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涙のスピードと喪失感 〜映画『永い言い訳』が教えてくれる呼吸のしかた

涙には速度がある。
涙のスピードはその時々の感情の深さによって、早くもなり遅くもなる。

でも、その涙の速度は自分にはコントロールできない。ただただ、その時々のスピードでこぼれ落ちる生暖かい感触を黙って感じるしかない。

突然、溢れ出す感情に堪えきれずこぼれる涙、
ぬぐう指先が間に合わなかった雫は、

首筋を通り、あっという間にわたしの胸元を濡らしてしまう。そんな時は、すこし遅れて『悲しい』『悔しい』『苦しい』という感情にようやく気付いたりする。

大人の涙というものは、とても複雑なもので出来ている。

人によって、涙腺を刺激するポイントは違うし、泣き上戸もいれば泣けない人もいる。個人の感情はひきこもごもだろう。

じつは、私自身の涙腺のトリガーは、とても複雑でややこしくて、しごく意地悪だと感じている。映画などをみていても、普通の人が泣く場面でなけなくて、普通は泣かないシーンで妙にセンチメンタルな涙が溢れることがある。そういう意味では、私は、複雑で気難しい涙が好きなのだろう。かなりのひねくれものである。

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そういえば、ついこの間、涙がこぼれた事があったなぁ。そうだ、3月11日だった。東日本大震災から10年という鎮魂の日だった。

毎年やってくる3月11日だが、10年目という節目にあたった今年のわたしは、10年前の自分のSNSをひもどき、10年前のあの日にどんなつぶやきをしていたか振り返ってみた。

記録というのはおもしろい。
過去に投稿された自分の文字の並びを読むだけで、その時の想いまでひきつれてくる。

とたんに、
心細かったこと、切なかったこと、恐ろしかったこと。
10年前の気持ちとシンクロするかのごとく、あの日の感情まで蘇る。おもわず、じんわりとした涙がこぼれてしまった。

もう10年、まだ10年。
それぞれの震災体験により、長くもあり短くもあった10年だったろう。

そういえば、震災直後にボランティアで知り合った宮城県南三陸町のお母さんが言っていた言葉が蘇った。

「復興に何年かかるか誰もわからないんだよね。3年なのか、5年なのか、10年なのか。」

あの頃は「10年なんて、まだまだ先の事だなぁ。想像つかないなぁ」と思っていたが、あっという間に10年が経ってしまった。だから、わたしにとっての10年は、あっという間の10年だったと思う。

東日本大震災の日、それぞれが流した涙が乾いたかのようにも見えるが、時を逆回しして思い出すあの日の出来事に、まだ涙がこぼれてしまうのだから、私たちにとっての10年は、決して長かった10年ということではないのだろう。

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今回は、東日本大震災から10年という節目に、わたしに複雑な涙をながさせてしまう1本の映画をご紹介したい。

西川美和監督の『永い言い訳』だ。

本作は、分かりやすい描写も無いし解説もあまり無いのだけれど、そこで織りなす人間関係を通し、主人公の奥底に隠れた哀しみに感情移入してしまう作品である。

見終わったあとで、とても辛く苦しい涙がものすごいスピードで、私の首筋をぬらした作品でもあった。

本監督である西川美和監督は、2011年の東日本大震災をきっかけに、この『永い言い訳』という小説を書き始めた。あらすじはこうだ。

<あらすじ>
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。その時不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対して悲劇の主人公を装うことしかできない。そんなある日、妻の親友の遺族―トラック運転手の夫・陽一とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い彼らの世話を買って出る。

同じ事故で亡くなった妻の友人の夫、陽一はトラック運転手。陽一はふたりの子供を抱え、妻を失った事実に打ちひしがれて同じ境遇の幸夫と思いを分かち合おうとした。予期せず家族を失った者たちは、どのように人生を取り戻すのか。人を愛することの「素晴らしさと歯がゆさ」を描ききった物語。

突然の配偶者の死。


当たり前のように隣にいたパートナーを突然失ってしまった後の喪失感を、登場人物それぞれのペースで受け入れていく物語ではあるが、要所々々の細かな場面設定は10年前の東日本大震災とリンクする。

我々が、想像だにしえないことが起こった10年前の3月。それまで、当たり前にあった風景を、なんの前触れもなく波がさらい、沖までもっていってしまった。

震災時に、数々あったろう大切な人との突然の別れ。

当たり前の日常を、突然失うことによる人間の混乱と後悔は、当事者にしか分からない針刺す痛みであるはずだ。

『永い言い訳』は、そんな当たり前の日常を失った主人公の、声なき苦しみを、過度な演出なしに描いたヒューマンストーリーである。

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西川美和監督の本作が優れている所は、この重たいテーマを軽快に、そしてコミカルなテンポをもりこみながらジットリさせずに描き切っているところだろう。

映画をみながら、見ている私の首筋に、ものすごいスピードで重たい涙が流れていったが、見終わった後には、ほんのり胸が暖かくなる気持ちの余韻を残した。

誠に見事な作品である。

映画本編の中には、観ている側に「ここで泣かせよう」「ここで泣いてね」なんていう合図は一切ない。むしろこれらは、非常にわかりにくい形で潜み、人それぞれの感性で、人それぞれのタイミングで涙が溢れる立て付けになっている。何とも憎い演出の数々だ。

そして、過去の西川美和監督作品にも共通するが、本作品もとても正直な作品だ

人間のいやらしいところ。
嫌なところ。

こんな所も隠しはしない。

人間とは、決して褒められる感情ではない所も共存しあっての人間だ。人と人との関わりの中で、失敗したり失言したりの繰り返しの中、許し合っての人間であることを気づかせてくれる。

こういう所にリアリティを感じ、どっぷりと感情移入してしまう作品が『永い言い訳』である。

家族との突然の別れ、そして喪失感との向き合い方。
いろんな形で悲しみを昇華するキッカケにもなる作品なのかもしれない。

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“無くして初めて分かる”


耳にタコができるほど、繰り返されるありふれた言葉である。

しかし、人間という生き物は自分勝手なもので、ついつい過去も未来にもフタをして『今』とこの瞬間だけを見てしまう愚かな生き物だ。

しかし、本来人間には『想像力』が備わっている。想像力とは、人間であることを証明するかのごとく備わっている最大の能力であり、人間の証ともいえよう。

『永い言い訳』は、『今在る』ものが、当たり前ではなく全てではないことを、そっと差し出すように教えてくれる。忙しい日々の中、それを振り返えさせ、悲しみが襲った後に、その呼吸の仕方を教えてくれる作品でもある。
 
日本人にとっては、これからもずっと3月は特別な月になる。
時が経つごとに、その悲しみは突然消えてなくなることは無いけれど、時間をかけて、それぞれの人々の心が安らぎに向かっていくことを願ってやまない。

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