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【189】自分を「聖地」とする/現実を侵食するフィクションを紡ぐ

フランスに住んでいるというのにイタリアの写真ばかりあげているのは、私が明らかなイタリアかぶれだからです。とはいえ、「かぶれ」る理由にも色々あって、漫画や小説の舞台となる土地、つまり「聖地」が多くあるのがその理由のひとつです。

今日はこの「聖地」について。 

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※写真はファルネーゼ宮(ローマ)。フランス大使館が入っている建物なので、フランスの三色旗が掲揚されています。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


先ほど述べたような意味での「聖地」というものは、フィクションに描かれることで特殊な意味を帯びた土地のことです。

そして、フィクションに描かれた土地を巡る作業を「聖地巡礼」と呼ぶこともよくあります。

私の場合、イタリアという土地とその料理はそもそも好きで、トスカーナのイタリア語の響きも嫌いではなく、イタリアで育まれた美術や文学にも強い愛着を持っていますが、それに加えてイタリア諸都市は極めて多くのフィクションの聖地になっているので、よくイタリアに行っていたというわけです。

例えば私がイタリアで巡った「聖地」は、相田裕『GUNSLINGER GIRL』であり、あるいは今野緒雪『マリア様がみてる』のそれですが、例えば『とある魔術の禁書目録』においてはヴェネツィアから少し行ったところにあるキオッジャが舞台になっている箇所がありますし、あるいはKeyが作成したゲームとして有名な『Aria』の舞台は「ネオヴェネツィア」という明らかにヴェネツィアを参照した架空の土地です。

イタリアは「国」でありつつも諸都市の集まりという正確を強く持ちますから、それぞれの都市にそれぞれの魅力があって、よくフィクションのネタになります。


この「聖地」という概念について、当然のようでいて面白いのは、現実での聖地つまりエルサレムやメッカについても似たところはありますが、或る種の人間が想像力をはたらかせた結果として成立しているということです。

これは当たり前に見えるかもしれませんが、重要なことです。

私が行ったところで言えば、たとえばミラノのなんてことのない風景は、『GUNSLINGER GIRL』というフィクションによって意味を与えられて、私を惹きつける引力を帯びることになりました。

ミラノに行った折には警察署の掲示を確認しましたが、それは漫画のとあるシーンに描かれていたからです。普通の観光客はまったく興味を示さないわけですね。作品によって意味を付与されて初めて、その警察署が普通とは異なる特殊な意味を帯びるようになったというわけです。

あるいはそもそも著名な建造物が問題になっているのだとしても、例えばヴェネツィアの「ため息橋」に私が興味を持つのは、それが単に歴史的な構築物だからではなく、寧ろ『マリア様がみてる』において主人公の福沢祐巳たちがゴンドラに乗ってくぐった橋だからです。

聖地はフィクションの舞台として、聖地の中の諸要素はフィクションのいち場面をかたどる要素として、特異な想像力なしにはありえない意味とちからを帯びているのです。


こうしてフィクションによって新たに与えられた意味はときに、現実に対して極めて強い効力を及ぼします。

私のような気まぐれな観光客を呼ぶこともあれば、あるいは地方自治体が聖地としての身分をすすんで引き受けて、聖地巡礼を一定のビジネスの契機として利用することもあります。ご存知の方も多いかもしれませんね。

漫画『らき☆すた』の舞台の一部になった埼玉県久喜市の鷲宮神社の例は著名かもしれません。同作のキャラクタであった柊かがみは、「かがみん」として久喜市商工会のキャラクタになってしまいましたし、同地の祭りでは例年「らき☆すた神輿」が担がれているようです。

あるいはもっと最近で言えば、『ガールズ&パンツァー』で大いに有名になった茨城県大洗町は有名かもしれません。私もグルメ半分、聖地巡礼半分で友人とともに行きましたが、あの熱はすごいものです。

商店の前にも飲食店の中にも水族館の中にも同作のキャラクタのパネルが立ち、スタンプラリーがあちこちに設けられ、ショッピングモールの一角には同作のアンテナショップが立ち、キャラクタの誕生日に合わせてほとんど必ず町内のどこかでイベントが行われるわけです。

大洗という町に対して、フィクション(に触れた私たち)が勝手に意味を与えているのとは別に、大洗(の商業施設)の側もその意味を積極的に受け入れて生かしているのです。

大洗シーサイドホテルに至っては、現実が逆にフィクションを模倣しています。『ガールズ&パンツァー』の劇場版においては、戦車の砲撃を受けて同ホテルに該当する建物の壁面が破損されますが、それを現実のホテルが、現実の壁面において再現している時期があったのですね。

フィクションが現実を描くというだけではなくて、現実がフィクションを模倣するという、一般的に見れば倒錯的かもしれない事態が生じたわけです。    

フィクションが現実を舞台にしていたというだけではなくて、その影響力があまりに強いがために、現実の方がフィクションに合わせて変化してしまった、という例です。


特に大洗シーサイドホテルのようにマテリアルな変化が起きるのはもちろん極めて重大な事態ですが、別にマテリアルな変化でなくても良いのですね。

重要なのは、フィクションがある土地を舞台にし、またそのフィクションが著名になることによってその土地が別の様相を持つ「聖地」に生まれ変わるということで、その土地全体に対する、あるいはその土地
の諸要素に対する意味付けが一挙に変容することです。

『ガンスリンガーガール』がなければ、ミラノの警察署も、ローマの地下鉄B線のレビッビア駅も、私にとっては意味を持ちえなかったはずです。

『マリア様がみてる』があって初めて、斜塔と大聖堂の脇に小さく佇むピサの洗礼堂が私の目に止まったわけです。

キオッジャという都市の名など、『とある』(を知る友人)を介さねば知ることさえなかったかもしれません。


私たちがどこまでいっても、どうあっても個人として(も)生きていかねばならない運命にあるとすれば、このような「聖地」の生成プロセスは、実に示唆に富むものであるように思われるのですね。

「聖地」の生成を抽象化してみるのであれば、それは「あるものに対して、特定の文脈を外からあてて特殊な意味を付与してしまう」ことだ、と言えることでしょう。

皆さんの自己認識についても、あるいは皆さんが行っているかもしれない発信の営みについても、そのような特殊な意味づけを与えることができるのではないか、と思われるわけです。

時空間に散らばっている諸要素に対して、新たに特殊な意味を付与し、そうした諸要素が散りばめられた自分なりの特殊な(言語的)世界を「聖地」として構築してゆく、という発想ができるというなりゆきです。

ある一定の設定・話の筋にもとづいて、自らの来歴における諸々の出来事に意味を与え(て更新しつづけ)、ときに何の変哲もないものを掘り出し(て更新しつづけ)てそこに特殊な意味を与え(つづけ)てしまえば、それらは「聖地」としての個人史をかたちづくる輝かしいモニュメントのひとつになるわけです。

そうして自分の過去に、あるいは出会ってゆくものごとに、つまり自分の触れる世界そのものに、或る種外部から、恣意的に意味=方向(sens)を付与する、ことができるということです。

何の変哲もない物事に意味を与え、そうした特殊な意味に満ちた自分の言語的世界を自由に動かしてゆけるという観念が通用するとすれば、自らを望ましい方向に動かすことにつながるはずです。


さらには個人的な解釈の水準を超えて、他人に見せることを前提とした、他人が訪れたくなるような、入り込みたくなるような「聖地」として、自らの言語的世界を創造していくという発想もありうるのでしょう。

素朴に言ってプレーンな事実を好き勝手に解釈されるよりも前に、「ここはこういう聖地ですよ、こういうかたちで理解してくださいね」と道標を立てておくということです。

こうした発想は、良い意味で戦略的に自らを知らしめ、特定の時空間において一定のプレゼンスを発揮することにもつながってゆくことでしょう。


こうして聖地を創造する、あるいは自らを聖地とする、というのはいかにも大げさな物言いかもしれませんが、自分が言葉を与えなければ何の意味も持たないようなものに対して積極的に意味を付与したり、あるいは自分の文脈に巻き込むかたちで周囲の物事に意味を与えていくなかで、そうして生成された意味の全体を自らの言語的世界として胸にいだき、ときに積極的に提示するということは、一定の言語能力を持った皆さんであれば、十分に取りうる戦略なのかもしれません。

その戦略とは、自分を都合よく理解し、また都合よく理解させるための戦略にほかならないのですし、現実に対する解釈を、それゆえ解釈の相対としての現実を、変革しつづける戦略なのです。

■【まとめ】
・フィクションが現実の具体的な土地を舞台とする場合、その土地全体や、建物や史跡や、何の変哲もない看板や風景にさえ、特殊な意味を付与することができる。そうして「聖地」ができあがる。

・私たちも同様に、一定の文脈ないしは戦略に基づいて、日常にあふれることがらに、あるいは自らの歴史の個々のモメントに、特殊な意味を与えてゆくことができる。そうして、自らが「聖地」となる。

・こうして個々のことがらに一定の意味をまとわせ、全体として特殊な空気を持った「自分」という言語的世界を構築することは、現実にもおおいに反照を生むことだろう。