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「マーク・マンダースの不在」展@東京都現代美術館

6月20日(日)。当初はサントリー美術館の「ミネアポリス美術館展」に行く予定でいたが、とある展覧会の閉幕が近づいていると知って急遽、予定を変更した。(ごめんねサントリー。27日の閉幕までに必ず行きます!)

それが東京都現代美術館の「マーク・マンダース マーク・マンダースの不在」展。

マンダースは、1968年オランダのフォルケル生まれ。現在はベルギーのロンセにスタジオを構えています。1986年、18歳のときに、自伝的な要素を含む小説執筆の試みを契機に得たと言う「建物としての自画像」という構想に沿って、以降30年以上にわたって一貫した制作を続けています。その構想とは、自身が架空の芸術家として名付けた、「マーク・マンダース」という人物の自画像を「建物」の枠組みを用いて構築するというもの。その建物の部屋に置くための彫刻やオブジェを次々と生み出しインスタレーションとして展開することで、作品の配置全体によって人の像を構築するという、きわめて大きな、そしてユニークな枠組みをもつ世界を展開しています。
                     (展覧会HPより一部抜粋)

…難しい(「なんのこっちゃ」というのが行く前の率直な感想でした)。難しいが、「マーク・マンダース」とは、実在するアーティストの作品であって、架空の”芸術家”であり、展覧会の会場で観ることのできる作品は常にその両方の側面を持つという事と解釈した。あるいは架空の芸術家である”マーク・マンダース”の作品群の展示(不在)こそが「マーク・マンダース」の作品という、包括的な関係とも言えようか。

※今回の図録を購入していない&会場内にはほぼ全くと言っていいほど解説がないゆえ、あくまで私の感想(解釈)でしかないので、理解が足りない点多々あると思います。

1.「わからない」の渋滞

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手前:《マインド・スタディ》、奥の壁:《短く悲しい思考》

 まず本展では「わからない」ことだらけである。まるで粘土のようなのにその素材は悉くブロンズ。ブロンズってこんな粘土みたいに作れるんだっけ?(制作過程は会場外のインタビュー映像で多少解決するが会場内では説明なし)そして写真のように作品タイトルも「??」なものが多い。上記のタイトルならまだ良い方で、

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《黄色と青のコンポジション》

……でしょーね!その黄色と青が何を意味しているのかを知りたいんだよー。何で”黄色”が目に刺さってんのー??ヒントをくれ―!

という「わからない」の渋滞が起こる。

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《4つの黄色い縦のコンポジション》

上の写真の作品は割と序盤で観ることができるのだが、もうこの辺りから「タイトルに(作品理解のヒントを)期待するのは諦めよう」となってくる(笑)(と言いつつ、最後までいちいちチェックするのだが)

2.重さと脆さ

 さて、そろそろ作品自体の感想に本腰を入れていこう。何やら「黄色」が重要そうだ。どの像も左目に陥没するように「黄色」が刺さっている。痛ましい状態なのに、苦痛の表情は誰もしていない。色々と疑問は尽きないが、インタビューによると、作家の母親が心を度々病んだ時、作家は「脳とはなんと複雑で脆いものなのか…」ということを強く思ったようだ。そうした環境の中で過ごした青春時代が作品作りの根源にある。そうした背景を基にして考えると、なるほど脆さというのは良く分かる。キレイに仕上がっていない、いや、仕上がっていたものが次第にひび割れボロボロと壊れていく(ように作っている)様は、そうした人間の思考の脆さを表しているのだろう。
 一方でブロンズという素材、見るからに重そうだ。この重さが則ち思考のなのかもしれない。手間暇かけて作り上げ重くなってしまうものでも、壊れる時は壊れてしまう脆いもの。そうした比喩が込められているように思える。そう思えば多くの作品が静かに目を閉じている。これは瞑想(思考する)の象徴でもあるのではないか。

では「黄色」とは?

3.建物としての自画像=廃墟?

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《乾いた土の頭部》

 しかし、なぜこれほどまでに巨大なのか。その巨大さ故に、人物像というよりは廃墟のようだ。…廃墟。もしかするとそうなのかもしれない。「死」という完全に消える(あるいはゼロになる)状態ではなく、物体として残りはするが”機能はしていない”という状態。これが作家の母親が(精神?)を病んだ状態とそのままなぞらえて良いかは、安直なことは言えないので控えるが、「思考」することの意味、それが何かしらの理由によってできなくなった者とはいかなる存在と言えるのか…そうした複雑な問題を目まぐるしく考えて行きついた答えではないのだろうか。

そう綴りながら祖母の事を思い出した。私が高校生の時に他界したが、その数年前から寝たきり状態になり、話しかければある程度元気に返事はするが、誰が誰かはもう判別はできず、母とヘルパーの介護なしには生活できない状態だった。そうした祖母に対して私は純粋無垢に「おばあちゃん、元気?」と言えなかった。元気だった頃と変わらず「風邪ひいてない?」「最近暑いなー大丈夫?」などと声を掛ける兄や姉が不思議でならなった。

「自分の意志で動くこともできず、天井しか見ることのできない(天井すらまともに見えているかどうか怪しい)この状態で、暑いとか寒いとかそういう問題? 今この人は”生きている”と言えるの?」

と内心ずっと思っていた。我ながらひどい孫だと思って悟られないように取り繕っていたが、祖母の死後何かの折にその話になって、私が素直な気持ちで祖母に話しかけていなかったことが家族全員に悟られていたと知った(女優の才能はなさそうだ)。私は家族から「ひどい奴」と蔑まれると恐怖したが、その時父は庇うでもなく、かといって批判するでもなく「〇〇(私の名)は感受性が強くて、”寝たきり”ということをものすごく強烈に感じたんだろう。重く受け止めてたから言葉が出なかったんだろう」というようなことを言ってくれた。これほど父の言葉に救われたことはなかった。(当時も思ったが、そういう私の状態を把握した上で黙って見守り続けてくれた父の在り方に感謝している。これが「親の無償の愛」なのかと思った時だった)

…話が横道に逸れてしまった。…でもこれが狙いかもしれない。”廃墟”とは”かつて存在していたものの残骸”で、ノスタルジックなものだ。思い出を掻き立てるのには格好の装置だ。そういえば冒頭に載せた展覧会の概要の部分でも作家の制作コンセプトに「建物としての自画像」というフレーズがあった。自画像は基本的に「過去の記録(記憶)」だ。廃墟というイメージは恐らくそう的外れとも言えないのではないか(と勝手に信じよう)。
 会場にはほとんど解説がない。作家個人の記憶に焦点を当てず、作品をきっかけに鑑賞者がそれぞれの記憶にアクセスするのを狙っているのかもしれない。パンドラの箱を開けてしまうこと。「マーク・マンダース」展なのにその展覧会名が「マーク・マンダースの不在」であるというのは、作品の持つ意味を作家個人の話に帰結させないようにしているのか。

4.思考(言葉)VS「黄色」

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《黄色い鉛筆のある土の像》

 「黄色」問題は未だ解決していないが、撮影可能エリア内の作品で手がかりとなる作品が上の写真《黄色い鉛筆のある土の像》だ。一見すると分かりづらいが、おそらくビニールで覆われている土の像は、毛があることと全体の形状から人間の上半身を表していると考えられる。その左腕に当たる位置から出た折れ曲がった鉄の先に糸で黄色い鉛筆が吊られている。その鉛筆の先にあるのは丸い窪み。この窪みが明らかに左目の位置にあれば、これまでの作品との共通性をいう事ができるが、今回は顔面の中央に円形である。この違いをどう見るべきは咀嚼しきれていないが、「黄色」は明らかに人体を害そうとしている。(この作品では、左手から伸びた鉄、そこから出る「黄色」という事は自分で自分を傷つけているという事にならないだろうか…)

目や顔の中央にインパクトを与える「黄色」。何だか「人間の営み(思考)」に対する外圧のようなものだろうか。そうした仮説を抱きながら会場を進むと、後半で《全ての単語(黄色を含む)》という作品が登場する。これは新聞紙(本当に流通している新聞ではなく、作家がわざわざ新聞紙っぽく作っているもの)の中央に長方形の「黄色」の板が置かれている。よく見れば新聞の下にも2つの「黄色」の板がのぞいている。「新聞紙」が「全ての単語」を表しているならば、その新聞紙を押しつぶすように乗る「黄色」とは何であろうか。安易な発想であれば「言語表現」に対する「圧力」であろうか。「思考(言葉)」に対しての「黄色」という対立関係が見え隠れする。「黄色」ではないが、《影の習作》という作品では、骨のような形をしたオブジェ。その骨の両サイドにはそれぞれナイフとシャーペンが取り付けられている。そしてその骨の上には逆さにつられたティーカップ。この作品から連想したのは「ペンは剣よりも強し」ということだ。というかペンも剣も人を傷つける事ができるという事、そして逆さにつられたティーカップは「覆水盆に返らず」。(外国の諺にあるのかどうか不明だが)「思考=言葉=単語」というものに対する「圧力」を意識していたのではないかと考える。しかしその「外圧」が具体的に何なのかが今回の鑑賞中には捕まえることができなかった。

5.タイトルを考えてみよう

これは私と一緒に見に行った友人が2人で「わからない…」となった挙句、展覧会を楽しむための苦肉の策だったのだが(笑)、ハンドブックを見る前にタイトルをそれぞれ考えてみた。さぁ皆さんもぜひ次の作品のタイトルを考えてみてほしい。

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 何か思いついただろうか。ちなみに私は「3つの思考をする像」だ。全体のフォルムが人物の上半身に見えるので、恐らく上の四角い箱上になっている部分は顔だろう。3つのマッチっぽい形状が何かは分からない。高さがちがうのもどういう意味かまでは咀嚼しきれなかった(ぼんやりと幼少期・青年期・壮年(高齢)期かなとも思った)。

 正解は、、、《像の習作》。習作かーい!!!!!と友人と2人で大いにツッコんでしまった(笑)ちなみにこの後何回か「タイトルを考えよう」を試みたが、やってみようと言った作品が大体《○○の習作》だった。でもこの展覧会はこのゲームが割と有効だと思った。作品から受け取る印象も人それぞれなので、何が正解ということではなく、何をフックにして何を思うか、その違いが面白い。ちなみに前述の《影の習作》では、私は「殺された者(あるいは刺された者)」と題した。前述の通りペンとナイフが骨を挟んでいるという状況が、「ペンは剣よりも強し」、つまりペンも剣(刃物)も人を殺める(傷つける)ことができる、という事を表そうとしたのではと解釈したからだ。

6.作者「不在」の展覧会

これは「マーク・マンダース」展であり「マーク・マンダースの不在」展だ。この「不在」を本展では次のように説明する。

タイトルにある「不在(Absence)」は、インスタレーションに見られる時間が凍結したような感覚や静寂、既に立ち去った人の痕跡、作家本人と架空の芸術家との間で明滅する主体など、マンダース作品全体の鍵語として複数の意味を担うものですが、それはまたこの建物が作家の不在においても作品として自律的に存在し続けるものの謂いでもあるでしょう。
                     (展覧会HPより一部抜粋)

 確かに会場内は、ビニールシートに覆われた空間をつくるなど、まるで作家のアトリエの中にいるかのような方法も取られており、「そこにかつていた」ことを想起させるようにしてある(あえて言えば”不在”の”存在”か)。 

 ただ私の印象としては、「これほどまでに作家個人の事が気にならない展示もないな」と思った。つまり「作家個人の不在」なのだ。既に述べたことの繰り返しになるのだが、「どういう風に作っているんだろう」「どういう事を表現しているんだろう」という作品に対する疑問や関心は抱くものの「マーク・マンダースってどんな人なんだろう」という疑問は不思議なくらい起きないのだ。途中《ドローイングの廊下》では、軽いトラウマになるレベルの不穏な落書きのような奇妙な生き物や人体、光景等々のドローイングが展示されているものの、だからといってそれが直接「この作家ってどういう人なんだろう」という関心にならない。実在のマーク・マンダースと鑑賞者の間には常に「マーク・マンダースという架空の芸術家」という虚像があることが一因なのだろう。どこまで見ても捉えることができない感覚だ。(これは以前千葉市美でみた「目 非常にはっきりとわからない」展の感覚と近い。)

おわりに

 この展覧会の事はtwitterなどでそのメインビジュアルを見て、直観的に面白そうと思っていたが、実際に観て、総合的に非常に見応えのある展示だった。図録が少しお高めだったので購入を断念したので、もしかすると作者やキュレーターの意図とは異なる解釈もしているだろう。取りこぼしていることも多いはずだ。でもまぁ会場内に詳しい解説をつけないんだからしょうがないと割り切って(笑)、こういう風に感じる人もいるんだー、とご笑覧いただければ幸いだ。

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