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天獄発狂頭巾 天ノ巻

天獄発狂頭巾とは?

痛怪時代劇 発狂頭巾第5シーズンには没プロットの中に今までの方向性をがらりと変えるものがありました。後年にそのうちの一つを再構成し、ダークヒーロー的な面をより一層強めたのが天獄発狂頭巾です。

20■■年に起きた撮影所の火災によって撮影フィルムの大部分は焼失してしまいましたが、【天ノ巻】【獄ノ巻】【狂ノ巻】から構成される三部作であったという記録が残っています。

発狂頭巾本編に関しては下記リンクをご参照ください。


#1

 それは同心、紅山百太郎べにやまひゃくたろうが角を曲がり、長屋の入り口へ飛び込んだ時であった。

「ほ」

 息を呑む。立ち止まる。急いでいた事も一瞬忘れて。
 遅れて飛び込んだ岡っ引きのハチが、百太郎の背にぶつかりかけてつんのめった。

「おわっとっと! どうしたんですかい紅白のダンナ」
「ホトケさんが出た時はその呼び方やめろっつってんだろハチ。ただまあ、なんだ」

 ハチを振り返りもせず、百太郎は長屋を眺める。

「こんなに早く対面するたァ思わなかったのよ」
「へ? ああ、へっへっへ。ダンナは初めてでしたかい? この『ホトケ長屋』に来なすったのは」
「ああ、その通りよ」

 一口に長屋と言ったとて、其処此処の生活習慣収入などなどによって、表情は千差万別の福笑い。西に百間長屋があれば、東に戸無し長屋がある。同じ顔のものなぞ一つもありはしない。江戸の常識の一つだ。

 だが。そうした常識を抜きにしても、この『ホトケ長屋』は異様であった。
 仏像が、そこかしこに並んでいるのだ。

 小さいものは手に乗るような、大きいものは百太郎の背丈と同じくらい。
 まっすぐ立っているもの、やや傾いているもの、柱に直接彫ってあるもの。
 右を見ても左を見ても、仏像が目に入らない場所はない。故にここは『ホトケ長屋』なのだ。

「話に聞いちゃあいたが、こいつァ、また。そんじょそこらのお寺サンより、よっぽど有り難みがありそうだなァ」

 しげしげと見回しながら、百太郎は道を進む。すれ違う町人たちは仏像を気にした様子もない。当たり前の光景だからだ。

「そうでしょうとも! お江戸八百八町、いやさ日の本ひのもと広しと言えど、仏様の宿場になってる長屋なんてえのはここを置いて他にありませんぜ!」
「そりゃそうだろうがなんでお前さんが得意気なんだね。んで、これを全部やったのがたった一人の仏師の」

 再び、百太郎は足を止める。右を見る。弾かれたように。

「ええ、そうです。どっかから流れて来なすった仏師の吉貝さん。下の名前は、エート何だったかな」
「ヤ、名前はいい。ソイツの住処ってエのは、ひょっとすると、ここかね」
「え? あ、あーそうそうそうですよ。よく分かりましたねダンナ、表札もねえのに」
「そうだな。ま、ヤマカンよ」

 百太郎は茶を濁したが、それは半分嘘である。彼は嗅ぎ取ったのだ。
 微かな。しかし確かな、血のにおいを。

 百太郎はもはや完全に向きを変え、仏師吉貝の住処の玄関に手をかけた。

「ちょっ、ダンナ? 何してるんです?」
「ちと拝みたくなったのよ。仏様の宿場の元締めの顔をよ」

#2

「邪、魔、する、ぜッ! と。あーひでえ立て付けだな」
「へっへっへ、開け方に開け方にコツがあるんですよダンナ。初見さんにゃあちと厳しかったかもしれないですけどネ」
「お前ほんと詳しいな。まあそれよりだ」

 こつこつ。かりかり。
 こつこつ。かりかり。

 薄暗い部屋の中央。棒と、木屑と、丸太と、木片。毛氈めいて床を埋めるそれらの上で、作りかけ、あるいは完成したおびただしい数の仏像に囲まれながら、一心不乱に小刀を動かす男が一人。

「ちょっくら邪魔して悪いがね。アンタが」

 こつこつ。かりかり。
 こつこつ。かりかり。

「あー。アンタが仏師の、吉貝さんかい」

 こつこつ。かりかり。
 こつこつ。かりん。

 百太郎に名を呼ばれ、ようやく男は、吉貝は手を止めた。
 振り返る。ざんばらの黒髪がばたばたと踊る。

 知らず、百太郎は息を呑んだ。ホトケ長屋へ踏み入った時よりも、遥かに深く。
 長い長い髪。首から上が巨大な蓑虫であるかのよう。それだけでも異様であるが、百太郎をたじろがせたのはそれではない。

 眼。
 前髪の隙間から覗く双眸に、この世のものとは思えぬうろを見たからである。
 暗い。あまりに暗いまなざし。黒い前髪がいっそ透けて思える程の。

「ああ」

 吉貝は口を開く。虚が、百太郎を見据える。そして。

「よくぞ、いらっしゃいました。紅山百太郎さま。全てを終わらせて頂ける御方。有り難う存じます。有り難う、存じます」

 居住まいを正し、深々と頭を下げた。

「な、に?」
「ですが早い。まだ早い。手前の贖罪は、未だ終わっておりませぬ。まだ、御仏の数が足りませぬ」
「何を、言って」
「あーダメですよダンナ。吉貝サンはこうなるともう梃子でもダメなんでさ」

 ハチは百太郎を振り返らせ、指をコメカミ辺りでぐるぐる回す。それからささやく。

「いつもはもうなんぼか話せるお人なんですがネ。なんかの拍子で、こう、人が変わっちまう時が来るんでさ。そうなるともうガーッと仏様を彫って彫って彫りまくって、落ち着くまで止まらないんでさア」
「なる、ほど」

 であれば、合点は行く。ホトケ長屋の有様、この部屋の中の光景、先程見た双眸の深みさえも。
 だが、だから。唯一納得できないのは。

「それでもちと聞かせて欲しいんだがね、吉貝さん。最近、怪我をしなかったかい」

 吉貝は答えない。身動き一つしない。頭を垂れたまま、もぐもぐと何かを呟くばかり。百太郎は眉をひそめる。耳を澄ます。

「ああナンだ、それが気になったんですかいダンナ。見てくださいよ吉貝サンの右腕」

 だがそのささやきを、ハチの横槍が塗り潰した。小さく息をつき、百太郎は言われた通り吉貝の右腕を見る。
 前腕の中程。着物の袖から顔を覗かせているのは、やや薄汚れた手拭い。きつく縛られているそれは、どうやら血止めのようであった。

「何日前だったかな、三日くらいだったかな? とにかく吉貝サンが怪我した日があったんでさ。仏師が商売道具のウデを壊されたってんで、結構騒ぎになりやしてねえ」
「うふふ、ご心配なく。これでも身体が頑丈な方なので。なにより全てがおわるまで、この腕が、身体が、止まる日は無いのでございます」

 ぎょっ、と首を巡らす二人。気づけば吉貝は頭を上げており。三日月めいた微笑みを、口元に貼り付けているのであった。

「それよりも、お二方。お急ぎの用事があったのでは?」
「へ? あ、ああそうですよ紅白のダンナ! 早く現場にいきやせんと」
「だからこの状況でその呼び方ァ止めろっつってんだろ」

 息をつく百太郎。どうにも調子が狂う。この場所の威容に呑まれているのか。何より急いでいたのは本当だ。何より先程嗅ぎ取った血のにおいは、一応の答えが出てしまっている。

「アー、邪魔しちまったな吉貝さん。いくぞハチ」
「へい!」

 そうして百太郎はハチを連れ、ホトケ長屋を後にした。どうにも理解しきれない当惑が、おりのように臓腑の底へ残った。

 だから、気づけなかった。一度も名乗っていないのに、吉貝が百太郎の名前を知っていた事実に。

#3

 手際よく戸を閉めるハチ。二人が出ていくと、吉貝の長屋には再び闇が戻った。
 だが、静寂は戻らなかった。

「さて、最初の顔合わせシーンは終わったな。この後どうすんだっけ?」
「発狂頭巾としては何度も顔を合わせる予定だね、現場とかその近くとか」
「今までの発狂シリーズみたいに第六勘で、ってのが使えないからなー」
「その辺は脚本の出来次第だと思うけど、そっちどうなってんの?」
「はーい順調に詰まってまーす」
「またかよ! まあいつものコトだけどな!」

 げらげらと笑う声達。それらは全て、人の声ではない。
 吉貝が彫り上げた、部屋の中にずらりと並ぶ仏像。それらが諤々と意見を交わしているのだ。完成、未完成を問わずに。

「ヘイヘーイお手々が止まってるぜ吉貝チャン。早く掘り出してくれよォーイケメンのオレっちをよォー」
「ハハハ! なにがイケメンだってんだよ俺らみんな似たりよったりの素人細工だろうが」
「そうそう。そもそも吉貝は仏師じゃねえしなー。ホントは」
「ストップストップ! その設定を開示するのは今じゃねえだろ! まったく物忘れの激しそうなツラしてる通りの記憶力だぜ」
「そうだな、ってお前も同じ顔だろ!」

 わっはっは、と笑う仏像達。更にはどこか遠く、四つ目の壁の向こうから、どよめくような笑い声すら聞こえて来る。

 逃げられない。逃げる事は許されない。
 何故ならこれらは全て、吉貝が犯した罪の因果がもたらしたものなのだから。

 これらから逃れる方法は、たったの二つ。
 一つは一心不乱に像を彫る事で、聴覚を遮断する事。
 もう一つは、提示された特別な仏像――『黒仏くろぼとけ』を、百二十八体造り上げる事。

「てなワケで、オレっちでやっと四体目なワケだ。今回は次の目処もついてるから素材も早く手に入るぜ! 良かったなァ吉貝チャン!」

 こつこつ。かりかり。
 こつこつ。かりかり。

「そうそうそれよ。次の下手人を始末するのはいつだっけ?」
「えーと、三日後の深夜の路地裏だな」
「オーケー、ならオレっちも余裕で完成するスケジュールだな。また江戸の平和を守ろうぜ、発狂頭巾!」
「ええー? お前がそれ言っちゃうのかよー」

 げらげらと笑う仏像。
 こつこつと削る小刀。

「…るうて……るのは……」

 吉貝の呻きは、それら全てに押し潰されて消えていた。

#4

「はいはい、ごめんよごめんよごめんなさいよ、っと」

 人混みをかき分けるハチに続き、百太郎は殺害の現場へやって来た。到着に気づいた役人の一人が振り向き、立ち上がる。

「おお紅山殿、ご足労おかけします」
「うむ、雉村殿もな。しかしまた……」

 改めて、百太郎はあたりを見回す。神田川は材木河岸が並ぶ一角。ここに異様な土左衛門が流れて来たのが、そもそも己の呼ばれた理由である。
 そしてここには検分する役人の他、物好きな野次馬共がわんさと取り囲んでいるのであった。

「……賑やかな有様なものだな」
「それは仕様がない事です。何せ川の真ん中を流れてたのを、仕事中の材木問屋が見つけた訳ですからね。そいつらの中に口の軽いヤツがいたようでして」
「まあ、人の口に戸は立てられぬと言うしな。で、件の土左衛門殿は……此方か」

 役人達の人垣の中央、ゴザをかけられた遺体の脇に、百太郎はかがみ込む。

「南無阿弥陀仏、と。さて、お顔を拝見します、よ――」

 ゴザをめくるなり、百太郎は顔をしかめた。ハチも肩越しに恐る恐る覗き込み、ヒャッと後退る。

「――これはこれは。随分な伊達男が流れ着いていたんだな。そりゃこんだけ評判にもなるか」

 ゴザの下から現れた遺体に、顔はなかった。
 潰されていたのだ。何かで、滅多打ちに。

「うひィー、こいつァひでえや。誰かの恨みでも買ったんですかねえ」
「さてなあ。少なくとも女子供の仕業じゃなかろうな」

 ここへ来る間に目ざとく見つけていた材木の端材棒を使い、百太郎は遺体を検分する。着物の胸元を開き、袖口をめくる。
 そこで、妙なものを見つけた。

「こいつは」

 左肘の少し下。火傷のような傷跡。注意深く腕を裏返してみれば、上腕の手首側まで続いているのが見て取れる。雉村が呟く。

「火傷痕ですかな。それも昨日今日の代物ではない」
「こいつは、確か。覚えがあるな。アー、何だったか」

 コメカミをつつきながら、百太郎は思い出す。回って来た幾枚もの人相書き。そのうちの一枚の補遺。左腕に大きな火傷痕と――。

「……左コメカミに、裂傷の痕、だったな」

 改めて、伊達男の顔を見る。顔面自体は見る影もないが、コメカミ部分はどうにか形を残している。
 そこには人相書きで見た通り、放射状の傷跡があった。

「どうか、したんですかいダンナ。まさかこの顔無しの権兵衛さんが誰なのか、見当がついたんで?」
「ああ、そのまさかよ」

 百太郎は立ち上がり、振り返る。

「こいつは十中八九、人相書きが回ってた兄弟山賊の片割れ、『拳骨の金次』だろうよ」
「げ、拳骨の金次!? 本当ですか紅山殿!?」
「知ってるんですかい雉村のダンナ」
「あ、ああ。名前だけはな。なんでも上野国で方々を荒らし回った極悪兄弟の片割れだ。その死体がここにある、ってえ事は」
「兄弟喧嘩、という線は薄いだろうな。兄弟は何かに巻き込まれ、誰かに殺された。そして兄弟は仲が良かったハズだ。そうでもなきゃ一緒の人相書きで回ってこないだろうしな」

 頭をかき、百太郎は息をつく。

「これから兄貴の銀壱が、『匕首の銀壱』何をしでかすか……考えたくもねえなあ」

#5

「ハァー……ハァー……!」

 その三日後、とある路地裏。
 血走った目で辺りを警戒しながら、件の片割れこと『匕首の銀壱』は歩みを進めていた。

 頭上には月。眉のように細い。余人には心許ない明かりであったが、夜目の利く銀壱にはそれで十分であった。そもそも彼はもっと暗い夜を縄張りとしてた。縄張りとしていた、筈なのだ。

 だが、今は出来ない。何故? 決まっている。三日前、銀壱を形作っていた全てが、こわれてしまったからだ。

「うッ」

 立ち止まる銀壱。前方、一際闇の濃い木陰の下に、人影が一つ。
 小さく、動かない。息を潜め、目を眇め、やがて気づく。それは己の胸元程の高さの木彫り仏像である事に。

「お、脅かしやがって」

 額を拭う銀壱。手にまとわりつく脂汗。三日前まで、銀壱は暗闇など恐れなかった。それが今ではどうだ。三つ四つの童ですら、もう少ししゃんとしているだろう。

「く、そ。あいつ、アイツのせいで」

 否応なく思い出す。三日前。忘れもしない。あの時は今より暗かった。
 そもそもこんな夜道を歩く者は、相応に種別を絞られる。例えば、何か後ろ暗いものを運ぶ輩とか。あるいは、火遊びがバレてないと思い込んでる間抜けであるとか。

 銀壱は、そうした獲物を見つけるのが抜群にうまかった。それはあるいは、彼の復讐心に根ざした嗅覚なのかもしれない。

 そう、今でも思い出せる。幼年時代。燃え落ちる家屋。父母はとうに息絶えており、それでも金次と力を合わせて脱出した。金次とは逆の腕に残っている火傷痕は、ある意味で彼の勲章だ。無意識に撫でる。ほんの少し、勇気が湧いてくる。

 そうだ、勇気だ。その勇気でもって、彼等兄弟は戦ってきた。自分達を苛む周りの全てから。
 自分達を食おうとする獣を殺し、自分達を排除しようとする村の衆を殺し、自分達を捕まえようとする役人共を殺した。

 金次は力が強い上にとてもすばしこく、どんな相手だろうと立ちどころに殴り殺す事が出来た。だからいつのまにか『拳骨の金次』なんて通り名がついていた。

『あんちゃんだって『匕首の銀壱』って名前ついてんじゃん! 刃物ヤッパの名前がつくなんてかっけえしすげえよあんちゃんは!』
『バカ、お前のほうが凄えよ。なんなんだ? 『拳骨の金次』ってのはよ。普通のヤツは拳骨だけで人間をゴザみてえなぺしゃんこに出来ねえんだよ』
『ええーそうなの? だった頭にきたんだもの。ぼく達をわるいヤツみたいに言ってさあ』
『ハハハ。いやまったくその通りだな』

 辺り一面に広がる血と肉と泥の混合物。数刻前まで、己等を追いかけてきていた何らかの役人達だったもの。それにまみれながら、銀壱は金次と一緒に笑った。

 自分達が社会に対する異物である事、それはいつからか気がついていた。
 だが、でも、仕方がないだろう?

 それ以外の生き方なんて無い。
 それ以外の道なんて知らない。

 そして何よりも。弟と一緒に殺し、奪い、思うがままにするのは。
 実に爽快で、痛快な毎日だったのだ。

 これだけの数を相手に勝てるのならば、俺達兄弟はまだまだ死なない。まだまだ奪える。まだまだ殺せる。
 だからきっと、死ぬ日が来るのなら。今まで以上の大暴れと大立ち回りの果てで、派手に逝くのだろう。

 そう、思っていた。のに。

「なん、なんだ。なんなんだ、あれは」

 思い返す。それだけで歯の根が合わなくなる。
 そう、あれは三日前。流石に警邏が厳しくなった上野国を離れ、この江戸へ辿り着いた時だった。

 今日のように月明かりの弱い、おぼろの夜。
 奴は曲がり角の向こうから、不意にひょこりと現れたのだ。

 ばさばさとしたざんばら髪の男。酒でも入っているのか、ふらふらした千鳥足。物乞いか、物狂いか、その両方か。
 どうあれこれまで殺しをしていなかった金次は、標的をあれに定めた。銀壱も反論はなかった。己自身、辛抱たまらなかったからだ。

 そうして、襲いかかり。
 笑ってしまう程呆気なく、返り討ちにあった。

『うぐ』

 額を抑える。水っぽい感触。触っただけでわかる。まだ血が止まっていない。匕首の突きを避わされた隙に、奴から打ち込まれた一撃の跡だ。
 こいつのせいで、銀壱はしばし昏倒してしまった。意識が途切れる寸前、激昂した金次がヤツへ襲いかかったのを覚えている。意識が途絶えていたのは、おそらく数分だ。

 バネ仕掛けのように身体を起こす銀壱。そうして、最初に見たのは。
 馬乗りになり、何か角張ったものを金次の顔面へ繰り返し打ち付ける、頭巾を被った男の背中であった。

『て』

 テメエ。そう叫びながら、銀壱は襲いかかろうとした。だがその寸前、頭巾男は振り返った。
 その頭巾の隙間から、見えたものは。

「なぜだ」

 背後から声。またもやバネ仕掛けのように、銀壱は振り向いた。

 果たして、いつからそこに居たのだろうか。風に吹かれる柳葉めいて、ばたばたとざんばら髪を踊らせる男が一人。
 その声。その背丈。何より双眸を覆い隠す程に長い黒髪。忘れるはずが無い。見間違えるはずが無い。
 この、長髪のふりをしている異常者の姿を。

「テ、メ、エ、は」
「なぜ、ここにいる。匕首の銀壱」

 言って、男は――吉貝は、己の髪を一筋、無造作に掴む。ゆるりと引く。ずるずると、頭髪全てが落ちる。と言っても頭皮が剥がれたのではない。
 その長髪は、カツラだったのだ。

 周りの仏像を、少しでも見ない為に。
 いかれた世界を、少しでも遠ざける為に。
 それはささやかな、あまりにもささやかな、正気の切れ端であった。

 そしてそれすらも脱ぎ捨てた、今の吉貝は。
 偽りの長髪の下から現れた、吉会の顔には。

 相貌を覆い尽くす、ぬばたまの頭巾と。
 双眸にくろぐろと渦巻く、深淵の黒色。
 それだけが、そこにあった。

「テメ、エは」
「なぜ、ここにいる。どうして、予定通りに進んでしまう」
 だって発狂頭巾の脚本があるんだモン。当たり前だろ? こいつの居場所だってオレが皆に伝えてやったんだから感謝しろよな? ギョワハハ!

 などと、仏像は笑う。だがその声は吉貝にしか聞こえない。
 そのような状況なぞ、分かる筈もなく。銀壱は匕首を構える。
 手が震える。恐怖。それを、怒りと勇気で無理矢理塗り潰す。

「クソッたれが……この……この、狂人がぁァ……ッ!!」
「狂人、か」

 うっそりと、頭巾の男は呟く。

「狂うておるのは。いかれているのは。おれか、お前か」
 イヨッ! 待ってました発狂頭巾! コイツが醍醐味なんだよなぁー!

 はしゃぐ仏像。鳴らされるヴィブラスラップ。銀壱の、正常者には決して届かぬ音色。

「ほざけェ弟の仇! 今ここでブッ殺してくれるわァア!」

 駆ける銀壱。全力のスプリント。その最中、左掌を匕首で裂く。溢れる鮮血。そうして腕を薙ぎ払い、飛沫として飛ばす。即席の目潰しである。

 狙いあやまたず、赤い液体は発狂頭巾の双眸に叩きつけられた。僅かに傾ぐ上体。好機。この隙に間合いを詰め、脇腹へ刃を叩き込む。両手持ち、及び全体重を乗せて。それで殺す。今まで幾度も重ねて来た、『匕首の銀壱』の十八番。

 だから、即座に理解した。
 その強襲が、失敗した事に。

 じょぐ、という味わった事のない感触。
 肉ではない。
 骨でもない。
 ここで視線を動かして、銀壱はようやく理解した。

 匕首は、防がれていたのだ。頭巾の男が取り出していた、一尺半ほどの角材によって。盾のように。

「う」

 抜かねば。そう銀壱が判断するよりも先に、頭巾の男は手首をひねる。回転する角材。ぼぎと音立てて、たやすく折り取られる匕首の刃。

 どうする。引くか、守るか、あえて攻めるか。そんな選択肢を銀壱が選びかねている間に。
 逆手で振りかぶった二本目の角材を、頭巾の男は銀壱のコメカミへ叩きつけた。

「あ」

 倒れる銀壱。痙攣する身体。その上に、頭巾の男は馬乗りになる。
 後はもう、金次の時と同じであった。

 ごつごつ。ばきばき。
 ごつごつ。ばきん。

#6

 翌日。
 吉貝はいつもと同じように、薄暗い部屋の中央で仏像を彫り続けていた。

 こつこつ。かりかり。
 こつこつ。かりかり。

「いやーこれでまた一つ江戸に潜む悪が消えた訳だな!」
「奉行所の連中は混乱してるみたいだけどな。岡っ引きの紅山なんて泡食って朝から走り回ってら」
「そうなの?」
「そりゃそうだろ。警戒してた犯人ホシがいきなり死体で見つかったんだからさ」
「大変そうだなー公僕。でもまぁ、そのうち忘れるっしょ! 江戸には悪人がまーだまだいるんだからサ」
「確かに確かに! でもそれを言うなら我らが発狂頭巾殿もナカナカのワルな過去を背負ってるんじゃなかったけ?」
「それは言わないお約束だぜ! しかし、次はどんな悪を倒そうかナー。なあ誰がいいと思う発狂頭巾?」

 あはははは、と朗らかに笑う仏像達。己にしか聞こえない喧騒の中で、吉貝はひたすらに小刀を動かす。
 そうして削られている木材の削りカスには、どす黒い汚れがこびりついている。

 これこそが。これだけが。『黒仏』たりえる仏像の材料となるのだ。
 だから、吉貝は彫る。彫り続ける。狂気の果てを目指すかのように。

 こつこつ。かりかり。
 こつこつ。かりん。

 約定の数まで、あと、百二十三体。

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