【12】スキュラとカリュブディスの間 少し早すぎる反省の機会と、強靭なキメラになる覚悟(遅塚忠雄『歴史概論』)

読むことで人は変わります、というのは私が持つ青臭い確信ですが、読み方を増やすことで変わるものもあると考えられるでしょう。
遅塚忠雄の書籍から引用するということはしませんが、少なくとも同書は、また歴史という事態に対する複数の可能な態度を考慮に入れつつ、歴史学とは何かという困難な問い関して一定の示唆を与えるものとして、極めて面白いものです。


読者は身体を持っています。疲れる目を以って見る、疲れる脳を以って考えるときに、霊魂が身体に縛られていることを思わずにはいられません。しかしこれは幸福な知識とも言えます。自分を見かけ上無化する読書、広く言ってテクストを扱う者がまず行うべき読書を行うときにも、読者は身体的な諸条件に規定されている、ということがわかるわけで、つまり真に客観的な読書というものはない。もちろん客観性を標榜し追求することは大切で、それは広義の歴史研究者がまず守りぬかねばならない一点だと考えられます。しかし、読者というものは常に、今ここで読まざるをえない。

このような考えがなぜ幸福であるのかと言えば、個人的な領域において、歴史家としての読みから健全に特権を奪うことができるからです(もちろん歴史研究には分野に応じた固有の方法論と言うものがあり、それが尊重に値するものだということは前提したうえで、です)。政治的含意や教訓を焦って読み取るまでもなく、あなたの読みはどれほど客観的であろうとしても常に政治的で歴史的で、どこまでも一面的です。私はだからこそ恣意的な、わざわざ教訓を読みとりたがる読書を嫌ってきたところがあります。どう読んだって、奇を衒わなくたってあなたは独自なのだから、そんなことをしなくたって、と思っていました。

しかし思えば、私こそが、アニメや漫画やライトノベルから人生訓の類を得ようとして失敗しつづけているのです(笑)。
これは身体を持つ私の生き方そのものであるように思われます。私はまだ若い。若すぎるといえるほどに若い。何も知りません。いったい私くらいの年でなお若いと衒いなく思えているのは、一般就職をしないと言う決断のひとつの極めて有用な果実であったといえます。あくまでも一般的な言い方として、知り合いの言うところでは、「30代で若手と呼ばれるのは学者とお笑い芸人だけ」ということですが、自分がまだ若いという思い込みは、健全な慎ましさを伴っている限りにおいては、どのような領域で生きるのであれ、必要な思いこみだと思います。
さて、そんな人間が「軽い(light)」とときに揶揄を交えて語られる小説から得ようというのは、怖いほどに適切であるように思われます。いや、得ようと思っていたというより、求めざるをえなかったというほうが正しいように思われるのです。思うに教訓は、読者を束縛するnecessityがあって初めて読み取られるものです。つまり読み取りたくて(読み取ろうという問題意識を持って)教訓を読み取っているとは限らない! 何の変哲もなく読んで、それについて書こうと思ったら、どう考えても独自な教訓が出てきてしまう、ということがありうるだろう、ということです。私はほとんど常に、どう読んだって同じ結論が出るだろうと思いながら読んでおり、あるいはそんなことを考えもせずに読み流していますが、私と同じ読解など誰にも出せはしない(と思われます)。私があなたのようには読めないのと、部分的に事情は同じでしょう。

こうして、或る種の真剣な読者にとって、或る種の読みは、固有の必要と固有の文脈に強いられた、独自な読みである、と思われます。意識されているかはともかく、しぜんに採用されてしまう読み方とは、特有のセンスが織り込まれた生存戦略に基づく一個の型と言えるでしょう(cf.楠木健『戦略読書日記』序章――関係ある、と思い込んでいるだけだと言われればそうかもしれません)。
読書は殆どの場合直接的には命に関わりませんし、公表される結果も見えづらい(それどころか結果は公表されないことの方が多い)からわかりにくいけれども、読むことは、身につける方途のはっきりとしたスキルだけでは成立しないと思われるのです。「読解力」というスキルめいた名を与えられたちからもまた、無数のスキルを然るべく配置する仄暗い論理として、センスといえるでしょう。(もちろんそうしたセンスも、見る人が見ればスキルの連結した姿かもしれず、連結のために接着剤を塗るのもスキルと言いうるはずです。……スキルとセンスを截然と区別する楠木氏の態度が一個の観点であるとすれば、両者の連続性を強調するのもまたひとつの方途であるように思われます。……)

教訓を読み取る人は、彼の文脈がそうした読み方を強いている。
思想史家は、彼女の生育環境・学習環境に基づいて読んでいる。

自然にやってしまう読み方というものは、強いて矯めねば修正の難しいものでしょうし、必要がないなら修正する必要もないものでしょう。


こうした自足的な態度が許されなくなるのが、新しい読み方を身に付けたい、あるいは新しい読み方を身に付けねばならないというときです。

新しい読み方と言うものは、重要なものであれば当然、身につけるのが難しいものであると考えられます。難しいというのは、単純に時間がかかると言う意味においてもそうですが、まとまった時間をとって試行錯誤しながららじっくり関わってみなければ取り付く島もない、ということがあるのです。

例えば初めて哲学テクストを読むときには、相応の苦労があります。
もちろん翻訳のせいで不可避的に生じている問題もあります。原語をみたところで、書き方が明らかに難解であることはありえます。語彙の困難さもあります。語彙については哲学辞典や概説書の類でおおいに補うことができるかもしれませんが、知識が完璧だからといってテクストを読めることにはならない場合が多いでしょうし、テクストにあたらなければ辞書の説明をすっかり受け入れるということは不可能でしょう(やってみればわかります)。
ではどうするかと言えば、実地で読むしかないのですが、とりわけ経験が浅い場合、独力で哲学テクストを読み進めるのは難しいかもしれません。だから大学では、いきなり論文を書かせるということはもちろんなく、読み方を学ぶことになります。そして読み方と言うものは、知識をいくらかき集めても獲得されないタイプのものです(もちろん、知識が役立つことはありますし、知識がなければ読めないのですが)。だからこそ、必要な語学の授業や、哲学史上の知識を教える授業のほかに、哲学テクストを丹念に読むタイプの授業があります。教師が講ずる場合もあれば、輪読という形式で、学生が読んで解説し議論することもあるでしょう。いずれにしても、教師や、自分よりも経験のある学生が読む手付きをつぶさに見て、自分も同じように読んでみる(そして、時にはボコボコに叩かれる)。その中で、少しずつ読むという行為の文脈をまるごと真似るのです。そうやっていれば、少なくとも、論理的には大外しをすることがなくなってくる(と期待したいところです)。独力でもなんとか読める部分が出てくる。
さらに、他人の読解の結果であるところの論文から逆算して、彼あるいは彼女がどのように読んでいたのかを推測する余裕が出てくる。論文は良心的なものである限りにおいて、一直線に書かれているから、著者が問いを抽出し答えを見出していくプロセスそのものを、必ずしも明確に示すわけではない。いわば著者がテクストの森をウロウロ歩きまわって撮った幾枚もの写真を綺麗にトリミングして並べたものが論文(や多くの概説書)であって、論文は理想的な読解の道筋を示すものではあっても、おそらくは常に、理想的な読解は現実的な読解のプロセスとは異なる。だから、論文から知識を抽出するのはたやすいとしても、読み方を盗み取ることは容易ではない。しかし慣れてくると、少しずつ盗めるようになってくる。その読み方を自分で仮想的に実施してみる。そうして手札を増やす。 ……
もちろん、自分に固有の背景知識というものはあり、また特有の環境というものもあります。極端なことを言えば、紙の本が好きか電子書籍が好きか、鉛筆とボールペンのどちらが好きか、部屋の間取りや机の大きさやパソコンのOSはどのような感じか、など、瑣末に見える条件も影響してくることでしょう。読書歴や趣味といったものも問題となるはずです。そうした独自の文脈がある以上、いくらテクストに基づいていて・かつ論理的に整合性の取れたものであっても、読解は確実に独自なものになるでしょう。
言い換えれば、論理的に整合性の取れた成果物を求める営みにあっては、独自性などというものは、「きちんと」読める段階になってようやく出てくるものです。もちろんこれは時間的な段階ではありませんが、研究において認められる独自の読解というものは、テクストと矛盾せずかつ論理的に整合性の取れた読解を行えるようにする一定の教育の成果として、初めて現れるものだと考えられるでしょう。

哲学テクストの例は、論理的なテクストから論理的な内容を引き出す読み方を身に付けることの例でした。私はこうした訓練をある程度受けてきて、さらにこの能力を高める気持ちを持っていますが、その成果をこの場で公表するつもりはありません。

寧ろ、新たな読み方と言うものを身に付けたくて、やっている。いわば、私が今書いている一連の記事は、秘教的な情報をうえから開陳するものではなく、自らの経験から得られている強みを活かしつつも、より「有益な」情報を発信できるようになる過程そのものの表現です。私の背景は研究者かもしれませんが、研究者としてのディスクールを束の間捨てて、新たな読み方・書き方を探しているということです。

新たな読み方というのは、厳密な論理的整合性に特に興味のない人にも開かれた文章を書く前提となるような読み方です。そのひとつが、おそらくはある程度恣意的に、いわば無節操に教訓を読み取るタイプの読み方であると考えられます。(誰に対しての教訓か、はさしあたり伏せますが、書き続ける中で明確になることでもあるはずです。)
これは当然、テクストを研究する人間の態度ではありません。研究者が積み重ねてきた読解の成果を利用しながら教訓を引き出す人はいるにせよ、テクストを研究することとテクストから教訓を引き出すことは、異なる2つの態度です。
そして、どちらが簡単かということは、はっきりということはできない。研究には研究の難しさがあります。「客観的」でない、ある種実践的な、というよりも実用的な読み方もまた、特有の難しさを持っています。殊に研究者は長いこと大学で研究を続けていることもあって、自分が身に付けてきた読み方が、制度によって保障された質の高い読み方であることを誇るきらいがあります。自分のやっていることに誇りを持つのは悪いことではありませんが、これは本当に一面的な見方であると言えるでしょう。私もやってみてわかりましたが、客観的に書こうとする作業はある意味で楽です。なんにでもくっつくはずの理屈(や教訓)といったものをテクストのうちに見いだすのは、本当に難しい。

とまれ、複数の読み方を意識的に引き受ける人は多くなく、また他の読み方を毛嫌いする人もいるのであってみれば、ふたつの読み方のいいとこどりをしようという姿勢には、眉をひそめる人もいるでしょう。教訓を求める、いわば気まま勝手な読書と言うものを嫌う研究者はかなりいます。また、誠実な研究者の読み方というものを「役に立たない」「頭でっかちだ」と毛嫌いする実践家も決して少なくはないのです。
ですが、スキュラとカリュブディスの間を切り抜けつつ、この2つの怪物から学んだ別々の態度を、別々のところで自在に発揮できるようになれば、自分の文脈が広がり、ある意味で「保険をかける」ことが、ひいては豊かに生きることができるようになると考えられるからこそ、そうしている部分があります。終局的にはどちらかに偏るかもしれませんし、それならそれで良いと思っていますが、外を知って引きこもることと、一生引きこもりつづけることは似て非なるものです。

そこで、(研究的な読み方しかしてこなかった)私が手ずから教訓を引き出せるようになるにはどうすれば良いか、という点が課題となりますが、これもやはり、基本的には他人が何をやっているかを見て模倣するほかないのでしょう。
具体的に挙げるのは避けますが、ある意味では自分に都合の良いことを読み取りまくって、「成果」らしきものをあげている尊敬すべき先行者は数多くあるので、彼ら彼女らのテクストを分析しながらやっている、という次第です。


以上には具体例として2つの方向での読み方の獲得について見てみましたが、これに教訓をくっつけてみるなら、なんにせよある程度重要な営みに参入するには心理的なコストと時間的なコストがかかる、ということは分かると思われます。

何か重要なものを、一定程度歴史の洗礼を経て成立している制度や慣習や定石を無視したかたちで容易く身に付けられる、という種類のうたい文句には強い心理的抵抗を覚えます。

もちろん無駄な苦労をする必要はありませんが、必要な努力を惜しむような人間でも僅かな時間で容易く身に付けられる技術や態勢というものに、果たしてどれほどの価値があるというのでしょうか。価値のある能力や態度を身に付けたいと思うのであれば、まずは心理的コストと時間的コストを支払う覚悟があるのかどうかを我が身に問うべきでしょう。


とりわけ読み・書くことにおいて、或る意味で分裂する覚悟が求められることがある。あるいは分裂したいと思うことがある。それはとりもなおさず、鷹の翼と、獅子の牙と、人の手を使い分けるべきときが、スキュラにもカリュブディスにも負けない強靭なキメラたらんと思うときが来るということです。小手先の技術をいくつも身に付けようと言う話ではなく、複数の戦略・複数の態勢を持つと言うことです。

分裂する覚悟というのは、複数の「読み方」や書き方を意識的に引き受ける覚悟でもあります。長年慣れ親しんだ読み方を捨てて、ときに相容れないように見える読み方を受け入れてやってみる覚悟でもあります。つまり魂を部分的に売る覚悟でもあります。

売った魂はいずれ買い戻すかもしれません。あるいは魂を売り払って買ったはずのグロテスクな牙や爪や翼に慣れて、魂のほうがキメラ的身体にあわせてすがたを変えるかもしれません。いずれにせよ、魂を売ることには痛みが伴われるかもしれませんが、得られる果実も大きなものかもしれない、と思われます。
足に加えて翼を得れば高みからものを見つめられるでしょうし、牙があればもっと多くのものを噛み砕けるでしょうし、究極的には売ってみなければわからないことといえるでしょう。

もちろん、「魂を売る」にも時間と一定の労力が必要なので、万人に勧めるわけではありませんが、とりわけ時間的余裕を持っていて、自らの「読み方」(=生き方)に疑問を持つ人は、他の生き方を取り入れる覚悟を、今ここで決めてもよいのではないでしょうか(……と、自分に言い聞かせるのです)。