【169】哲学史研究の実用的価値(の一部):「意志の弱さ」に関する古典的議論

哲学(史)がどこまで役に立つかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話ですが、それでも私がどのくらい哲学史研究の価値などというフィクショナルな対象を信じていたかと言うとこれは確信を持って言えますが歴史研究は人間の価値そのもので、研究それ自体に価値があるのです。

……などと「涼宮ハルヒ」シリーズ冒頭の文言を真似ても仕方ないのですが、それはそれとして、哲学史研究には、上にみたような内在的価値ばかりではなく、実用的な価値がありうる、ということを、最近読んだ本にかこつけて見てみたいと思います。

具体的に見る問題は、「意志の弱さ」の概念です。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。

※「【164】弘法の筆に馴れよ!」が「先週特にスキを集めた#ライフスタイル の記事」に選ばれたようです。ありがとうございます。


或る種論理的にものを考える力をつけたいなら、数学でよいのです。「論理的」ということで何を想定しているかも明確でないとすれば「ロジカルシンキング」の意味も小さいと思われますが、それはともかく、わざわざ時間と精神力を投下して哲学テクストなんかを読んだり、哲学史上の知識を得たりする必要は薄いようでもあります。

哲学史はまあ話のネタになるのでしょうし、アリストテレスとかカントとか言っておけばドヤ顔できるから、という理由で学ぶのもありでしょう。そういう目的ならコスパが悪いと思いますが、ありといえばありです。

テクストを通して、つまり「自分の頭で考える」などという聞こえの良い態度に傾斜せず、歴史的に哲学を学ぶことの実践的意味のひとつは、それぞれのテクストに固有の文脈のなかで、問題を切り分けて考えてゆく技術とその実践のありようを顕示してくれる、という点にあるように思われます。

特にいわゆる哲学という分野で扱われる問題は、人間そのものに関わることが多いため、(文脈が変わるとはいえ)時代が転じても割りと通用することが多く、私たちのありかたについて様々な意味での指針を与えてくれるという意味もあるでしょう。これもまた哲学史のひとつの実践的価値です。


特に具体例に即して見るのであれば、それこそ抽象論よりも、実践的価値は見えやすいことでしょう。

……というわけで、最近読んだ実に良い哲学史の研究書から発して、書いてみます。

もちろん、哲学史に傾斜するのは、私が「自分の頭で考える」などということよりも、歴史を踏まえながらテキストを読んでいくことにこそ、重要な価値と意義があると考えているからです。

見る本は、次のものです。R.Saarinen, Weakness of the Will in Medieval Thought. From Augustine to Buridan, Leiden, Brill, 1994.


「意志の弱さ」という概念があります。akrasiaという言葉からして、これがギリシャ語起源であるということは皆さんにもお分かりかもしれませんが、これが哲学史の中に表だったかたちで出てくるのは、アリストテレス『ニコマコス倫理学』第7巻においてのことです。

kratosが「力」や「頑強さ」を意味し、これが形容詞化したkratesに否定辞(a-)がついて名詞化したのが、akrasia「弱さ」だということです。これが、もっぱら意志に関して言われる、ということです。

「意志の弱さ」が現れるのは、どういう状況でしょうか。

我々においてもよくあることだと思いますが、何をすればいいか分かっているけれどもできない、あるいは別のことをしてしまう、ということがあるわけですね。

例えば、試験前に掃除を初めてしまうという「定番」の振る舞いは、私には経験がないのでどこまで一般的かはわかりませんが、或る種典型的な「意志の弱さ」の表れと言えるかもしれません。

例えば、仕事に役に立つ、あるいは自分の将来に役に立つような本を読んだり勉強したりしなくてはならないし、そうしたいはずなのに、YouTubeに2時間叩き込んでしまったりすることがあるかもしれません。

例えば、節約しなくてはならないのに自炊する気が起きない、というのもその例でしょうね。

「すべきである(ように見える)はずのことをしない(できない))」というところに、「意志の弱さ」を見出す発想があり、こうした現象がどのように説明されるかということについてある時期の哲学者たちは心血を注いでいました。


一般論めいたことを言うなら、今さらっと「すべきである(ように見える)はずのことをしない(できない))」などと書いたように、カッコがついたりつかなかったりすることから察していただけるかもしれませんが、事象に対する確たる説明の仕方・確たる結論というものは出しようがありません。

心の中で——という言い方は私の哲学的態度として好むところではありませんが——起きていることというのは、直接的に言語で語ることはできないものです。いくら自然科学のようなものが発達したからといって、脳で起きていることについて読み取れるのは、所詮は脳波の波形などの物理状態であって、何が主体において感覚されているかということは絶対に読み取れません。

赤いリンゴを見ている主体の脳波をどれだけたずねてみても、赤色に随伴する波形が見えるかもしれないだけで、赤色それ自体もみずみずしい光沢も何も出てこないわけです。(クオリアの話だ、と言えばわかる方にはわかるでしょう。)

私たちの行動の背景にある心の動きは、いくら本人に説明させてみても、説明しきれない。それでも説明したい。だからこそ、死力をつくして、各人が持つ背景を活かして、説得力のある説明を考案するのです。

これはもはや、通常の自然科学の領域ではありません。そして哲学ないしは思想の領域であるということは、とりもなおさず確たる答えが出ないことがおおいに許容される、ということでもあるのです。

哲学はもちろん、ものごとを根本的に疑うことのできるものですが、根本的な疑いなどというものはどの分野にもあるわけで、その点では哲学はなんら特権的ではありません。特権的でないということは、裏を返せば哲学も、基本的には一定の図式において考えるのですし、そうせざるをえません。根本的に物事を考えたように見える哲学者——プラトン(が語らせるソクラテス)、アリストテレス、カント、ウィトゲンシュタイン、etc.——も、全て固有の文脈や前提を持っているわけです。そもそも言語や出自こそが言説を強く強く規定している、ということは明らかでしょう。

もちろん、説得力のある答えというものはあります。その説得力というものもそれぞれの論者が背景に思い描いている具体的な場面やあるいは思想史上の枠組みに規定されるものですから、難しい。

しかし、それぞれの論者がどのような枠組みを持っていたかということを前提しながら、どういった議論が提出されていたかを検討し、一つ一つの見解とその相互関連を吟味していくことは、私たちに対してもある種のオルタナティブを与えるという意味で非常に興味深い作業です。


「意志の弱さ」の話に戻ります。

アリストテレスが「意志の弱さ」に言及する箇所は、極めて難解なものです。これを厳密に読むにはギリシャ語を読む必要があります。そうするのは私の手に余り、そうする意味も薄いのでやりませんが、議論に入っていくためには、少なくとも「実践的三段論法」というものについてほんのわずかの理解を行っておくことが必要でしょう。

「実践的三段論法」というのはもちろん、「実践的」という言葉と「三段論法」という言葉からなっています。

三段論法というのはもちろん、大前提と小前提から結論を導き出すタイプの推論のことです。

例えば、「人間は死ぬ」という一般的な大前提があったうえで、「ソクラテスは人間である」という個別事例に関する小前提が提出されれば、結論として「ソクラテスは死ぬ」という答えが出てくるという成り行きです。

こうした三段論法が、理論的な操作においてのみならず、「実践」つまり倫理的な・行動に関係する判断のレヴェルにおいても想定される、ということです。

原理原則が大前提として提出されたうえで、個別の状況が小前提として置かれ、これに対応してなすべき行為という結論が出てくるという感じです。


この図式に当てはめつつ「意志の弱さ」を説明する際には、いくつかモデルがあります。

第1のモデルは、「意志の弱さ」というものは、個別の状況に関して認識が不足していることから生じているのだ、というタイプの議論です。

つまり、実践的三段論法における小前提が誤って捉えられているから、誤った行為が出てくるのだ、ということです。

例えば「暇な時には自分の将来にわたって価値をもたらすような勉強を行うべきだ」という大前提があるとします。このとき、現在の状況を「暇」だと捉えられなければ、つまり「今私は暇だ」という(事実であるところの)小前提をとらえられていなければ、「今勉強すべきだ」という結論は出てこないわけです。

本当は暇であるのに、なにかどうでもいい仕事を無意識にひねり出して、「今は〜〜をしなくてはならない」という小前提が立ち現れているとすれば、「今勉強をすべきだ」という結論は出てこないわけですね。小前提に関する前提が誤っているから、正しくない、別の結論に従って行動せざるをえなくなるというわけです。

しかしこのモデルには、問題があります。私たちは「意志の弱さ」を、自分の行動を自分で支配できないということを問題にしていたはずなのに、このモデルを採用してしまうと、意志でなく認識の弱さが問題である、ということになってしまうわけです。

それはそれでよい、というか認識の誤りこそが問題なのだ、という議論は十分に可能ですが、とともかく別のモデルも出てくるわけです。


第2のモデルというのは、実践的三段論法は正しく成立しており、すべき行為(=結論)も正しく思い描けているのだけれども、何かに邪魔をされて結論に従うことができない、というモデルです。

例えばどういうことかといえば、先ほどの例を踏襲するのであれば、「暇なときには自分にいい影響を及ぼす勉強をすべきである」という大前提があるとして、小前提として「今は暇である」という認識がはっきりと成立しているときのことを想定してみることになります。このとき、現在すべき行為として、つまり結論として、「今は勉強すべきである」という内容が当然出てくるはずなのです。

しかしこの結論に従えないことがある。なぜでしょうか。

別の状況が、選択を妨げているわけです。自分の子供が癇癪を起こしているからそれをなだめなくてはいけないとか、あるいは仕事で疲れていて勉強どころではなく寝なくてはいけないとか、そういったことです。

外的な要素によって阻まれてしまうから、結論を実行することができない。これが意志の弱さというものである。こうした説明を行うのが、第2のモデルです。

これはこれで、「それは意志の弱さなんですか」という問いに晒されることになるでしょう。


これらに対して、キリスト教的なものの見方においては、意志の弱さというものは自明のものである、とされます。

キリスト教は或る意味で(現在の)人間は全て不完全であることを運命づけられている、という教義を持っています。「原罪」のことです。中世において「自然本性の傷」と定義される「原罪」は、或る点では洗礼の秘跡によって抹消されますが、或る点では残り続けます。たとえばお腹が空くとか喉が渇くととか、死を運命づけられているとかいうのも、「原罪」に対する罰とされます。

同じように、人間は自らの合理的判断に従わないことがあるけれども、それは「原罪」ゆえに当然生じる事態だとされるわけです。

意志が理性の判断にしか従わないというのは、特段の説明を要さないと看做されるわけですね。

そしてこの議論を前提すると、ある極端な説明モデルに行き着くことになります。つまり、意志の弱さというものと、悪さというものを区別しない議論が生まれます。

どういうことかといえば、意志が弱い人も悪い人も、どちらも最善でない悪い行為を選び取って行なっている点で変わりないのだ、ということになるわけです。

つまり意志の弱さのあらわれとして説明されている事態にあっても、我々はそこで意志の力を発揮しているのだ、という説明モデルです。

これはこれで過激なモデルですが、ありうる説明です。


どのモデルが正しいとも言えません。特に中世になると、これらのモデルに対してまた別の説明が加わります。

例えば第2のモデルに付加するかたちで、実践的三段論法が一応適切に成立しているとはいえ、たとえば大前提に対する確信がどれほど強固なものであるか、ということによって、結論が守られるかどうかが分かれうる、ということが言われるわけです。

どういうことかといえば、「暇な時には勉強すべき」で、「今は暇だ」から、「今は勉強すべきだ」という結論が出ているとしても、そもそも「暇な時には勉強すべき」という大原則に対する確信の程度によって、他の結論が採用されてしまうことがある——寝てしまうだとか、子供と遊んでしまうだとか、YouTubeにぶちこむだとかいう選択肢が採用されてしまう可能性も出てくる——ということです。

上に見た3つのモデルでは、適切な認識があるかないか、正しく認識されているか誤って認識されているか、というオンオフでしか語られていなかったところ、ある種量的な基準を持ち出すことで図式化をおこなう議論もあったということです。


以上の個別の議論は別に覚えていただかなくても良いもので、覚える必要も研究者以外にはないものです。

しかし重要なのは、それぞれの意見を提出する論者が、わりとわかりやすいようだけれども実はうまく説明できない問題について、もちろん一定の文脈を共有しながら、つまりここでは実践的三段論法という枠を共有しながら、どのように問題を切り分けることができるかについて、案をいくつも提示しているということです。

繰り返すのであれば、これらのうちのどの図式が正しいかということは、さほど重要ではありません。どの図式を提出するにしても、それぞれの論者は自分の言葉を尽くして、あるいは他の論者の意見を引用しながら、あるいは散々例を出しながら議論するわけです。

なるほど、説得力の有無、議論の巧拙はやはり確実にあります。とはいえ、それは役に立つか否かという観点から言えば重要度は低いものかもしれません。もちろん重要ではありますが、寧ろ私が普段やらない、「哲学(史)を役に立てる」という観点から言えば、同じ問題に対して複数の論者が、或る概念を用い、いくつもの仕方で説明を与え、その間で議論を戦わせているということそれ自体が大切なのです。

そのようにオルタナティヴがいくつも出ているということを、(できれば)実際に文献を読みながら知ってゆくことで、私たちは問題の切り分け方がいくつもあるということを確かに知ることができるのですし、ここでようやく応用の可能性が花開くことになるでしょう。

特に今回の「意志の弱さ」に関して言えば、実際に「意志の弱さ」を克服しようというときに、どこに問題があるのかを切り分けるための(いくつかの)図式を、まさに哲学史が用意してくれていると言えるでしょう。つまり哲学史が実際役に立つのです。

第1のモデルに従うなら、「個別の状況に関する認識が誤っているかもしれない」という疑いを私たちは抱けるようになるわけです。私たちが忙しいと思っていても、それは見せかけのことに過ぎず、どこか重要なことに取り組みたくない気持ちがあって、認識が歪んでいるだけのではないか、と疑うことができるようになるわけです。

あるいは第2のモデルであれば、外的な状況が邪魔をしているのかもしれない、という疑いを抱けるようになるわけです。仕事をすればよいのに、YouTubeやNetflixで毒にも薬にもならない動画を見つづけてしまうのは、そもそもインターネットという外的なものがあるからよくないのだと割り切って、家の回線を解約するということもありうるわけですよね。そこまでいかなくても、家族に監視してもらってインターネットをやる時間を強制的に減らすとか、Netflixなら解約するとか、外的状況を抹殺するという方針を考えることはいくらでもできるでしょう。

第3のキリスト教的な価値観を若干入れて考えてみるのであれば、実は私たちは惰弱に見える行為をこそやりたいのであって、寧ろそちらの方にこそ傾斜していくべきではないか、そのなかにこそ自分の(未だ見えざる)欲望を見出していくべきではないか、というさらなる問いを立てることもできるわけです。実に『ローマ書』第7章第15節にある通り、「自分がしたいと願うことはせずに、寧ろ自分が憎んでいることを行っている」可能性がないかを検討する可能性があるということで、「意志の弱さ」によるのであれなんであれ、ともかくなぜかやってしまっていることも側にこそ価値を想定してみるということもありうるわけです。

ともかく、或る種の哲学史を学ぶということは、問題を様々な観点から様々な仕方で切り分ける営みを見つめることですし、こうして様々な選択肢と視点を得られるのが、哲学史を(ある程度真面目に)かじるひとつの利益になるでしょう。


もちろん以上は、こじつけめいた議論です。

研究者はふつう、哲学史上の議論を直接的に実践に役立てるということは考えないものです(し、それは言うまでもなく、研究者の義務ではありません)。

そして、「自分の頭で考える」とか、あるいは「実践してみてそこでPDCAを回す」などといった、わりと泥臭い方法にも、もちろん特有の・重大な価値があることは認めるべきです。

しかしそのうえで、やはり申し上げられるのは、わりと重要で根本的な問題に対して、それぞれの思想家がそれぞれの文脈に応じて出してきた答えを知ることは、単に時間の節約になるということです。

その一つ一つの文脈を踏まえながら複数の答えとその連関を検討する作業は、今回の「意志の弱さ」の場合のように私たちにとってもわかりやすい具体的な図式を与えてくれます。そして様々な図式をストックしておくことは、自ら新たにplausibleな図式を立てねばならないときにも、大いに助けになることでしょう。

■【まとめ】
・哲学史は役に立つの? という問いに対する答えは、どこに見いだされるのだろうか。

・普遍的な問題であればあるほど、先人が一定の文脈のなかで問題を腑分けして図式化し、それぞれ暫定的な解答を出してくれている。

・そうした文脈を検討してみることで、自分の頭で考えて実践する際に役立つかもしれない、多様な図式が手に入るだろう。

・さらに、自ら図式を立てねばならなくなった時にも、先人たちが異なる場面で立ててきた図式は大いに参考になるだろう。

・こうしたことを、「意志の弱さ」に触れながら見た。自分の意志の弱さに伴う問題に立ち向かうときに、哲学史は問題を切り分けるための図式を提供してくれるのである。


今日も、読んで、生きましょう。

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