り振り出来ないのだ。
人任せより、自分で
出来る事はやりたい、
めんどくさいタイプ。
その、
めんどくささに美学があるとさえ思い込んでるのも嘘ではない。
子供の頃は町内近所だった行動範囲が、中学、高校となるにつれて移動手段も広がり、修学旅行で引率無しになって行く様に独自の世界観が形成され、井の中の蛙が大海を知り、動かせる世界が、セブンスター、キャビン、サムタイムを吸い比べ、タクティクスの匂いに花札、そんな放課後、6畳のたまり場から、7つの海をまたぐ 舞台はグローバルな振り幅に。大人になるにつれて、見えて来たのは、綺麗事だけではない、グレーの部分をどれだけ上手く消化し胃炎を起こさずにいられる図太さを備え、鍛えられているかを問われだす。
その辺は馬鹿なりにも、
肌で感じとっていた。
そのような社会、
組織の仕組みなんぞは
どうでもいいと投げやりになるつもりは無いが、興味向かない事に熱意を焚き付けるほど無駄以外何者でも無い。
世の中は
適材適所が居て、天上天下唯我独尊なのではないかとの持論に、天秤はぐっと傾く。
なんにせよ長く続けれること、
どれだけ、それに
時間を費やすかは
紛れもなく愛なのだ。
今迄は、SNSでの友人関係の様な、遠浅な海の様な愛、聞こえは良いが、うわべだけの、いわゆる、つき詰める事のない中途半端な、つまみ食いの様な愛ではあったが、これからは消去法で、より簡素化し、ボクサーの様に贅肉を削ぎ落としてなどと例えもあるが、そんな追い込んだソリッド感でも無いので、さしずめ、深く色濃い愛を育んでいく機会ではあった。

「はい、到着」
エンジンを切り、
粉雪舞う中、
砂利混じりの上を
ざっくざっくと
歩いて行く。
「寒かなぁ」
昨日の焚き火の跡には
糸のような煙がひょろひょろと出てる。
それだけで、ニヤリとなる。
火は生き物だから育むものだと思ってる。
根元のオキを掘り出し、
周りを見渡し、濡れてない
小さな枝、枯葉
木っ端を集めて
オキの上に小さな
ヤグラを組み、
フーッと何度か
息を吹き込むと、
パチパチと音を立てて煙が上がり、
濃ゆい紫色の煙にパッと火がついた。
いつも思うことがある。
この焚き火の動作は
祭り事に似てる。
太い薪にライターで火はつかない。
細い枝、枯葉を組んだ後に
徐々に太い薪をくべていく。
政治に関心はないが、
小枝や葉っぱを民だとすると
民を集めて組む、
着火し、徐々に太い薪を
くべていく。
それに、
散らばりバラバラだと
火はつかない。
まとめると大きなひとつの炎となる。
そういう事。
ちょうどその時に天狗がやってきた、「おはようございます」
天狗は同じ歳の行動を共にする
現場の親方でもある。
この天狗と言う男とは、
20年近い付き合いになる。
天狗と呼ぶのは出会った時に
そう名乗るからそう呼んでる。
名乗る由縁は諸処あるだろうが、
特に、それについて
尋ねた事は無かった。
2年前に、天狗の生まれ故郷の
熊本の阿蘇、西原村が震災で、
山は崩れ大多数の家屋が崩壊し
戦争でもあったかのような
風景だったのを覚えてる。
私が現地入りしたのは
1週間後位だったか、
天狗は震災後いち早く、
当時、農業、山師として
生活していた鳥取県から水やインスタント食品などを調達し、
4tユニックに積み込んで、
熊本に戻ってる途中に連絡が有り、私は近所の高速道路の吉志サービスエリアで待ち合わせをし、必要とされそうな物資を買い漁り、合流して天狗のトラックに積み込んだ。私は翌日も朝から、社食で仕事だったので託した。天狗の実家も崩れてはいたものの、彼は村内の支援を優先し走り回っていた。
山あいの集落に行き、安否確認、物資配達、御用聞きの様な事から始まり、片付け、住民らの仮設住宅への引越しの加勢、炊き出し、家屋の解体と、やれる事は率先してやる、気持ちの熱い男でもあったが、
いかんせん、被災地で鳥取ナンバーの車で動き回る故に他県ナンバーの不審者と噂されたりもしたが、彼自身から噂の煙が上がる所へ出向き、その不安を晴らせた。それからというもの、多方面から、加勢であったり、仕事としての依頼の声も届きだした。彼は、もともと造園であったり、土や木に携わる仕事を本業としていたので、まさに、得意とする見せどころでもあった。
また、
彼の親父さんから始まった
稼業の系譜。
親父さんは一代で財を築き、
議員を務めた事もある大地主で、その内の空いた土地を利用し、全国から集まる災害ボランティアへ、寝泊まり出来るテント村として「てんぐの森」と名付け開放したのだ。日が暮れると片付けから戻って来た皆と焚き火を囲んでそれぞれの活動報告をし、労いの言葉をかけあい、乾杯して、英気を養っていた。このひと時が何よりも皆を活気づけてたのではなかろうか。
ここに集まるボランティアは「チーム西原」と呼ばれるようになった。
一年と3カ月が経ち、仮設住宅の光景も昔からあったかの様に馴染み、まだまだ復旧させるべき所もあるが、国土交通省もこの先数年の試算と復旧計画の目処が立ち、緊急対策本部も看板を下ろした。
解体作業も少なくなり、
そろそろ建設へと移行しだした。僕らは天狗のオヤジさんが所有する土場で整理片付けをしながら「ここは西原村の土場〜 い🎵行ってみたいな中東ドバイ🎵」なんて歌ってた、矢先の梅雨に、局所的な大雨による九州北部豪雨によって福岡の杷木、朝倉、大分の日田辺りの筑後川水系が増水し、うねる龍の様に近隣を飲み込み、山は雨で緩み流れ崩れ甚大な被害をもたらし、亡くなられた方が何人もいた。天狗は、西原村が震災時に、この朝倉や日田からボランティアでやって来てくれ、一緒に活動してくれた人達の事を忘れてなかったし、忘れる訳も無い去年の事だ。
もう、この男がどうするのかは、
うすうすわかっていた。
「恩があるけん、行ってくる」
私はサラリーマンを辞めて間もなかったので、拘束されるものも無く、気にもなってたので
役立てるものならばと、一緒にボランティアとして参加した。
現地入りし、これまた自然の驚異を目の前にすると、震災とは違った、水害の凄まじさに言葉を失った。最初は日田の大鶴地区にある産直市場「沙羅」の側溝の蓋を開けて角スコップを持ち、照りつける太陽の下で泥出し、昼過ぎに、やけに騒がしいので、ふと見ると民主党の蓮舫が視察に来てた、私の隣のおじさんが「上のヘリコプターには安倍さんが乗っとらすらしい」私は「あぁ、そうですか」と手を止めなかった、名古屋から貸切バスでやって来られてた東海高校の演劇部の先生率いる皆さんをはじめとする老若男女、一人でも多いとホント助かるマンパワーの凄さよ、16時になると皆さんバスに戻って来られ、汚れを落としに近くの温泉に行き、日田焼きそばを食べて、地元の酒蔵で酒を買い、バスに戻りチンして起きたら名古屋に着いてるという、ボランティアツアーだと先生はおっしゃってた。ちなみにこの演劇部顧問の先生は、宝塚の男版を指揮し、演ってると話してくれた、部員が全員男なのだ。この演劇の評判は本場宝塚にも届き、それを見たあの宝塚のスターからも賞賛を受けたとか。面白い話しに、お疲れ様でしたとサヨナラの握手をして、私は天狗と合流し、次に赤谷という地区に向かった。赤谷川の上流で、川沿いの民家には土砂が流れ込んでおり、人海戦術で畳をはぐり出し、床下の泥出しをスコップとバケツリレーでひたすら行った。ここは、高級スモモの産地でもあり、貴楊という品種で、ある日の夕暮れ、落ちかけた実を捥いで食べたら甘さに驚いたほどだ。収穫時期だが、収穫どころじゃない。家の土砂出し片付けに追われて、収穫シーズンが終わると、農家の方は仰る。なんと苦渋の決断だろう。私は果物大好きなので、どうにか出来ぬかと、収穫するので、箱買いで売ってくれと頼むが、片付けをしてくれたので金は要らぬ持ってけと。そうはいかんので、一箱1500円で売ってもらい、その、旬の旨さを少しでも好きモノに届き、来シーズンに繋がってくれたらと思ったが、「自分の思いの熱量を押し付けてるのかな?」と感じるような、鈍い反応だった。帰りに実家に寄り、これこれ話すと、なんと私の親父がコレが大好物だと言うではないか、「全部くれ」と引き取ってくれた。知らんかったぞ、大好物だとは。しかし、それを知る事が出来たではないか。思いがけぬとこでの親子のデコボコ、テトリス4段スッキリ感。
夏の陽が照ると、なんとも言えぬ異臭、腐敗臭が入り混じり土砂で崩れたぐしゃぐしゃの周囲から蒸気が上る、それでもコツコツと瓦礫拾い、可燃物、鉄製品などの仕分け、少しずつでもやれば、片付いていく。場所を変えてイメージしてご覧、自分達の住む家の周りや海辺、砂浜でのビーチクリーンも同じ。意識の高い人達が増えれば、より一層、目に付くゴミは無くなるはず。
土砂の中から、住んでた方々の思い出の品が出てきては、しばし、手が止まり、一文字に結んだ口からは、ポロポロとその時の思い出が溢れていた。
もし、こんな状況にならずして、この写真を見たとしたら、これほど感情移入された言葉のトーンになってただろうか?と
自分に置き換えてみたりもした。
黙々と片付けている自分達をふと、
蟻のようにも思えた。
子供の頃、
地面に蟻の巣があって、
それを木の枝や、足で壊すと、
大量の蟻がまた、それを修復して行くあの様。
インディアンの言葉で、
「人間は山と蟻の間の生き物だ」
地球規模で見れば、人間も蟻同様。
大自然の驚異は、一瞬にして、
人間が築きあげたものや、
思い込みの今迄をひっくり返す。
「死んだらそれ迄よ、生きとる限り
何があろうとも
どげんかせないかんとだけん」
赤谷地区の片付けは
1週間ほどでひと段落したので、地区の人々に挨拶周りに行くと赤谷の米を30kg貰った。
我々は、お礼をし赤谷をあとにした。

東峰村の小学校体育館が
通称ボラセンと呼ばれる
ボランティアセンターで、
地域の対策本部が置かれ、
社会福祉協議会、役場の人が
日夜ミーティングを行い、
災害ボランティアに来られた人達を
登録しては、ヘルプのニーズがある場所に振り分けたり、全国から送られてきた食料物資をストックし、被災された人達やボランティアに配られる所だ。
毎朝7時半到着を目処に車で自宅の門司港から2時間半かけて通った。天狗は4tユニックに軽バンを親子亀の様にして載せて、軽バンには4匹の琉球犬が乗っている。
車中泊スタイルで現地でキャンプ生活。
赤谷の次の現場は
JR日田彦山線の宝珠山駅を
川向こうに挟んだ、
レトロな感じが漂うモダンな一軒家の泥出し、家財の片付けだった。
出てくる家具や楽器、コレクションがまた、味のあるものが多く、マリリンモンローが泡に包まれてそうな未開封の猫足のバスタブや、テクニクスのターンテーブル、ピアノ、趣きの有る品々、真鍮のトッテなど、気になるものばかりで、思わず、家主さんに話しを聞いてみたら、建築家の先生だった。たくさんの70年代
昭和歌謡や、洋物ジャズのEP、LPが泥まみれであり、「どうしましょうか?」と尋ねると「どうしようもないから捨てる」と言われ、私は前のめりになり「貰っていいですか?」と聞くと「どうぞ」
私はダンボールにそれらを入れて、自分の車に積んだ。
後に自宅に持ち帰り、泥まみれでタイトルジャケットがレコードに貼り付いたカビ臭い様なレコード達をタライに張った水に浸けて一枚ずつスポンジで洗った。
乾くとレコードに針を落とし、
大まかにジャンル分けして
新たに内袋に入れ着替えさせて箱に並べた。それを地元のビアガーデンイベントに持って行きBGMとして流し、気に入ったレコードがあれば売って義援金として、建築家の先生に渡したかったが、これもなかなかね、結果に繋げるには私の力不足だったが、初めて聞いた 桂川ヨコ の 「激情」は私の心を捉えて離さず、いつでも聞けるようにと、スタメンベンチ入りした一枚となった。
これは縁以外に何ものでも無い事を証明するエピソードのひとつであろう。私がボランティアに行ってなけれは出会う事も無く、このレコードは針を落とされる事なくゴミ捨て場に行き、燃やされて煙となるだけなのだから。
また、
このお宅の隣が神社で、
こちらの神社も地域の歴史が色濃く残る場所、相撲の土俵もあり、天狗と2人で四股を踏み奉納した。
私の経験では、田舎の歴史ある神社では土俵があるのを度々目にし、年の行事で子供達が相撲を取っていたであろう光景が目に浮かぶ。スマホでコミュニケーションを取り、肌を合わせる事の少なくなってきた現代では継承してほしい、すべき良き習わしなのではないだろうか。
この辺りが、ひと段落したいつか、ここで、集まって大人も子供も相撲大会したいなぁとか、話すと、地元の人は苦笑いしながら、大人がすると、あとで、ケンカなりゃせんねと。考えてもみなかったが、勝負事なので、負けた方は、スッキリせずに残るんやろか?とか、そうなりゃそうなったで、それも一興かなと、完全に他人事目線で申し訳ないが。
そうしているうちに、
東峰村には
岩屋キャンプ場というのが、被災地の山手にあって、天狗は以前にも、ここのキャンプ場を何度か訪れていたので、山間部のこの地が、どんな状況なのかを片付けの合間に見に行ってた。キャンプ場は奇跡的に被害はなかったが、一つ隣の谷では、山がエグれ、5mクラスの岩がゴロゴロと道路や家屋に転がっており、家屋は流され車は跡形無く潰れ、15mは有る杉の木が家を串刺しにし、無情にも亡くなられた方々がいた。自衛隊のテント設営がされ、仮設のテント風呂では地元の方々が汚れを落とされ、災害救援車両のサラマンダーという、ムカデの装甲車のようなのも派遣され、救助活動にあたっていたシーンをニュースで流れてたのを見た方々も少なくないのではないだろうか。ボランティアどころじゃない。危険地域の全面立入禁止。けれども、被災された方々は、市街地の方々と同じく、あの時のまんまだ。お役所が動く復旧の順序はまず、国道、県道、市道、農道と言った交通量の多いところから、手をつけていくので、同じ被災地とは言え、同時進行にやらない限り、山間部と市街地では、取り掛かりに時間差が生じ出す。当然、ボラセンも危険地域にボランティアを派遣などしない。そんな状況の中でもディープな奥地の現場へ片付けに行く、タフなハード系と呼ばれるボランティアチームも居るようで、2組ほどのチームが、この現場に訪れ、住民の方々と話されたが、次に来る事無く手をつける事もなかったと言う。ハード過ぎたのだ。そのような状況を天狗から聞いた時に、「この男、行くつもりだな」と感じ、天狗は話しを続けた。そこのキャンプ場はログハウスのコテージが何棟もあり、
管理事務所に問い合わせ、
状況が状況なので今シーズンは行楽客の見込みがないだろう、
格安の月極めで
賃貸してもらえるようにならないかと伺ってみたところ、
オッケーを頂きましたと言う。
「決めていたのだ」
コテージが生活の場所になった。
これで、往復5時間の移動は無くなったので、いくらか気分的にもゆとりが出てきた。
そこから毎朝、ボラセンに通っていると、居る居る「チーム西原」の皆さん、ボランティア登録も「チーム西原」の専用コーナーが出来てたりと、片付けに行っても、熊本震災で慣らしてる動きは、やっぱ仕事が早い。結束力のある頼もしい皆さんだ。
そんな頼もしい皆さんを始め、
遠方から来られてる方々は
近くにある道の駅にテントを張ったり、車中泊でボランティアに通ってた。チーム西原の方々に岩屋キャンプ場の話しをすると引越して来られ拠点となった。だいたいレギュラー陣5人プラスアルファでの共同生活になり、食生活は私が得意とするので朝昼、晩は拾ってきた赤提灯をコテージの軒先にぶら下げて酒豪達のアテ作りを担当した。
ここでも、西原村の「てんぐの森」と同じように、それぞれの現場の進行状況を報告し合ってた。
被災地に来られる
ボランティアには
色々なボランティアの方々が居て、
炊き出しに来られる方も居た。
それは前もって、ボラセンに知らせて来るので
当日の朝、
ボラセンにいくと
何時にどんな炊き出しが来られるのかを
貼り出されていた。
これは、非常食、インスタント食品で腹を満たしてる
人たちや、もちろん被災地の方々にも、私にも楽しみのイベントだったので、
欠かさずに足が向かっていた。
真夏日のカキ氷の冷たさと来たら、日影の無いところでの片付けだったのでとてもありがたく、冷たさでキーンと頭に来るのを待ちわびてたような気分でもあった。
この岩屋地区というのは
名水100選にも選ばれてる様な地域で福岡県産米の特A米は
この地域から収穫された物でもあった。道理で米が美味かったし、ある朝、天狗と山伏修行よろしく、岩屋神社のある山に登り峰から見下ろした山あいの岩屋地区の棚田風景、それは美しいものであった。水の美味い所は作物が美味い。そこが温泉地で有れば私は移住さえしてもいいと考える、余生のテーマでもあるので、その辺のレーダーはどこに行っても常に張り巡らせていた。
しかし、
田舎の事情知らず、理想を並べるだけならなんとでも言える。
実際、今、水の美味いこの地域の川が水害で、これだけの被害に遭われたのを見てしまった以上、ウワベだけでは無く、その逆、自然の驚異によるこの様な状態も考慮すべき心得に濃い文字で書き込まれた。また起きるかもしれないし、起きないかもしれない。何百年前に起こってて、先人が目印にと碑を残してても時と共に薄れて忘れられてたりする事もしばしば。田舎によく見られる3世代同居の大家族とかになると、自然と語り部的な存在を祖父母がやるので口伝えでも継承されていく事が少なくないと思うが、町の核家族化状態ではほぼ、無いに等しくなる。
横、近隣の付き合いが煩わしくなるのか、個々になっていく風潮だ。
田舎を知らない人間が思い描く田舎と、田舎に住んで四季を過ごし風土に交わり知る田舎。思ってる以上に、簡単でも楽でも無い、自分の体が資本で、体を動かす事から始まるからだ。そこにあるのは「風土とのつきあい」

岩屋地区のほぼ一番上辺りになると思われる、家屋の片付けを
行ってると、家主さんから自主解体をやるとの旨を天狗はお願いされ、仕事として請けた。
私らはボラセンに
「チーム西原」として登録し、天狗の後方支援に付き片付けをやる。
業者として入った天狗は、
役所とのやり取りもこなさなくてはならなかったが、
熊本震災でノウハウは理解してたので、足踏みすることも無く従事していた。
ここで、
被災地における家屋の解体で、
自主解体と公費解体が有り、
公費解体は文字通りの親方日の丸が費用を負担する。
自主解体は被災された度合いにより、役所が負担費用の割合を決める。全壊、半壊と様々。
その辺りの詳細を知りたい方は
調べて見られるのもいいかと思われます。
全壊と言ってもおかしくない状態でも、役所の審査基準が有り、かなりしょっぱい判断により、泣き寝入りすることも出来ず、時の止まった家屋、肩を落とした家主さん達を何人か見た。
自主解体に話しを戻すと、
岩屋地区のこちらの家屋は全壊で、家の上に乗用車が乗ってたり、家の中には大木が串刺しと言う状態だった。当初、これを見た時、どこから手を付けて行くんやろか?と、呆然とした感覚を覚えてる。
それでも、手前から少しずつ
やり出すと
一連の段取りと、埋まってた家屋の全貌も見えてきだした。
天狗も仕事として請けたら、
重機、ダンプを投入し、
「チーム西原」の食住を
面倒を見たり、作業員として働きたいと言う人には賃金を渡してた。
私は、この頃くらいから
ボラセンに通ってると
大きなグランドの駐車場に
片付けで機材を使ってくださいと企業様がお貸しくださり、停めっぱなしの重機が有り、あまり動いてる気配もなく、思ったのが、角スコップで泥を掻き出すより、あの重機のひと掻き。
もちろんの仕事量イコール、早くスッキリする。
と言う事は。私は、サラリーマンを辞めて失業保険でやりくりしてたので、ハローワークに問い合わせると重機の技能訓練を受けれるとの事なので、早速申し込み、2日間の講習を受け資格を取得し、翌日から乗れる状況を見つけて乗り、片付けだした。
ボランティアで来られる方は
慈愛であり個性の強い方が多く、それは、共有する時間の中で互いを知る、現場は人間交差点でもあった。
全国津々浦々、志だけで被災地支援に来られる訳で、
様々な視点の強い思いを持っておられる。
単独作業がタイプの人、チーム作業が上手な人、みんな共通するのは「早く被災地を片付けてスッキリさせてあげたい」
夕方、風呂に入ってから、酒が入りだすと、それぞれの思いが飛び交いだす。ポジティブ、建設的なディスカッションで有れば多いに結構だが、中には脱線しだし、その場に居ない一個人に対してのボヤキの様な「聞いてて面白くない、変な酒の酔いになる話し」も
あったりするのも否めない。
多様性と言う人間社会。
私はそれを早いうちに察知すると「今日はこの辺で私は仕舞えます」と席を立ち寝床で横になる。その席を立つ機会を逃す時もなきにしもあらずで、とあるそんな時の事、歳が一回り程上の先輩ボランティア達と一緒だったが、どうも、酒の酔いが変な感じになってきた。そこで、私は無言で、着てた衣服を丁寧に一枚ずつその場で脱いで畳んでは、素裸になり呑んでた。笑い堪える先輩も居れば、苦笑いする先輩もいる。「あーめんどくせぇ話しはヤダね、夜風が気持ちいいや」と酒を飲み干す。
翌日、完全に二日酔い。
苦笑いの先輩と
言葉を交わす事無かったが、
先輩はボランティア仲間に
昨夜の珍事を話し流し、
ボランティア同士で
物議を醸してた。
話しは遠回りの寄り道経由で
尾ひれ、金魚の糞までついて
私の耳に入ってきた。
「裸になるし、落書きもある、過去にどこぞの施設に入ってたような輩が、ボランティアとしてどうなのか?」
などと言う内容だったと
天狗から聞いた。
私は大笑いした。
「人の過去や落書きは、被災地でのボランティア片付けの邪魔にならんやろ?論外、男なら、他所でこぼさずに言いたいことは面と向かって本人に言わなつまらん、とピシャリ。
「なんにせよ、裸になるのは
無しでお願いしますね」と
天狗は笑い、
「わかりました、裸になりません」と私、
ボランティア は無垢であるべき?その偏った理想像に違和感を感じ、寝言は寝て言ってくれぬかとか、なんならそのまま起きて来なくていいですよと、そのぶんキッチリ片付けときますので、ご安心をと。
ごめんなさいね。
路上あがりのボンクラです。
振り幅ある定規で測っております。お使いになられるならばお貸ししましょう。

そして、八月お盆も過ぎ、
赤トンボがやんやん飛んでる。
だいぶんスッキリと目処がついてきた。
そうこうしてると、
解体業者の現場にボランティアが入って、片付けるのは
いかがなものか?などとボラセン内で議論になってた。
現場の状況が落ち着いてくると
視野が広がって、いろいろな角度で物事を見てはチェックをしだすもので、
挙げ句の果てには「チーム西原」をボランティアとして受け入れられないとも言いだし、
お金が動く現場にボランティア。言葉の並びだけで、それを
理解しようとすれば、
ズレと温度差が生じだすので、
これを論じるつもりは無いが
行動の根底にあるテーマであり
気持ちの向かう方向は
「被災地を早くきれいに片付けたい」
私は、これに挙手したひとり。
みんなそうじゃなかったの?
そのモヤモヤした議論に相乗り、ボランティア同士の横のネットワークでまた流れだしたのが「天狗の過去の出来事」
始まりました、
その内容がまた、天狗が30代迄過ごした西原村でのネガティヴキャンペーンであった。蒸し返しては、現在に至るまで進行形で足を引っ張ってる?と
捉えられるような内容であった。
それとこれ、
関係あるの?と
言いたくなるような、
町内の奥さん方が
ゴミ出しついでの
井戸端会議レベル。
私が思うに、それは、
笑える田舎の豪傑男伝説に分類される内容で、宮下あきらの漫画的な。これまた振り幅の広いテーマとウィットに富んだモノだった。良い行いは中々広まらないが、つまらぬ行いや噂話は回覧板で回ってるのか、または挨拶がわりに「あの人は」と、会う人会う人で憶測と脚色なされていく田舎の狭さ。これは、流石に煩わしい。天狗が村を出て10数年、その10数年はシャブで刑務所入ってたとか、そもそもシャブで10年とかあり得ないからね。被害者居ないし。人殺しても10年入らずして出てきてる人達いるのに。それを聞いた私はまた大笑いした。
まさに、私の時の、
あの素裸同様、
「ボランティアたるものは」
チーム西原の皆さんは、
岩屋地区に限らず、
現在進行形で復旧の続く西原村でも
ボランティアのニーズがあれば
行かれて作業こなされる。
その際、西原村のネイティブピープル達から、天狗の過去を聞かされる。それも、事実無根の空想脚色。垢抜けない三流ゴシップレベル。田舎の狭さと噂話の浸透力の高さ。
それを真に受けるみなさん。
同じ釜の飯食べて、片付けして、風呂入って酒飲んで一緒に
過ごし、あなた方が肌で感じたままの、それが答えなのでは無いだろうかと思ったが。
人それぞれ、他人に対して様々な線を引いたり引かれたり。
来るもの拒まず去る者追わず。叩けば埃は出るけれど、
その埃をも払う誇りを持ってやっとりますとは、天狗の口上。
それは言葉要らずとも
進行形の行動で判断するのが一番かと。お天道様は見てらっしゃる。それでいいじゃないですか。ただ、その様な噂話でいちいち止まってる訳にはいかないのです。
目の前にまだまだ瓦礫がありますからね。
ねたみしがらみやっかみ大っ嫌い。
後ろめたさか、腫れ物のような心当たりか、他人の言葉に左右され、人目を気にして、または避けて世間を歩く人も居るでしょう。
私は正面を向いて歩きます今迄通り。あなたが尻出しゃ私は素裸、地べた、下から行きます笑いながら。
その様な風向きの中、コテージでの生活は私と天狗と犬達との日々になって、9月になると棚田のいなほも実り垂れ、稲刈りが始まり、私も鎌を持ち稲刈りの手伝いに参加。今でこそ、コンバインなどとマシンがあるけれど、いやはや昔は手刈り、農家家族親戚お集まりでの一大行事ですよ。やおない作業に大変さ、しっかり伝わりました。農家休みなし、天気、自然との共同作業、腰据えんとですね。初めての良き経験させて頂きました。田舎の収穫祭の意味合いも合点、深み増します。こりゃ、米も美味いはず。
一段落するまもなく、
そこからは
どこの農家もせっせと
年越し、正月に向けての
支度に。
我々もコテージを片付け
道具諸々を西原村へと運搬、
終えると、西原村での片付け をしながら、年末近くなると、
どうやら、朝倉市の山の奥地ではまだまだ手付かずの状態が続く地域が有ると情報が入り、聞いたからにはほっとけないのは周知の通り。衛星写真で確認して、翌日には、現地へと天狗は出向いた。
それから年末まで
私は西原村の土場で片付け
天狗は朝倉の黒川地区現場で
お亡くなりになられた方の
形見を探してくれぬか?との
要望に応えてやりたいと
土砂と岩で潰れた家から
依頼主さんの娘さんの形見、
それは、娘さんからお父さんに
贈られてた写真付きの焼酎、
一升瓶。かなり難しい依頼だと私は思った。
12/30だった。
天狗、この男、掘り出しおった!しかも割れてなく写真もそのまま!あり得ないに等しいミラクル!この時の写真がどこぞの新聞に写真付きで載ってた。
依頼主は涙涙、大喜び。
引き続き片付けを頼むと。
現場から戻って来た天狗から聞き、その辺りはまだまだ
かなり酷い状態のままだと話しそして
その顔には、
いつもの使命感が見れた。
「年明けてから行くけど、どがんする?」
どがんする?って、
乗ってる船のクルーに
どうする?は無かろ
「じゃ、髭剃って行かな」
「はい?髭関係あるの?(私はサラリーマンを辞めてから、気が済むまで伸ばそうと伸ばし続けてた)」
「田舎の人たちは、よそ者に敏感だけんね」
「わかった、今回だけやけん、もう二度と自分の意思以外では剃らんけん」

年明けて、早朝から
菊池にある
しすいラドン温泉に行き
髭を剃る。
スッキリするけど寒い。

「行こか」

前回の赤村の近くを通り
更に山奥、川沿い、道が崩れ落ちてる、
「この先に人住んでるの?」
それくらい壮絶な光景が
目の前に広がる。
アップダウン抜けると
看板には
『ようこそ
蛍の里 くろかわ」

「うわ、こんな山あいに
集落があるね、商店も無ければコンビニも無いやん、車が無い時代とかいろいろ大変だったろうね、先代様たちに ニャムニャム」

「現場はここやけん、
寝所は山を降りた農家の使ってない家で、前回まで、ボランティアの人たちが使ってたとこを借りたけん」
「オッケー」
原鶴温泉、果樹園、山に上がればダム、よその土地に来ると、これまた目にする全てが新鮮。

毎朝6時前に起きたら
現場で作業する皆の昼飯、弁当作り、朝飯を済ませると支度をし、現場まで約30分の通勤。
7時半には到着して、その日の流れを天狗が話す。1月の山あいは雪が降るとダンプが滑り、ガラを運ぶことが出来ず、そのような時は、家財道具や農機具を鉄、可燃物と仕分けていた。ある雪の日には、この黒川地区で、1人も人を見ることも無く、天狗と2人で作業してると、まるでゴーストタウンのようだった。
ある程度、地域の区画、
ガラの仮置き場が決まって来たところで、サトシ(重機、特殊車両とほぼその辺りの免許を全て持ってる酒豪でバイク乗りの友人)が、数ヶ月前に
クレーン車の先(高さ15m位)から落下し、着地で足を着いたら複雑骨折。で、ようやくビッコ引きながらリハビリしてるとの話しを聞いたので、現場に2台あるユンボの一台に乗って、リハビリがてらに手伝い来ない?と話すと、来るというので
出張セットを持ってビッコ引くサトシを迎えに行き、合宿のような生活が始まった。
週末になれば、各地からのボランティアの方々が来られて、土砂に埋もれた山がみるみるうちに片付いていった。
この辺りは
果樹園が盛んで有名たが
園の中も水害でぐちゃぐちゃ、
それでも、少しずつでも、片付けていくと、ね。
風景が変わってくる。
とにかくコツコツやる。
やってると、地元の人たちと
挨拶をかわし話しだす。
ちょくちょくと、山で獲れた鹿、猪を軽トラの荷台に積んで
持って来られてはくれるから、
それを、捌いて料理もする。
少しずつ、風土がわかってきたら、オフの日は散策にふらふらと犬たち連れて散歩した。
朝倉のインターから近くの農家さんの家を借りてたので
その辺りの田畑を抜けてくと
小高い山、それは、古墳だった。いくつかの古墳があり、昔はそのような地域性、歴史を知ると深みが増し、栄えてたのだろうと思いを馳せる。
黒川地区に行けば、山あいの廃校になった小学校をアートミュージアムとして運営されてる
共星の里
黒川インミュージアム
がある。
私はアートへの
趣向もあるので
とても興味深いスポットでして、オブジェも見てほしい。
こちらを運営されてる先生、私は先生と呼んでる「柳 先生」
長きに渡る渡米生活、
アーティスト活動、
世界の様々なアーティストとも親交のある人脈の凄い(共星の里へ招いてイベントなども行っている、シンセサイザー奏者の喜太郎さんとも親交深く、一緒にツアーを周り美術を担当されてたりもする)方で
この黒川の地に情熱を注がれている。気さくな方で、いつかの事だが、あの、映画ミニヨンズの原作者?メインプロダクトチームの方?が先生を訪ねて
お忍びで黒川地区の片付けボランティアに来られてた。
通訳の方と2人で。
片付けだけではなく
どうせ来るならと、
子どもたち、
地域の方を元気づけにと
ミュージアムで
地域の子ども、
親御さんも招いての
ミニヨンズの
トークディスカッションみたいなのもされてた。
この時は、ミュージアムの駐車場では子どもたちの声が
キャッキャして、微笑ましさを
感じたひとときでもあった。
近所で片付けてた私らは
それを聞きつけて
ミニヨンズなど見たことすら無いのに、周りを見渡して、キレイない段ボールを台紙にし、
諸々も終わり、ゆっくりされてた、その氏に片言の英語で「娘にサインしてほしい」と頼んだら心よく頂けた。感謝

そう、
私には低学年の娘がいて
母と一緒に暮らしてる。
子どもが3歳の頃、
離婚したのだけど、
この離婚騒動について書くべきかどうか考えたよ。
相手ありきの話しだしね、
当時はもうホント大変だった。
泥沼の親権争いでぐっちゃぐちゃ。相手のあら探しを切り口に
自分を優位に組み立てていく弁護士の筋書き。醜く惨めな行為。この時期は笑いなんか寄り付かない、目は釣り上がり、相手は敵くらいのモードなものだから。もうね、四六時中涙が溢れて涙で溺れそうなくらい、寝れない、疲労困憊、飯食えない、首は細くなり憔悴する。
元は同じ屋根の下の家族が、ですよ。
調停はストレス以外何ものでもない。
今後、同じような境遇の方々に
何かしらの参考になればと思い記しますが、
子どもにとって、
父母はこの世にひとりずつしかいない、まず、それを理解してほしい。子どもからすれば、両親がいがみあい、憎しみの炎を燃やしてる。世の中には、様々なケースがあるのもわかりますが今は、そのケースを持ち込まないで、私のケースを知ってもらえたらなと。
はい、
子どもに罪など微塵もある訳がない。
大人の都合でしかない訳です。
子どもに対して愛が無ければ
それまでだけど、愛があるから固執してる自分がいて、調停などと言うすったもんだに参戦してる。
しかも、弁護士にお金払って。
調停になったのも
正気を失った私が離婚届けを勝手に書いて(公文書偽造)
親権を自分にしてた事が要点となった。もうアウト。この時点でダメな大人。今でこそ、そう思うけど、当時はそれを厭わない判断能力だった。
それでも、なんとか、子どもを育てさせてくださいと懇願しても、
家庭裁判所が下した判断は
母親に親権をと。
上告しますか?と弁護士。
お願いしますと私。
数ヶ月後、
高等裁判所から連絡で
母親を親権者。
弁護士から
「次は最高裁、どうしますか?」

新年を迎えた後の連絡だった。
その年の春から、
子供は小学校に上がる。

「いや、終わりにしましょう、
お世話になりました、
ありがとうございました」

長かった調停も終わった。
親権問題について随分と
調べて勉強した。
ハーグ条約(親権について協議し取り決められてる国際的な条約)にしても、それは日本では適応されない、日本は独自の親権のシステムがあり、そのシステムはとても不憫?堅苦しく偏った取り決めでしかないと言う印象を受けた。このシステムで泣かされた、
親権者になれなかった親は、どれだけ居る事だろう。中には生きる気力さえ失って命絶たれた人も居ると記事を目にした。死んじゃダメだよ。残された子どもは大きくなって
それをどう受け止めればいい?
そこまで、命かけれるほど
子どもを愛してるならば
生きろよ、生きて、向き合っていく姿を見せるべきだろ。
いずれにせよ、日本の親権問題は、もっと協議して改善すべき点が多くあると思ったね。

そして、
私の
子どもは
母親と一緒に暮らしてる。
母親は
仕事しながら、
子供の面倒見てて、
それだけでも大変なのに、
調停と言う厄介な爆弾に
神経をすり減らしながら
過ごさなくてはならない。
ナーバスにならずにいられない
母親と一緒に居る子どもは
母親の氣を一番身近に感じてる筈。
ノーグッド。
小学校に上がれば
学んで
言葉理解し、
雰囲気、大人の顔色を見て
子どもは、氣を使いだす。
それは、
本来の子どもの姿ではないし、
私はそれを全く望んでない。
環境が全てとは言わないが
とても大事だよ。
だから、もう終わり。

争い事に時間費やすより
子ども、一緒にいる母親に
寄せる思いやりの
気持ちに費やすべきだった。
これに気づいたのは今だけど
気づいて良かった。むしろ
気付くための流れだったんだろう。

私はその時、元嫁に
「色々あったけど、子どもの
お手本になるよに、しっかりと
おねがいします」と頼んだ。
その時から私は
今からこの先の人生で
起こる事象、
目の前の事を
受け入れてみようと決めた。
ノーアイデアノープランと言う意味ではなくてね。
来るもの拒まずじゃないけどさ。
すると、何だか、
例えるならば
小さな川につっかえてた
せき止めてた石がゴロンと
転がっていき、せき止められ、
溜まって澱んでた水が流れだしたように、
私の今も、流れだした。
以来、毎月、定期的に子どもと過ごす時間は何よりも大切にしている。
私は
好きな様に生きて来たから
いつあの世に行ったとしてもいいけど、子どもはこの世に生まれてきて、まだ人間6年生。
人間の先輩として、親として
教えてあげれる事は伝承してやりたいだけ。お節介かもだけどね。私が子供に興味のない人間だったら、こんな風になって無いけど、また、子供達と波長が合うと言うか、笑、思い出してほしい、自分達が子どもの頃、近所に面白いおじさん居なかった?遊んでくれる、教えてくれる面白いおじさん。私は未だに忘れられないおじさん居る。
その人、ニイちゃんの名前は
ウンパって言って、なぜウンパかは、オシで喋れないんだ。
だから、声にだすと「パッパ、ウン、パ、パ」だからウンパ。
優しい目でね。
風呂無しのアパートに住んでた私をよく、アパート前の広場で遊んでくれた。言葉喋れなくても伝わってたよ。グッドバイブス。そのウンパを私自身に投影してたりもするよ。中高生なると、ウンパとボール遊びより、先輩との不良遊びに熱を入れてた。
そうするうちにウンパは
思い出の中の人になった。
子どもは宝だよ。
今でこそ思うから、
子どもたちへの
グッドバイブスであり
ダメな事にはコラ!っと
言える大人でいる事を
心がけてる。
たまに、
「それ違う気がする」と
近所の子供達に
言われたりすると、
「お前、気づいたな
それを待ってたぞ」なんて。
とまあ、
子ども達と私との関係。
あとね、
子どもとは
離れて暮らしてるけど、
世の中、
いろいろな家族のカタチが
あると思うし、
あっていいと思う。
どうやって、
向き合ってるか、
いわゆるそれが
愛だと思うからね。
この心境になれたのも
いろいろな経験を
経たからなんだ。
ひとつ言えるのは
これからの私の人生に
争い事が入り込む余地は
1mmも無いって事さ。
これで単位を取得したからね。
修了検定通過って事で。
経験値アップ。

そんな訳だから、
子どもが休みの時、
私がいる被災地に連れて行き
見せて、
こんな仕事してるよと、
一緒にガレキ片付けから
ボランティアのみなさんと
ご飯たべたり、
子どもなりに経験して
何かを感じてくれたらとの
思いのまま。

1ヶ月、2ヶ月と経過し
来た当初は雪の中だったのが、
黒川地区にも春は訪れ
梅桃桜と咲き、つくし、クレソン、菜の花、山野草、薪ストーブの活躍もそろそろ終わり、家屋崩れた風景も、すっきりとなって来た5月前には、ひと段落ついたので、私は天狗に礼を言い、黒川地区でお世話になった方々へ挨拶をして
門司港に引き上げた。

さて、
門司港戻って
か細い預金は、
無いものとして、
今から
何をしよう?

サラリーマン辞めてからの
1年ちょい、
被災地での活動をして
片付ける
キレイになる
みなさん喜んでくれる。
あ!
片付け、何でも屋、
便利屋から
始めよう‼️

草刈り機を持って
まずは、近所町内の
散歩道、山道の草刈りを
実演販売よろしく
やりだすと、近所のおばちゃん達が「あんな何しよるん?」と
言うので
「便利屋を始めたけん、まずは草刈りの実演販売のボランティアしよる」

口で説明するより
行動で示す方が
一番わかりやすいと
思うからね。

便利屋の名刺作って配っての
営業。
えっと、便利屋の名前、何にしようかなぁ、、
あ、nice time、
4:40ナイスタイムにしよう。
4:40は私がヨシオだから
語呂合わせの、
420にも通じるスロースターター、
江頭2:50も好きだし
それにも掛けてと、
4:40は朝晩と
世界中の皆んな目にする
数字の並びだし、
それ見るたびに
ナイスタイムを思い出してくれたらサブリミナル効果だぞ。
はい、スタンプをカードに
押してと。
地方のハイシーズンの加勢も
受け付けますよーと
営業営業、あの人この人に
連絡してみての、
「仕事無いですかー?」
んーなかなか難しいなぁ。
「もしもーし、久しぶり、
便利屋始めたんだけど、なんか仕事無い?、もちろん、有償で、え?朝倉である?今まで、行ってたよ朝倉、トヨマンとこの石屋さん?はいね、あと、ひとつはどこ? え? ドバイ?
中東の? ちょいちょい、朝倉とドバイのその振り幅、すげーな、で、何の仕事?料理仕事?え?ラーメン作るの?豚由来はNOだから鶏白湯だって? その話し詳しく聞かせて下さいますか」

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