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【ジェンダー】女性もいるのに、”僕ら”を使ってもいいのか問題

自身で手掛けている働き方の祭典「Tokyo Work Design Week」の時期が近づいてきた。そこで、全体の方向性を定めるためのテーマについて、メンバーと喧々諤々やりながら、ひとつのテーマ案が浮かんできたのがコレ。

「2020年の世界で、僕らが学んだこと」


開催時期がほぼ年末ということもあり、大騒動となった今年の一年を振り返る意味でもよい道標になると思ったからだ。(悪くないだろう)

しかし、みなさんはこのタイトルを見て、お気づきだろうか。やってはいけないことをやってしまっていたようだ。印象をヒアリングするために十数人に見てもらった中で、3人からめちゃくちゃ怒られた。(ちなみに3人の内、一人はロサンゼルスに住んでいる女性、一人はロンドンに留学が決まっていて、一人は海外誌での編集者経験がある男性)

・”僕ら”というのはいかがなものか。
・”僕ら”や”僕たち”が通用したのは2010年代まで。2020年代はそれを許してくれない。
・これ海外だったら袋叩きにあいますよ

つまるところ、この3人の指摘とは、ジェンダーやマイノリティをはじめとする人権の問題が潜んでいるというのものだ。「いやいや考えすぎでしょ」「そんなテレビ番組もあるし、誰も気にしてないっすよ」「言葉狩りに屈しちゃダメ」なんて思っている人のほうがまだ多いかもしれない。私もその一人だった。でも、TWDWの場合で考えると、スタッフの中には女性スタッフや登壇者もいるわけで、”僕ら”を使うことは彼女たちの存在自体を無死したり否定してしまうことにもなりかねない。むしろオーガナイザーとしては女性登壇者やスタッフの数を半分にしたいと思っているわけで。また、”僕ら”を扱うことは、一方で”僕らではない人”がいることを示唆する。あえて分けて区切ることの必要性や哲学をここでは問われることになるし、その結果としてガチガチの理論武装を固めてしまうことにもなりかねない。

Black Lives Matterをはじめ、ダイバシティ&インクルージョンが当然と叫ばれれていく中で、「知らなかった」では済まされなくなる。そう、SDGsのコアメッセージである「誰ひとり取り残さない(leave no one behind)」を掲げる現代社会においては、主語の設定ひとつをとっても大問題になってくる時代なのである。もはや、テレビや雑誌や映画、音楽で、無自覚のまま、気分で使われていた”僕ら”という代名詞は捨てなくてはいけない。


ついつい、「僕ら」という言葉を使っていないだろうか。振り返ってほしい。「僕ら」という言葉を扱うことによって、無自覚のうちに隠蔽してしまうものはないだろうか。「僕ら」とはいったい誰を指して、誰を指していないだろうか。ちなみに僕は2016年にこんな本を出版しているが、今となっては受け入れられるものではないのかもしれないなぁとしみじみしたりする。


「僕ら」という代名詞を「私たち」に変えてみたり、「ボクら」にして開いてみたり、「みんな」にしたらとも頭をよぎるけれども、これは決してそんな表層的な問題ではないはずだ。構造や視点を変えなければならない。

最終的に、全体のテーマはこうなった。

「2020年の世界で、働き方が学んだこと」


「僕ら」を主語に使う代わりに「働き方」へ変更を行った。そうすることで、働き方が主体であることを強く打ち出したメッセージになったのではないだろうか。そして、全員が参加できるインクルージョンな立て付けにもなっている。加えて、「働き方」という概念に対して、人格を授けたことでより世界が広がっていくような感覚も覚えてもらえたら嬉しい限りだ。


今年もおかげさまで、11月17日から7日間に渡って、働き方の祭典を催すことになる。今年はオンラインでの開催がメインになり、首都圏だけでなく全国の参加者と共に、これからの働き方について学びあい、創りだしていく機会にしたい。「誰ひとり取り残さない」ような想いを背負って、2020年版のラインナップ発表は、10月下旬になる予定だ。




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