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二極化の時代を生きるには……

このところ、二極化という言葉をよく耳にします。
貧富の差の話や、今年起きた変化の波に「乗れる人」と「乗れない人」など……。

「二」という数字は、分裂や対立を連想させます。
では、「一」がよいかというと、そうとも限りません。
社会が「画一的」であったり、誰か独りに権限が集まり過ぎる「独裁」は危険です。
日本では長年、人口の東京「一極」集中が問題視されてきました。
複数の選択肢やカラーがあるのは、単一よりはよいとされます。

しかし、二つの選択肢があり、それが対立構造にあると、人は「賛成」か「反対」かの極端な選択を迫られます。
全員が二択のどちらかへ吸収されることにより、対立、分裂の形が鮮明になるのです。
結果として、もともと好戦的ではなかった人も戦わざるを得なくなります。

例えば、自分が貧乏な場合、もし二極分化していない社会であれば、その人はお金を稼いで豊かになる道を考え、ほどほどに努力するでしょう。大金持ちにはなれなくとも、人並みの暮らしができるようになり、満足するかもしれません。

ところが、二極化がはっきりした社会では、大富豪と貧困者は住む世界がまるで違い、食べる物も着る物も、家も教育も、人脈もすべて違い、貧乏な人が経済的に成功することは無理と感じられます。
金持ちは、もともとある財でうまくビジネスを回し、多くの人を雇ったり、儲かる会社へ投資をしたりして、ますます豊かになるばかりです。
貧困者は富裕層の儲けのために、安い賃金で一生こき使われるのです。
こうした世の中では、貧困者は富裕層を批判し、戦うしかないと感じます。

日本の武士は、嫌というほど戦いをしてきました。源平合戦を行なったり、東軍と西軍で戦ったり、御家騒動で二派に分かれて権力を奪い合ったり……。
江戸時代にも、もちろん様々な対立があったと思います。
しかし、江戸の場合、それによって社会全体が大きく揺らいだり、壊れることはありませんでした。
それはなぜでしょうか?

江戸幕府の国家運営は「三極」を基本としていたからです。
これを象徴する例のひとつは御三家です。武家の御家騒動では、たいてい跡取りの候補が二人出てきて争います。ですから、家康の子孫で御三家をつくり、これが将軍家を支えるという構造にしました。
将軍に子がない場合、御三家から男子を立てるのです。

例えば、八代将軍の吉宗は御三家の中の紀州徳川家から将軍になりました。残る尾張と水戸の徳川家は残念だったでしょうが、二家ですからまだ問題はありません。
もし、一つの御家が将軍を出し、もう一つの御家が負けたとなれば、面目を失い大変なことになっていたでしょう。
御三家のうち、一家だけが選ばれるのならば、まあ平和ということです。

人口が集中する都市に関しても、江戸時代の日本は三極の形をとりました。
まずは京都、これは古くからの都です。そして、政治の中心は関東の江戸。江戸は大都市になっていきましたが、経済の中心は大坂とされました。

「世界を江戸時代に」──私の願いの中には、今の二極化時代を乗り越え、三極を基本感覚とした平和な時代をつくっていきたい、という心も込められています。

日本は今、人口の偏りが是正される方向へ動き出しました。東京一極集中といわれていた人々が、地方へ分散し始めたのです。
リモートワークの普及等によって、これは加速するでしょう。

誰もが何となく東京に憧れていた昭和の時代。実質的に東京に仕事が集まり過ぎていた平成の時代。これを経て今、冷静に、何が一番幸せか、ということを皆が問い始めました。真に合理的な働き方や暮らしとはどのようなものかを、考え直す時が来たのです。

しばらくの間、東京一極集中が続いたことで、東京生まれ、東京育ちの若者が増えました。これは、無闇に東京に憧れる人が減ったということです。今後はむしろ、自然豊かな田舎の生活に憧れる人が増えるでしょう。いや、すでに、その傾向は様々な形で見えています。

私は歴史が好きで、昔の人を尊敬していますが、リモートワークなどを推進するのは賛成です。新しい技術は、おおむね歓迎したいという考えです。
新しい働き方、生き方を創り上げる過程で、人の頭と心は柔軟になります。これが重要です。

柔軟になった心で、昔の人の素晴らしさ、精神的な豊かさなどを見直せば、多くの気づきが得られるでしょう。
リモートワーク等の技術を活かし、通勤などのストレスから解放されることも大事です。

ところで、江戸時代の人々は貧富の差をどのようにとらえていたのでしょう。
徳川幕府は富裕層の贅沢を取り締まりました。贅沢禁止令がたびたび出されたのです。
その取り締まりを行なう武士は特権階級でしたが、ほとんどはかなり貧乏でした。商人や豪農より貧しい侍など、いくらでもいました。
金が集まるところと権力が集まるところが、別になっている。これが貧富の二極化を防いだのです。

しかし、次第に賄賂が横行し、権力者のもとに金が集まり出し、武士や商人が貧しい農民などへ目を向けなくなって社会が乱れました。これが幕末へつながったのだと思います。

何かを得た人が、ますます欲しがり、すべてを得ようとする。これが二極化の原因のひとつだと考えられます。
すべてを得る必要はありません。すべてにおいて、勝つ必要もないのです。

お金はあるが、地位や名誉はない。逆にお金はあまりないが、誇れるものはある。それでいいのだと思います。
お金も地位も名誉も、幸せな家庭も健康も……すべて得たつもりでも、「どうもあの人には頭が上がらないなあ」と感じるような人がいる。これが正常な人間ではないでしょうか。

勝ち負けを忘れ、すべては結局、ジャンケンのように巡り巡っている、と、皆が冷静にとらえるのが平和な社会だと思います。
どこかで対立が起きたら、一方へ加担せず、自分が第三極になる勇気をもちましょう。
冷静さとオリジナリティーがあれば、きっとできます。

固定された価値観の中で戦うことに時間やパワーを使う代わりに、三つ目の選択肢や観点を創造することにエネルギーを使う。それができれば、きっと社会で大きな存在感を示せるでしょう。「戦わずして勝つ」とは、そういうことだと思います。

とはいえ、今は世界中で二極化が進んでいるといいます。その通りかもしれません。
ただ、私の見方では、二極化しているというより、二極化の問題点が浮き彫りになってきた、という感じです。
今までは二つの選択肢をもつことがよいことだと信じていた人も多かったかもしれませんが、その弊害が大きく見え始めたのです。

昔は、貧富の差があっても、特に問題視せず、自分が夢をもって豊かさを追求する、という傾向が強かったと思います。
自分さえ富裕層に食い込めれば、それでいいと考えていたのでしょう。

しかし、今はより社会全体について考える人が増えていると感じます。世界全体、地球全体が視野に入っているのです。自分だけお金を持っていればよいのか? お金さえ持っていれば安泰なのか? そんなことはない。社会や自然環境が安定しなければ、人間は生きていけないのだ。
考えてみれば当たり前、しかし、皆が忘れていた大事な道理に気づいたのです。
これは二極時代の終わりが近づいている、よい兆しだと思います。

何でも二つに分けて、「賛成」「反対」と唱えていても、幸せになれるとは思えません。そもそも、二択から選ぶなど無理で、不自然なのです。
微妙な感覚や細部をすべて切り捨て、自分の本心とは必ずしも一致しない意見に賛成を表明しなければならない。これは残念です。
しかし、自分の心とは多少ずれていても、どちらかに賛成しなければ、自分の意見は無いものとされるため妥協する、というのが二択の悲しさです。

不自然に争点を決め、戦った先に何があるのでしょうか。戦って勝てば、一瞬、優越感に浸れたり、利益や達成感が得られるかもしれません。しかし、長くは続かないでしょう。
まず、権力者や富裕層が思い切って我欲を捨て、皆の幸せを求める「心」をもつこと。これが問題解決の鍵だと思います。

江戸時代の人々は「欲」の恐ろしさを知っていました。精神的に成熟していたのです。
金銀財宝に囲まれて、泥棒に怯えながら暮らすより、町中の人々が楽しげに笑う様を見るほうが、幸せだと知っていたのです。
自分が威張るより、さりげなく他人に情けをかけて喜んでもらえたほうが、深い満足感が得られる。そういう粋な価値観を重視していたのだと思います。

強欲な人や無慈悲な人は「心ない人」と言って、非難されました。鈍感に無視する人もいたでしょうが、江戸時代の日本では難しかったことでしょう。

まずは自分が、人の気持ちや痛みを想像し、「心ある人」として生きたいものです。
心をなくせば楽な面もありますが、幸せや喜びも感じられなくなります。
逆に、自分の心を磨き上げ、豊かにしておけば、ほどほどの境遇で、極楽のように楽しく暮らせることでしょう。

何事も「良い、悪い」とか「勝ち、負け」とか「損、得」とか「賛成、反対」などに分けて考えず、二極の縛りから解き放たれていきましょう。
他にも何かある。皆がまだ気づいていないところに、最も良い選択肢があるかもしれない。そういう発想で、大きく構えてみると、世界の見え方が変わるような気がします。

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