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【年の初め】に思うタトゥーとコロナと食堂と【雑記】【社会学ファン】

タトゥーに関する話題がまた盛り上がっております。
昔からもめることも多いですし、各国でも学術的なテーマになることもありますので、良し悪しは置いておいて象徴的な文化なのでしょうねー

今回のことに関しても数分ネットをさらっただけでも、曰く、格闘技と言う性質上暴力と結びつく入れ墨は、日本人の古くささ、スポーツマンとして、ファッションに対しての理解が、それ自体の良し悪しでなくルールなのでetcetc

ボクシングにもタトゥーにも興味がない僕は日和見を決め込んでおりまして、というか日和見とは旗色をみてどちらにつくことなので、それですらもないと言うことで、夕方のニュースに流れるペンギンの行進レベルで眺めております。ボクシングファンやタトゥー関係者にとってはいろいろ大きな問題ですよね。

あえていえば、タトゥーというか般若や菩薩や桜吹雪を背負っちゃってるお兄様方をお風呂で見たらさすがにお近づきにはなりたくないくらいのもんですが、幾何学模様や動植物のタトゥーを見たって「入れるとき痛そうだな」と思うくらいです。
ただ、今鬼滅とかオリンピックのマスコットのタトゥーを入れている人がいたら向こう20年遠くから見ていたいなーっとは思います。

閑話休題

さて、コロナ下の年末年始出かける人出かけない人も様々。
それぞれの事情や考えやまたは何も考えてなかったり色々なのでしょうが、色々思うところが出てくる年末でございました。

好きなラジオのパーソナリティが 「帰省をやめる人もいて、いろいろ事情があって帰省する人がいてそれは様々なのだけれども、帰省した人がテレビのインタビューに答えなくてもいいし、帰省したうえで『近所の人が食事に誘ってきた』と怒る人前いて(価値観のばらつきって)スゲーっと思った」とのお話をしておりました。
本当に今のご時世何が善くて何が悪いのか揺らいでいるのだなーと感じたりします。
私が経験したことでも、人によってはそれでピリピリしているかたもいらっしゃいまして、「県外ナンバーが来ているのは店でバーベキューの素材を売り出ししているからだ」とか「マスクをつけてるやつなんてアホだ」とか「年配者のような弱者が守られていない」とか「年寄りは寝てろ」とか、本当に皆同じ国のことを言っているのかなーっと思ったりします。
実際、「生きている現実」が違うんでしょうねー

社会問題の社会学やら社会構築主義的には、「社会問題とはそれ自体が問題なのではなく、目の前の現実をどう定義づけされるか(もしくはされないか)の過程だ」とかいったりしますけれども、タトゥーや昨今のコロナに関しても、まさに今の世界がどのようなものかの認識の争いや、その状況に対しての定義付けが揺らいでるということように思えてきます。

そういえば蛇足ですが、「お母さん食堂」問題もそうですよね。
「家事を『母親』に押し付けるのか」という話から始まったのが、一部で賛同されつつ、「またフェミが騒いで」と戯画化されたり、「その主張自体はわかるがなぜ『お母さん食堂』だけたたかれる」と議論が広がったり、「企業活動の表現の自由」という側面に飛び火したり非常に幅広い認識があって、おもしろいなーっと思ってます。
さらにはこれはこれでどう解釈されるのか、「お母さん食堂改名を求める『女子高生』」という『女子高生』というフレームでまとめている記事もどういう意図があるかは置いておいて面白いですね。

タトゥーも食堂もそうですが、やはり2000年代はさらに自由が広がりそれを表現する方法も浸透し、量も増え、質も多層的になり、個々が抱えていた多様性が表出するようになってるのかなっと思います。
つまり、今眼前の状況はどのような状況でそれはどのような意味があるのか、すごく揺らいでいるのでしょうねぇ

僕として一程度の揺らぎや危機があったとしても、それで個々人の生きづらさが減るのならいことかなーと思います。
ただそこで絶対に必要なのは、「ひとつの善い世界」を目指すことでなく、皆が皆自分にとっての「悪」を見つけしかしそれを排除することなく、苦々しく思いながら苦しむことができる複数性なのかなーっと年の初めの喧騒を見て思う今日この頃です。


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