塵(1)

  無理矢理こじ開けられた跡が生々しく残る鍵穴は、何回かガチャガチャ鍵を差し込んで動かさないと回らなかった。公団の鉄のドアは鈍い低音を立てて手前にゆっくり開いた。


 暗い部屋の中から最初に漏れ出てきたのは、灰色によどんだ地底の臭いがする空気だった。玄関までうずたかく、脱ぎっぱなしの衣類が地層のように重なり、暗い海面のように部屋の奥まで連なっていた。玄関脇のスイッチを入れてみたが、父は電気料金を滞納していたらしく部屋は真っ暗なままだった。とても靴を脱ぐ気になれず、土足で踏み込むと、衣類と何かが堆積した海の中に膝まで埋もれた。

どこか遠くで子供が遊んでいる声を背中で聞きながら、圭介は自分の血液が逆流していくのを意識していた。

 

マスクを持ってきて良かった。

 
            * * *


 父が自室で死んでいるのが発見された、と警察から連絡を受けたのは2週間ほど前のことだった。

​​呼び出された警察署の部屋で、刑事から父の死に事件性は無いことが淡々と告げられた。

妹は憔悴し、とにかく泣くだけだった。久しぶりに会う親戚は明らかに一刻も早くここから立ち去りたい様子で一杯だった。もうずいぶん前に離婚していた母は、父の訃報に一応は衝撃を受けたようだったが、決して通夜にも葬儀にも出ないと電話の向こうで強く言い切った。


冬でよかったですよ。新聞配達の人が3日くらいで気がついてくれたから。隣の棟では、​おばあさんが夏場に半年くらい気がついてもらえなかったこともあってね。

人の良さそうな団地の管理人がそう言うのを、回路がどこか切れた頭で人ごとのようにぼんやり聞いていた。おばあさんがどうなったのかは聞きたくなかった。

簡単な読経と火葬だけのきわめて簡単な葬儀を数人で終えたあと、圭介は白い箱に入った父とともに1人暮らしのアパートに帰った。ワンルームの部屋に骨壺の置き場は無く、仕方なくタンスの上の雑誌の山をどけたあとに、無造作に乗せる。


なんとなくほっとして、喪服のネクタイを緩めると冷蔵庫からプレミアムモルツを1本出して、プルタブを開け、一口飲み干して息をついた。缶ビールを片手に、安置したばかりの白い箱を見上げる。


あっけないもんだよな。

死ぬことなんてないと思ってた親父が、骨になっちまった。

 

自分は何年父を憎んできたのだろう。逃げるように妹を連れて家を出た母は、離婚が成立してすぐ男と暮らし始めた。母に着いていく気がなぜかおこらず、圭介は父と家に残った。


母が家を出てから父の暴力と酒はひどくなるばかりだった。手を上げられたことは数えきれず、思春期には殺してやりたいと思ったことだって一度や二度ではなかった。それでも、カネも仕事も無い圭介の行き場所は、他になかった。


早くここから出たい、早くまともな生活を送るんだ。ここじゃないどこかならどこでもいい。

10代の後半の数年間、圭介の頭の中を占めていたのは、とにかくそれしかなかった。

高校を卒業すると同時に家を出た。バイトをしながら調理師の資格を取り、先輩に紹介してもらったレストランで調理場の仕事についた。働くこと、稼げることがとにかく楽しく、父が生活にいない毎日はただひたすら安らかだった。ほとんど何も告げず出てきた父からは、不義理と親不孝を責める文で埋まった年賀状が最初の数年間は届いたが、そのうち何も届かなくなった。


料理長に働きぶりを認められ、オーナーが今度新しく出す2号店の調理責任者に、と持ちかけられた午後。店に警察から、父の死を知らせる電話がかかってきた。


警察と葬儀と手続きで忙殺されるなか麻痺状態だった感情が、ようやく箱に入った父を見上げながら冷えたビールを飲むうちに、少しずつ身に蘇ってきた。
 

最後に親父の顔を見たのはいつだっただろうか。
そうだ、父が抱え込んだ借金のため売却することになった、
高校まで暮らしていた高台の自宅に私物を取りに行った、5年前だ。

何を最後に話したかももう良く覚えていない。汚れた白髪の父は、大吾郎で満たした湯飲みを握りしめ、あまり呂律の回らない口で頭に血が逆流する言葉をただ吐き出しては、久々に目の前に現れた圭介に長年そうしてきたようにぶつけていた。何も耳と心に入れず、何も言い返さず、事務的に荷物をまとめて、玄関のドアを開けた。

 
「おい、圭介」

呼びかけた声にいつもの怒声と違う何かを感じて振り返った。

「―――んだよ」

酒を飲んでは動物のように荒れる父が、なぜかその日は小さく見えた。

「結婚するときは連絡しろよ」

父はまるで懇願するかのように、突然小さく言葉にした。

「ばかやろう」

振り切るように言い返すと、乱暴にドアを閉じた。

 

あれが最後か。なんであんなことを言ったんだろう、親父は。

 

のどの奥がちりちりする。残りのビールを乱暴に飲み干したところで、携帯が鳴った。妹・幸子だ。

「おにいちゃん、今話せる?」

「ああ、お疲れ。もう家か?」

「うん、お母さん今お風呂に入ってる」

大学生の幸子は再婚相手の家でいまだ母と同居している。離婚し再婚してかなり経つのに、いまだ母は父の話をされるのを極端に嫌う。

「さっきお父さんが借りてた団地の管理人さんから電話あった」

「うん、何だって?」

「あんなことがあったし大変でしょうから、ゆっくりでいいけど、部屋が引き渡せる日がわかったらおしえてくれだって」

 

部屋。

 

「俺、まだ直接みてないんだけど、ひどいことになってるんだろ?」

10年前に家を出るとき、自宅はすでに父がどこからか拾い集め買い集めてきた膨大な“モノ”で溢れていた。家電でも本でも衣類でも、父は一度買ったものは壊れても不要になっても決して捨てようとしなかった。自宅の庭には動かなくなった冷蔵庫や洗濯機、圭介や幸子の子供時代の学習机が、小山のように積み重ねられていた。処分しようとしようものなら相手が母であろうと圭介であろうと父は激しく荒れた。

家を売却したあと、あの膨大ながらくたや荷物はどうしたのだろう。

「お父さんを外に出すのに警察の人、『突入』しなきゃならなかったって話、お兄ちゃん聞いてなかったの?」
「聞いてたけど、鍵を壊して開けたってことじゃ」

――まさか、“あれ”を全部部屋に持ち込んだのか?

「幸子は中見たのか」

「―――見たよ」

「管理人さんから鍵を借りて開けてみたけど、あたしは絶対中に入れない」

「お兄ちゃん、なんとかして」

幸子の声は電話越しでもわかるほど震えていた。

          * * * 

次の日曜。合い鍵をもつ幸子と待ち合わせをして圭介は初めて父が死んだ部屋に踏み込んだ。

父の部屋は、外の明るい日差しがまったく差し込まない暗闇の中にあった。玄関の惨状に恐れをなし、それ以上進むのを諦めて、圭介は早々に棟の入り口で待つ幸子の元に戻った。

 
「どうだった」


「どうもこうも」
「今日は何もできないよ。あれじゃ。とりあえず、どこかで話そう」
 

「お父さん、あんな酷いところにほんとに住んでたの?」



幸子は涙を目にためながら圭介に聞いた。(続)

 

 

 

 

 

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