【94】肩書きなんて、なければよいのですが

「思想史をやっています」などと言うと怪訝な顔をされるので、自己紹介をする時には、不誠実をおして、「哲学を研究しています」、ということがしばしばあります。実際、私はフランスでは哲学科に所属していましたし、哲学の学位も取得しているので、公然たる嘘というわけではありません。

とはいえ、日本語の文脈であろうと、フランス語の文脈であろうと、哲学者ないしはフィロゾーフであるという自覚は持っていないので、例えば職業や「将来の夢」などを聞かれるときにも、「哲学者」と積極的に答えることは絶対にないのですが、簡単に「哲学者」と言い切られてしまうことがあり、言葉の厄介さに苦笑いするばかりです。

ある高校の勉強合宿に随行した際にも、先生方から事前に将来の夢は何かとたずねられており、それが公表される、最初の全体集会で公表される、という成り行きだったところ、夢など特にないので(というより「夢という語でいったい何が意味されているのですか」などと訊くことはまったく時宜を得ないので)、「哲学の研究者」ですと答えたことがありました。

しかし、哲学の研究者では何か響きが悪いと思ったからか、「哲学者」ということにしておいて良いですかと言われ、結局そのように紹介されたということがあります。

なるほど、哲学者と言うと、簡単ですし、何らかのイメージは持てる。分かりやすくてかっこいいイメージがあるのかもしれません。夢などなにもあったものではない、流されるようにして大学院にいた私は、その提案を受けて、割と大人数の前で、将来の夢が「哲学者」であるところの人間として紹介されました。


ある人が哲学者である(そうあろうとしている)かどうかは、勿論語の定義や了解によりますし、その限りで確たる見解は得られないにせよ、語源に遡って見るならば、哲学(=フィロソフィア)という語は、知を愛することです。極めて簡単に言えば、ソフィアは知で、フィリアというのは愛で、このふたつをくっつけたのがフィロソフィアだということです。これに従うなら、つまり知を愛していればフィロソフォス(哲学者)である、ということは、こじつけて言うことができるでしょう。

しかし、この語源からの反照を無制限に認めるのだとしても、いくつか問題は残ります。「知」とは何か、「愛している」とはどういうことなのか、と問う必要をすっ飛ばすとしても、自分がある対象を愛してるか否かということを確信することは可能なのか、というこれもまた一個の「哲学的」と言いうる問いがあります。

たとえば、(私が一定程度説得されている考え方んい従うなら)何かを愛しているかのような振る舞いを取ることで、その振る舞いの側から事後的に、半ば公的に確認される(というより、持っていることにされる)ほかないのが、感情や気持ち、欲求・欲望といったものだ、と言うことはできるでしょう。

であれば、自分が哲学者であるか(orそうありたいか)どうかということは、何よりも自分の行動・表現と、それに対する半ば客観的な判断にかかっているのであって、本人が殊更に言い立てるようなものではありえないのではないか、という気持ちが、さしあたっての「哲学者」という呼称に対する、ひとつの態度(≠解答)になるかと思われます。

とすると、私(の志望)が哲学者であるかどうかは、私が決めることではありませんし、「どうぞお好きなように」と言うほかありません。

……これはもちろんひとつの、きっとおおいに反論のある、解にすぎません。


もう一つ周辺的なことを付け足しておくのであれば、私が哲学研究と哲学というものを区別して前者に接近したがるのは、(特に日本における?)伝統的な区分に従ってのことです。

哲学研究と「哲学すること」を区別しつつ、自分は哲学をやっているんです、学説研究・哲学者研究をやっているのではありません、と言いたがる人は、実は結構多いものです。

そうした人たちは、自分がアカデミズムの本流にはいられない、とややオーバーに嘆きながら(実際には「いられ」ているのですが)、しかし学説研究ではなく、自分自身のあるいは普遍的な問題に取り組んでいることに強い誇りと気概を持っていることが多い。

なるほど、この区別は便宜的なものです。このふたつは、大いに交わり合います。

「哲学者」と言われる人たちだって、過去の学説をよく研究し、そこから出発して自分の考えをまとめているものですし、卓越した読者であることが多いのです。アリストテレス然り! 彼はプラトンの忠実な読者であり、記述して残すことはなかったかもしれないにせよギリシャの先人たちの知恵をよく吟味しています。「哲学者」と言ってどうしてか取り上げられることの多いカントは、特にハイコンテクストな、哲学史中の人物です。過去の諸学説の不十分さを克服する姿勢をこそ常に持っていたわけですし、卓越した一個の読者です。20世紀後半(から21世紀初頭)の哲学者として知られるジャック・デリダが、卓越した読者であったということは、皆さんもよくご存知でしょう。デリダは、要するに読み手です。もちろん「脱構築」などの語を通して知られる独自の考え・独自の発想を持っていますが、そうした独自性はフリーハンドで現れるものではなく、様々な著作・著者を読むなかで培われ、展開されたものです。つまり哲学史研究のうちから、「哲学すること」が大いに花開いている、という成り行きです。

私がさしあたって専門的にやっているのは歴史研究ですが、それはどうしたって、個々人の心理的な生活というものに跳ね返ってくるわけで、寧ろ全く客観的に自分の専門的対象を扱いつづけることは難しいのですから、対象選択の時点で或る種の独自性は既に芽生えている。それはそれでよい。

まっすぐに歴史研究をしていれば自分の問題に繋がってくることもあります。あるいは、歴史研究をする中で自分の問題が浮き彫りになってくることもあります(最初から問題がはっきりしている人は、殆どいないはずではないかと思われるのです)。

こういう事情もあって、私はことさらに哲学研究と哲学という言葉の差を強調する必要はないと考えています。

……しかし! それでも「哲学者」という呼称の背景には、伝統的な二項対立があります(と私は思い込んでいます)。ときに、哲学することと学説研究は対立しあうものととらえられることさえあります。ときに——本当に珍しいことですが——、「哲学する」ことを強調するなかで、学術研究・哲学史研究・歴史研究の類を「哲学すること」ための道具と看做す人さえあります。過去のテクストを読むときにさえ現在の問題意識と結び付けなければならない、と言う人さえあります。

それはそれで素直ですし、立場としては勿論問題ないのですが、そのような意味において哲学を謳歌する態度は、若干私の性格には合わないところがある。

歴史が我々のためにあるのではなくて、我々が常に歴史の拘束力のもとにあって、我々が歴史のためにあるのですし、学説研究は(有益であると否とを問わず)それ自体価値があるものであって、自分の問題から出発することと歴史研究を行うことのどちらが偉いなどということは全く言えない。普遍的に見える問題を扱うのだとしても、パースペクティヴは常に我々のものでしかない。歴史的に確かにあるテクストを扱うのだとしても、もちろんパースペクティヴは我々のものでしかないけれど、寧ろ対象が特定されている分、順当に価値を持つ可能性は大きい。……

そういうわけで、「哲学する」人たちを少し遠巻きに見ており、自分で「哲学者」と名乗るようなことはしたくないという、漠たる気持ちがありました。

便宜上「哲学者」という肩書きをあてられることを、苦笑いしながら認めることはあっても、そうではない、という気持ちは確実でした。実に否定的な気持ちの方が、持ちつづけるには簡単で、確信を持ちやすいものです(メルヴィル『バートルビー』を思い出さずにはいられません)。


とかく所属や肩書きというものは、一つの言葉で様々な背景を想起させるものです。様々な背景や人間関係というものを想起させるものです。そして人によって、イメージの持ち方は随分異なる。あるいは、人によっては何もイメージが喚起されないものです。

こうして同じ肩書きの表現について、どのような印象が抱かれるのかを知るのは非常に難しい。

私を「哲学者」と形容する際にも、学説研究と「哲学」に対して割と伝統的に与えられていることになっている区別を前提している人はそう多くないでしょう。形容されている私の側がそんな区別を前提している、などと思う人もほとんどいないでしょう。それはそれで良いのです。

おそらく、「哲学を歴史的観点から研究しています」と言おうと、「自分は哲学をやっていて自分の問題から出発しているんです、学説研究ではないんです」と言おうと、外から見れば大差ないはずです。部外者から見て、哲学者と哲学史家のあいだに、いかほどの差があるのでしょうか。「よくわからんけど何か役立たんこと考えとるな(笑)」くらいに認識されるのが関の山ではないでしょうか。

とはいえこれは極端な見方で、一家言ある人ならばもう少し違う印象を持ってツッコんでくるかもしれません。よくわからないのです。

勿論私も、就職活動を1秒たりともしなかったこともあり、私企業や省庁のあいだの人気の差などはわかりません。つまり或る種の肩書きに一切無頓着です。大学の卒業を間近に再開した高校や予備校の同期がどこそこに就職する、などと言っていたとき、「ふ〜〜〜〜ん」くらいの気持ちしか抱けなかったことをよく覚えています。「ふ〜〜〜〜ん」と言いながら、後で調べてみて、超・大企業であったことを知る、ということは一度や二度ではなく、不見識が恥じられるばかりです(笑)。

社名に限らず、職位や職種の類もそうです。大学教員の職位は助教→講師→准教授→教授と上がっていきますが、教授と准教授の差とか、助教と講師の位置づけとかは、おそらく専門分野やそれぞれの大学によっても変わる部分が大きく、外にいる人にはわからない面があるのではないでしょうか。

『白い巨塔』のようなイメージを持たれている方もいらっしゃるかもしれませんし、あれは事実の一面を言い当てているのかもしれませんが、(2019年版ではともかく)現在では財前五郎が置かれていた助教授という職位が消滅しましたし、これが実態的な変化(講座制度の解体)につながった分野もあります。

あと、特任教授とか、名誉教授とかいうものの地位を、どれくらいご存知でしょうか。いや、私も完全に理解しているわけではありませんが(笑)、結構曖昧ではありませんか。

企業において部・課・係がどのように区分されるのか全くわかりません。どんな部や課があるのかも全くわかりません。上下関係のようなものがあるとして、それは企業にもよるはずですが、漠然としたイメージさえ私にはありません。だいたい何歳くらいでこれくらいの役職についていれば良い感じだ、というカンもまるでない。

いわゆる士業についても、私は当人たちが何をやっているのかは全く分かりません。端的に言えば、私の社会経験が極めて乏しいからです。幸いなことに法的な係争に巻き込まれたことがない、とも言い換えられます。試験を適切に通過された優秀な方なのだろうということは想像がついても、実態を適切に想像することはできない。同期で会計士や弁護士や税理士になった人たちの顔を思い浮かべながら、ぼんやりとしたイメージを作っている。戯画化されたような敬意は持ちたくないけれど、どういった敬意を持てば良いのかはわからない、そんな相手です。……


このように——とまとめるのもいささか乱暴であるにせよ——、肩書きや地位の名前というものは、実に難しい。だんだん面倒くさくなってくる。簡単に評価・判断できて便利な側面はあっても、こちらが固定的に使うとなると、持たせることになるイメージを統御するのが困難だということです

そればかりではありません。肩書きは多くのものを取り逃します。やりたいことや、ありたい自分を常に適切に言い当ててくれる肩書きが存在すれば良いのですが、なかなかそうもいかないでしょう。

肩書きというものはたしかに実態と結びつきますから、肩書きにあまりに頼りきりになっていると、自分の実態、つまり能力のようなものも、少しずつ肩書きに合わせて限定されていくことになるでしょう。

もちろん、肩書きにあわせて自分の特定の能力が良くなっていくということはありうるのでしょう。しかしそうした観点から言えば、肩書きというものは固定化されたものではなく、自分の都合に合わせて、あるいは自分のその都度の望みにあわせて設定される必要がありますし、これは職種の名前や、よく言われる肩書きとは大いに異なるものでしょう。寧ろ自分で創造していかなくてはならないものです。

であるからには、できることならば、(最終的には)肩書きのない自分、あるいは可能な肩書きを持つにしたって、その都度常に独自の仕方で、それぞれの人との関係に合わせて、様々な角度から語ってもらえるような自分であるほうがよさそうだな、と思わずにはいられません。それでも生きていけるような自分でありたいと願わずにはおれませんし、そうなるためにこそ、然るべきセリフと立ち居振る舞いを身につける必要があるのでしょう

××に所属している(職名)……というかたちで語られるよりは、個人的な経験や関係に根ざしたかたちで、各人が持っている独自の言葉・独自の観点で評価してもらえるような、そんな人間になっていきたいという気持ちがあります。そのほうがきっと楽になるのだろうな、という直感があります。