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世界医師会会長(当時)横倉義武の原点となった父の教え

臨床現場での医師として、あるいは医師会等での社会活動をする医師としての「横倉義武」の原点がどこにあるのか。かつて公開されたウェブジャーナルのインタビュー記事から編集して掲載いたします。

以下、ご覧ください。

父は九州大学医学部を卒業するとすぐ海軍の軍医になりました。ところが胸膜炎を患い、治療に専念するために現場を離れ、回復後、出動命令を待っているうちに終戦を迎えました。終戦間際、自宅のあった福岡市が空襲を受けると、私たち一家は母の実家のある高田村に疎開しました。時折、父が帰ってくると。「あそのこの家にはお医者さんがおられる」という話が伝わって、近所の人が治療を受けに集まってきました。当時の高田村は無医村同然で、開業医でもない父のところに患者さんが集まるくらい、医師が極端に不足していたのです。

終戦後、福岡市に戻ろうとする父に、村長さんが「この村には若い先生がいない、三年間だけ村に残って欲しい」と懇願し、父も快諾します。そこで、国鉄渡瀬駅の傍らにあった旅館を改造して小さな診療所を開設しました。高田村診療所と言うのですが、戦後の最も貧しい時期に私財をつぎ込んで作ったようです。

まだ医療制度も整ってなかったために、治療費が払えない患者さんも多くおられ、母は自分の着物を売って薬代を立て替えてあげていました。幼心に覚えていますが、我が家の生活は決して楽ではありませんでした。戦後、お金がなくて治療を受けることができない人をたくさん見てきましたから、(誰でも治療を受けられる医療制度を)世界に広めていきたいと言う思いは余計に強いです。

その頃、診療所は自宅に併設されていましたから、父の懸命の働きぶりをいつも傍で見ていました。昼間の診療を終え、夜は夜で往診に出かけていましたが、ある時、ずぶ濡れになって帰ってきたこともあります。街灯もない真っ暗な田んぼ道を歩いていて水路に落ちたんです。それでも愚痴を言うことなく、とにかく患者さんの心に寄り添い続けました。胸膜炎を患い、決して頑丈ではない父でしたけれど、よくあれだけ地域の人たちのために頑張って働いたものだと思います。

父は戦争で多くの学友や仲間をなくしています。そのためか、自分の命は自分一人だけのものではない、生きている限り誰かのために用いなくてはいけない、と言う信念が心の中にしっかり根付いていました。またとても信心深い人で、仏壇や神棚に手を合わせなかった日は一日もないと思います。私もそう言う父の日常を見ながら、いつも間にか神仏に手を合わせるようになっていました。今思うと、父が若い頃から自分の生活を顧みずに村の皆さんのために働き続けたのは、この信心によるところがとても大きかったのだと思います。

私の、高校時代の恩師に、日本の歴史や皇室に大変造詣の深かった小柳陽太郎先生がいらっしゃいます。「万葉集」や「源氏物語」の授業はとても格調が高く、私をご自宅に呼んでくださったり本当に可愛がっていただきました。小柳先生がいつもおっしゃっていた教えが「国を大事にしなさい」「神仏を大事にしなさい」「両親を大事にしなさい」の3つでこれが父の教えと見事に重なり合うのです。この教えが、私の今日までの活動の原点になっているのだと思っています。

(2018年12月25日WEB chichiのインタビュー記事より抜粋編集)

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横倉義武日本医師会長が、日本医師会会長としての思い、会長選挙へ再度出馬するにあったての決意、今進めていること、そしてこれからすすめていくことについて、支援する有志とともに発信していきます。
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