【145】意思決定基準としての権威

悪し様に言われがちな「権威」の利用について、ちょっと書きます。以前も書きましたが、重要なテーマでしょう。

リンクを貼っておきます。参照:【11】あなたに権威主義者でないとは言わせない ふたつの権威主義


ごく素朴な科学主義や経験主義、また「自分の頭で考える」ことを重視するある種の理性信仰が浅薄なドグマに反転しうる(そして実際に反転している)、ということは、一定程度の知性を持つ方であれば当然心得ている事実であって、とすれば権威に身を委ねて思考を放棄するという、嘲笑されがちな態度もなかなか捨てたものではないと言えるでしょう。

日本では特に、宗教的な信仰というものが軽んじられる——それどころか軽蔑され嘲笑われる——土壌がありますから、あまり正面から受け入れにくいことかもしれませんが、宗教的信仰というのは世界的に見れば持っている人の方が多いわけです。

宗教には主体的な考えに対立するかに見える権威がつきものですし、日本人は(と言うと主語が大きいかもしれませんが)権威嫌いです。だから宗教に関して興味を持たせようとする記述においても、権威というものにはなるべく言及しないのですし、権威的でない側面ばかりを(不自然に)強調するのです。もちろんある種の政治的権威や、科学的な装いを持った権威にはたやすく屈従するという奇癖があることも疑うことはできませんが。

とはいえ、宗教とか、宗教に結び付けれられてこそ強大なちからを持つ「権威」とかにアレルギー的反応を呈しがちな人こそ、いちどは「権威」なる語の背景を見ても良いのでしょうし、そうできない態度こそが「権威的」であるということには気づいておいてもよいでしょう。


あくまでも実用的であることを謳うというこの場での私の目的に即するなら、特にローマ法やローマの政治制度に、またラテン語それ自体に強く影響を受けてきたカトリックにおおいに影響されながら紡がれてきた西洋思想においてみられるような権威(auctoritas)の概念というものは、なかなか捨てたものではありません。

どういうことかといえば、特定の分野において権威に判断を委ねてしまえば、あるいは権威を補助具として用いれば、皆さんは時間や認知能力や労力というものを無駄に使わずに済むのですね。権威とは(たとえば中世哲学では)そういうものだということです。

権威というものは、時間や認知を節約する機能をもつわけです。また、結局のところこの機能に還元されるとも言えますが、私たちがフリーハンドではたどり着けない結論にも、権威を正しく使えばたどり着くことができます。

メジャーな先行研究を使って新しい知見を得る、というのと同じことです。先行研究そのの内容は、土台として機能することともあれば、対抗する相手として機能することもあります。先行研究がなければ、それを乗り越えるような知見を出して正確に理解させることなどできないということです。研究は乗り越えられるときにも大きな意味を発揮するのです。更に言えば、優れた先行研究は、内容そのものはもちろん、ある種の枠組みを作っているものですし、枠組み自体を乗り越える作業もまた、先行する枠組みがあってこそ遂行されうるものです。

あとは、専門性の高い情報に触れる時には、さしあたって権威の方を尊重し、権威に言われていることを尊重し、自分の頭で考えるなどということを行わずに権威に全て委ねて考えてしまえば楽です。楽ですし、正しく実用的な結論にたどり着くのもより簡単でしょう。


極めて抽象的に、かつ突飛に聞こえるかもしれないし形で言い換えるのであれば、特定の場面においてある種の権威に身を委ねておくことは、意思決定基準を持つということであって、自分がしなくてもよい判断を外部に委ねるということです。

もちろん権威は、気づかないうちに私たちの心に作用して、私たちの行動や決定を左右することがあります。これはときに破壊的な効果を生みます。しかし、ある種主体的に権威を信じると決めてしまえば、その権威というものは私たちの判断を代行する強力な意思決定基準に(あるいは、無駄に考えないための装置に)なります。

例えば食事をする際の店選びや、購買において、あるレビューサイトを信用する、あるいはあるレビュアーのことを徹頭徹尾信用するということにすれば、もはや私たちは購買において、あるいは食事するところを選ぶ場合に、何も悩む必要がなくなるのです。実に素敵なことではありませんか。

私はやりませんが、例えば食べログで評価が3.5を超える店に行き当たったら速攻で入る、ということにしておけば、学部1年の頃の私のように、渋谷の街をあてどなくさまよい歩いて結局お昼の時間を逃す、というような愚かな真似をせずに済んだでしょう。

購買においても、結局のところ同じような値段であれば、悩む時間の方が無駄です。かだか1万円と2万円くらいの差でしかないなら、どこで買うかなどと逡巡して色々情報調べるのに使っている労力と時間というものは無駄です。少なくとも時間は帰ってこないのです。もちろん数百万円とか数千万円単位の出費になれば別ですが、そうでないのであれば、「私はこのサイトから買う、このサイトを信じる」とあらかじめ設定しておくとよい。メーカーが何か直販しているなら、メーカーを信じれば良いかもしれないし、メーカーが紹介している仲介業社に行ってもいい。なんにせよ確固たる簡潔な基準を持てばよい。

そして、例えば商品のレビューなんかをやって生計を立てている人とか、あるいはそうでなくても、頻繁にアマゾンでレビューを書いている人がいますが、そういう人の信頼できそうなレビューを見つけたら、その人の言うことは全て信じるということにしてしまってみてもよいでしょう。購買に関する意思決定を極めて簡単にする、あるいは皆さんの手で考える必要がなくなる、という意味で極めて有用な面があると思われます。

先ほども言及しましたが、実践的な判断を行うにあたって専門的な知識を要する時事問題に関してもそうです。目下流行している疫病についてもやはり言えることですが、素人がいくら(はっきり言って馬鹿な)考えを言ったところで、そんなものは全く考慮に値しないのですから、自分で予め何人かその分野の専門家というものを選定しておいて、その人たちの言うことをほとんど無条件に信じ、それ以外の情報は一切摂取しないということにしておけばよいでしょう。そうしていれば、時間も認知能力も、精神的な体力というものも 無駄に損なわれずに済むでしょう。


権威と言うと、悪いものだというイメージがあるかもしれません。しかし、必ずしもそうではありません。

もちろん、権威に流されて決定をしてしまうということもありますし、それはひょっとしたら良くない側面を持つかもしれません。「自分の頭で考えよ」というのももっともだ、と思われる瞬間は、ないわけではありません。時間や労力を使って自分で考えなくてはならない瞬間はとても多いでしょう。

権威が過つこともないわけではありませんし、権威に完全に依存していると、自分でとったはずの行動に対して自分でどう責任を取れば良いのか分からなくなってくる、という面もあるかもしれません。

しかし、これを信じるのだ、これを採用するのだと(雑駁な言い方をすれば、主体的に、自らの知力を尽くして)決めて、この人の言うことであれば権威として信じるのだと決めるなら、その害も和らぐというものです。

権威とは、私たちが労力と時間を使わればできないはずの判断を、私たちに代わって行なってくれるものであって、その点では私たちがトータルでどんどん先へと歩いて行くための、重要なブースターエンジンになるのだと思われます。