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【雑記】女性誌編集者がMBAをとってみた

この春、大学院で修士課程を修了した。いわゆるMBA(経営学・経営管理修士)。女性誌の編集を長年やってきて、5年前にwebマガジンの運営を任されるようになり、これまでのスキルがほぼ無効化する危機に数々の場面で直面し、勢いで入学したのが2年前の2018年の4月。

「正解」に飽きる

始めの数ヶ月は、授業や宿題で財務諸表や統計、フレームワークと格闘。そして、グループディスカッションやワークショップをしながら、答えを導き出す作業の連続に、「仕事人として自分はあまりにも狭い視野で働いてきたのだな〜」と痛感。そして、苦手なことにはそれを得意とする人が必ずいて、「頼る技術」こそ「生きる技術」とばかりに、不得意とする必修科目を仲間に助けてもらいながら何とか上手く切り抜けた。そもそも、仕事の場面と対処法が変わらない……頑張ろうとも思ったが、一方で、「仕方がない」と完全に開き直ってしまった(ちなみに、仲良くなった数少ない友達のひとりが総代に。彼にはたくさん助けてもらった。こんな出会い運も自分の大切な能力だと再認識もしたり)。

入学当初は、とりわけフレームワークの授業には感動があった。PEST、SWOT、4P……それまでほとんど使うことがなかった(女性誌編集の作業というものは、良くも悪くもほぼ感覚でマーケティング作業をしているようなところがある)フレームワークという道具を使って、問題を解いていく。たとえば、「ある企業の商品の売り上げの伸び悩みをフレームワークを使って解決せよ」「これからこの企業が出すべき新商品の市場を分析せよ」とか……課題が提示され、それを自分が思う最適なフレームワークで解決策を検討していく。課題がコンプリートすると達成感があり、初めのうちはクイズを解いていくような楽しさがあった。けれど、すぐに飽きてしまった。

結局、私が大学院に通う後半で学ぶ楽しさを感じたのは、「自分とは何か」「人間とは何か」というようなことを考える禅問答のような授業だった。「経済モデルが科学的になればなるほど、目の前にあるリアルな経済から離れていく」と経済学者のヤニス・バルファキスは著書で語る。結局、経済と同様、経営も管理も、どうしたって(自分も含めた)「不合理な人間とどうやって向き合っていくべきか」を考えなくては話にならないじゃないか、ということに私は勝手に行き着いてしまった。

「学び」という筋力

とにかく2年間は、これまで読んでこなかったジャンルの書籍をたくさん読んだ。初めは、めぼしいビジネス書を手当たり次第に読んだ(それまでほとんど読んできたことがなく、世の中にこんなにもビジネス書で溢れていたのということを出版社に勤めながら初めて実感した)。そして、資本主義への問いかけのような書籍を多く読むようになった。フェミニズムなどのジェンダー関連のものや社会心理学、行動経済学など、社会全体をとりまくムードを生み出すものを読み漁り、「人間を知りたい」と強く思うようになり、心理学、脳科学、哲学などの本も目についたもの、薦められたものを手当たり次第に読んだ。読んでもほぼ意味が読み解けない本もたくさんあったけれど、それらにも無理やり目を通すことで、「読書は筋力だ!」という昔は持っていたような気がする身体感覚も思い出した。

社会人になってから、自分が好きなジャンルの本ばかりを読んできたが、この無作為に(もちろん、私の興味関心というバイアスがかかっているので、完全に無作為ではないが)、本を読み漁るグルーヴ感を体感できたのは自分にとっては偉大なことだった。何かを知ると、必ず、それを深めたり、横展開させたくなり、まったく違うカテゴリーの「点」と「点」がつながっていく感覚が本当に楽しかった(脳では、この瞬間に興奮物質が分泌されるらしい)。

経営学・経営管理学は、「数値分析」を重視する傾向が強い学問だ。どうしても、それが正義として語られる。でも、「数値分析」だけで、人のモチベーションを喚起させるのは難しい。あくまで結果(お金)の管理や数値的な目標設定の指標でしかない使えない。「数値分析」のみで、(安心してもらえる場合もあるし、説得しやすくもあるけれど)本当のところでは人は動かせないし、何より、それでは自分という人間が動かないことを私がいちばん知っている(苦笑)。そんなことを言い訳に、どんどん自分勝手な大学院生活を送ることとなった(他学部の授業に潜り込んだりもたくさんした)。

自分の問題意識

論文執筆にあたり、主査の教授には、「あなたの問題意識は? あなたにしか書けない論文は?」と問い続けられ、安易な方法論に流されそうになる私に、絶え間なく「それで、自分は納得するのか?」と激を飛ばされ続けた。「突き抜けろ! 突き抜けろ!」と、その教授からはいつでもその言葉が添えられていた。

副査の教授には「MBAの論文は量的分析により実証することが重要だ」と、とにかく現代の経営学として私の論文の精度が上がるようにブラッシュアップをサポートいただいた。書き上げた論文に対しては、「(MBAの論文としてはギリギリなところだけれど)死ぬまで考えるべきことを既に持っているということは、それはある意味、とても幸せかもしれません」という温かいメッセージをいただいた(嫌みではないと信じたい)。

「アカデミアの世界から評価される論文じゃなくてもいい。自分の人生にとって意味あるものにしなさい」と脳内変換して受け止め、結果的にかなり奔放な論文となってしまったという自覚はある。論文の口頭試問は、「今年の大一番!」と見学していた同級生に苦笑されるくらい(主査でも副査でもない)教授と大激論となった。たぶん、主査、副査の教授には少なからず迷惑をかけしてしまったのだろうと思う(感謝は伝えたけれど、詳細はこわくて確認していない)。

MBAの意味

ちなみに、MBAをとったからと言って、給料が上がるわけでも、出世できるわけでも、転職できるわけでもない。よく誤解を受けるが、ただの学位であって国家資格でも何でもないわけなので、さしあたって誰にでも説明できるメリットは私の場合は特に何もない。会社で「?」と今までは漠然と思ってきたことの理由について自分の中で落としどころを見つけられるようになった、という利点はあるのかもしれないが。

「編集者がMBAとってどうするの?」ともよく聞かれたが、直接的にすぐ役に立たないかもしれないけれど、人生の傍らには存在していて欲しい。それが出版業の粋な部分であると考えているので、答えはそれと似ているような気がする。ハッキリ言ってしまえば、「女性誌の編集者がMBAとったからって、別にどうもならん」わけなのだが、それでも自分のこれからの人格形成や思考には影響があると思われるので、「とった意味は後から分かる」という感じだろうか。

「自分自身はいったい何を考えているのか」「自分がどうありたいのか」「人(社会)にどうあって欲しいと思っているのか」……睡眠時間を削って社会人大学院にお金を払ってまで通って私が得たものは、結局、そういう今まで自分がおざなりにしてきたことと対峙するための時間だった。現時点での答えはそれに尽きる。

ちなみに、私は約4年前にバカ田大学も修了している。どちらも終わってみれば、私にとっての学ぶ意味はほぼ同じだったようにも思う。

風の時代に

Volatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性・不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)という4つのキーワードの頭文字から取った「VUCA」。一言で言うと予測不能な状態。ここしばらく「社会のVUCA化」はたくさん語られてきたが、現在、それがいちばんヴィヴィッドの形で、誰の目にも明らかな形で、しかも世界中平等に顕在化したな、と思う。

占星術の世界では、今年12月から「風の時代」に突入するという。風の時代は、何事にも執着もせず、フレキシブルかつ軽やかに生きる人が活躍すると言われているようだ。占い好きの友人は、2020年は強烈なリセットの年だと数年前から騒いでいる。ガツガツといろんな「?」にぶつかっては、いぶかしがり首を傾げている私が生きづらそうに見えているのだそうで、「葉子ちゃんは(風のエレメントである)水瓶座だから、これからは今よりずっと生きやすくなるよ」といつも優しく励ましてもらっている。

ちなみに、これまでは物質的豊かさを追い求める「地の時代」だったのだという。そこから、精神性や叡智を風のようにユラユラとしなやかに拡散していく「風の時代」へ。占いを信じて動くタイプではないが、もう、なんだかそんな気しかしてこない。あくまで感覚の話で、これにはもちろん皆を納得させるための数値分析の結果は提示できない(笑)。

外出自粛要請が出ているなんとも静かな日曜日。桜は満開なのに、東京は未明からの雪が積もり始めている(ヘッダーの写真は、育てている薔薇の上に降り積もる雪)。これは単なる「三寒四温の大きな振れのひとつなのだ」とも思いつつ、自宅でいっそうフワフワした気持ちになりながら、ダラダラと書き記してしまった。

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