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妻、嫁、母親という肩書がなくなる日 〜ジェンダーギャップと女性の生きづらさを描く 映画『82年生まれ、キム・ジヨン』〜

なぜ、政治家のジェンダー差別発言が炎上するのか


たびたび、政治家によるジェンダー差別を匂わせる失言が世を賑わせる。

かつては、女性のことを『産む機械』という表現をした政治家もいたし、某都議会の議会中に『お前が結婚しろ』『産めないのか」』というヤジが飛んだと大騒ぎになった事もあった。

直近の話題で言えば、『女性は話が長い』と発した元総理大臣は、大きな国のイベントである五輪の役職を降りる事態まで発展した。


一つひとつを見れば、それほど悪意のある発言では無かったかもしれない。むしろ、マスメディアによる悪意のある切り取りが発端だったとも言えよう。しかしながら、茶飲み話ではないのだから、切り取られた時に大きく誤解を生むような発言は公的な立場にいる人は慎重にするべきだろうと個人的には思う。


長い長い人類の歴史において、女性・男性という生物学的な分類は変わらないのに対し、社会における価値観や文化、風習は少しずつ変わってきている。しかし、変わらぬ固定観念を持つ人々と新しい価値観を持つ人々との感情がぶつかりあい、怒りの塊を生んでしまうようである。

おそらく、たびたび政治家のジェンダー差別発言が炎上してしまうのは、世の中の人々が、誰かの言葉をかりて世間に荒波を起こしたいのだ。

たった一人が意義を唱えても影響力はないが、政治家というポジションの人に向けてなら文句もいいやすい。言葉狩りのようで、少々居心地は悪いが、世の中の風潮に変化を生むという意味ではそれなりに意味あるものなのだろう。

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ジェンダーレス・ジェンダーフリー

『ジェンダーレス(ジェンダーフリー)』といいう言葉は、生物学的な性差を前提とした社会的、文化的性差をなくそうとする考え方である。

しかし、これらの言葉の捉え方には個人差があり温度差がある。

かつては、身体が大きく力の強い男性が社会にでて、生活の糧をかせぎ、力の弱い女性が出産・子育てや家事を行い家庭を守っていた。原始的な社会では、生物学的性差による役割が明確に分かれていたが、文明が進化し、より生きやすい社会に発展した現代では、女性が当たり前に社会で働き、男性・女性の性差なく多様性のある生き方が求められ主流となってきた。

それなのに、ジェンダーレスという考え方だけは、あとからゆっくりとついてくるように歩みが遅い。故に、ジェンダーレスという価値観に、なかなか追い付けないことで、たびたびジェンダー差別的発言は炎上してしまう。もちろん、個々の価値観を強引に矯正することはできないが、新しい時代に沿った社会のありかたや方向性は、より柔軟であるほうが良いことは確かだ。

さらに現代では、女性・男性という性差のみならず、生物学的性差を越えたL.G.B.Tについても注目されるようになっている。男女という括りのジェンダーレスのみならず、L.G.B.Tの方々が暮らしやすい世の中を構築することも求められている。

日々、変化している社会や文化、風習に、どこまで適応できるのかは、個々の価値観やそのキャパシティに依存するものなのだろうが、これから先は、かつての世の中に逆戻りすることはないのだろう。ジェンダーレス(ジェンダーフリー)という価値観が主流になり、これらに沿った社会の形が優先されることになるはずだ。

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ジェンダー差別と女性のいきづらさ

2020年に公開された映画『82年生まれ、キム・ジヨン』は、こんな世の中のジェンダー差別と女性の生きづらさを描いた作品である。原作は、韓国の作家チョ・ナムジュの小説で、韓国では130万部以上の販売部数を記録するベストセラーとなったそうだ。 日本はじめ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアなど16か国で翻訳され、多くの女性の共感を呼んだ物語である。

映画『82年生まれ、キム・ジヨン』は、主人公であるキム・ジヨンをチョン・ユミが熱演。側で見つめる夫役にコン・ユが出演している。あらすじはこうだ。

<あらすじ>
結婚を機に仕事を辞め、育児と家事に追われるジヨンは、母として妻として生活を続けている。しかし、時に閉じ込められているような感覚におそわれるようになる。ある日から、まるで他人が乗り移ったような憑依する言動をするようになってしまう。そんな心が壊れてしまった妻を前に、夫のデヒョンは真実を告げられずに精神科医に相談に行くが、医師からは本人が来ないことには何も改善することはできないと言われてしまう。

この作品の監督は、キム・ドヨンという女性の監督であり、長編デビュー作だという。確かに、全編通してドキュメンタリーフィルムのような無垢な素材感が、とてもみずみずしく初々しさを感じる。

まるで、作り物のフィクションというよりもノンフィクションに近く、自分自身もキム・ジヨンになったかのごとく感情移入してしまう映画だ。ただただ、主人公であるキム・ジヨンのほつれ髪が痛々しく、様々なシーンで胸が痛む。

そうだ、キム・ジヨンの人生や生活に共感し、その痛みに憑依しながら観る映画なのである。

女性だからこそ、ぶち当たる壁や天井。
妻、嫁、母親という他人からつけられている肩書の息苦しさ。
女性故に見舞われる(性的な)危険への恐怖。

どれもが、これまで「当たり前」とされてきて、誰もが言葉を飲み込んで我慢してきた胸の痛みが、キム・ジヨンの涙と一緒にこぼれ落ちるようだ。すべてのシーンが、キム・ジヨンを通して多くの女性の心に染み込んでいく。

傑作であり、秀逸な映画だと思う。

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優しく、理解ある夫がいてもなお、
社会のジェンダー差別に打ちひしがれる

本作、『82年生まれ、キム・ジヨン』におけるジェンダー差別の描き方で、特徴的な事が一つある。それは、側でジヨンを見守る、優しく理解ある夫の存在だ。

普通なら、夫との間で起こる夫婦の歪みを描くのだろうが、本作での夫は、すこぶる優しく描かれている。むしろ、『こんな優しい夫がいて、何が不満なの?』と思われてしまうほどだと思う。

しかし、優しく理解ある夫がいてもなお、キム・ジヨンを取り囲む、母親・妻という肩書(役割)は、重く冷たくジヨンの心を蝕んでいく。周りの期待に応えよう応えようとすればするほど、潜在的意識の中で抵抗する自分とぶつかりあい、結果的に自分自身が壊れていってしまうのだ。

誰も悪くない。
誰のせいでもない。

キム・ジヨンの心の中で起きている悲劇は、世の中の女性が誰しも体感している、見えない社会のジェンダーギャップなのだ。それは、キム・ジヨンの母親、そして祖母の時代から続いている根深いジェンダーギャップだ。

そういう意味では、冒頭で述べた政治家たちによるジェンダー差別発言における炎上と同じように、社会に投げかけるジェンダーギャップへの問題提起としては、『82年生まれ、キム・ジヨン』という映画は、非常に価値ある作品にしあがっていると感じた。

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妻とか嫁とか母親という肩書はいるのか?

少し強引な物言いをすれば、生物学的な性差という側面での女性と男性の大きな違いは子供を出産するという事だけなのかもしれないと思う事がある。もちろん、筋肉量や背の高さなどの身体機能的の違いは、当然のごとくあるものの、男女のライフサイクル上のイベントだけでみたら、「出産」という事以外に、さほどの差は無いように思う。

子供ができる営みも、子供が生まれた後の子育ても、本来であれば平等であるべきだ。

しかしながら、なぜか世の中は『母親なのに』『母親のくせに』『嫁なんだから』と、肩書と役割と責任を押し付けたがる。

望まない妊娠をして、やむなく病院以外の所で産み落としてしまった少女に対しては、まるで一人で妊娠して、ひとりで子を殺してしまったかのような捉え方をされてしまう事もある。(一人では決して妊娠しない。こういうケースも父親の存在を無視してはならないと思う)

子供を産める『女性』という素晴らしい性別に生まれ、未来を育む重要な役割を担うのだが、これからは、女性が望めば望んだ事が、かんたんに実現できる社会になっていることが望ましいと私は思う。

いつの日か、この世からジェンダーギャップという言葉が無くなっていくように、社会のあり方、個々人の価値観が変化していったら、この上なく美しい事なのではないだろうか?

誰の心にもいる『キム・ジヨン』。
いつか、なんの肩書もなく自由に自己実現をしている『キム・ジヨン』に会いたいものである。

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